横光利一に自分の嫌なところを炙られて約一世紀越しに本質を問われる。
前回の記事で年末年始の読書に閉じ籠ろうかと思っていたが、どうしても今年中に書き残したいと思える作品に出会った。
一回読み、すぐにもう一度読み返した。こんな事は初めてで、あまりに不明瞭で落とし込めず、だけど「人間」としての本質的な事を物凄く明瞭に描いてる。
機械とタイトルがついているけどそれは歯車みたいだ。ズレを把握していても一定の法則で回っていく。誰かが入れ替わり立ち替わりその歯車になる。
横光利一を知ったのは、大江健三郎と安部公房を考察している論評集からだ。ここで当時の識者達の対談で横光利一と大江健三郎について語っている対談に興味を持ち調べた。
志賀直哉と並び小説の神様や文学の神様と謂われているのを知ったのはこれを読み終わったあとのこと。
1930年に発表されたこの短編小説を90年以上前に書いていたなんて信じられない。私の読書知識が浅いからなのか知らないが新しいと感じてしまう。
読み始めてすぐに不快な違和感に当たる。これが何かを納得するのにしばらく時間がかかった。
句読点がほとんどないその文章は読み手を勘違いさせていく。
まるでそれこそ機械が喋っている。人間なのに。そんな感覚になっていく。物語の前段で仕事で劇薬を使用して薬品により体が段々悪くなることに触れている。それもまた、人間としての感情を喪失していく過程を肯定させるフックになっている気がする。
そもそもこの事に対しての違和感なのか、文体の違和感なのか、それともこの物語の人間模様における違和感なのか、今でも理解出来ない。
だけど描く表現が私好みで思いっきり引き寄せられた。
人間の本質は90年経過しても何も変化していない。思想や感情というものの進化はどうしたら証明出来るのだろう。
そして、秘密に関してのこの表現に嫉妬した。
第三者が関与することで、急に秘密の比重が変化し秘密が軽くなることを言っている。
私の今生きる社会でもまさにこれだ。
「○○が言ってたんだけど」
必ず、頭にこれをつけて秘密を発言する人がいる。自分は第三者だけどと自己防衛に走りながらコミュニケーションを取ろうとする人だ。
私は毎回これを聞くと笑顔になる。
この人は、軽い奴だなって本当に思う。だけどそれを感じながら心の奥底で考えているのは、
これだ。その人の発言を注意する気持ちも起きずに取り繕い何か面白いことが起きればいい、問題になればいい。と笑顔で思っている。
こういう内面の炙り出し方を表現でされるとたまらない。人間の本質は、時代環境に何ら左右されないんだ。変わってないんだ。面白いなぁ。と本当に感じてしまう。
物語は残酷な事が起きるのに何の感情も持ち合わせないただの事実として機械的に表現をされていく。
すなわち、ある事象の当事者になろうとも一定の感情がその相手に移入しない限り全て他人事なのだろうと感じた。
良くわかる。私の根底と同じ感覚だから。
思いやりや、信用、信頼の実際の薄さの恐怖が常にある。それらを人は簡単に裏切れる事を経験してきているからだ。
だから、私も機械的な嫌な奴だ。
これ以上書くと感情を失くしそうなので物語と同じ終わり方をさせてもらう。
なんのはなしですか
私は少なくとも「人間」が変わらぬ本質で同じ感覚に悩んでいたと知れて文学がより近くなった。より好きになった。
楽しき我が道。
この本は、何を書いているのか理解難しいが知らぬ内に技術と表現で読まされる。30分くらいで読めるし青空文庫でも読めるので年末年始にぜひ一度自分の嫌なところを見つめ直しては。
そうだ。
なぜ対談の主題が横光利一と大江健三郎についての対談だったのか理解した。
どちらも圧倒的に時代を突き抜けてる。
さて私は読書が楽しいのか、「人間」が楽しいのか。
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。