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本能寺の変1582 重要 ◎第20話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

◎第20話 

5藤孝との出会い 1将軍殺害 2/3 

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その一因 
見えてきたもの 目次 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 19 ◎ 20 ◎ 21 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 

◎義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。

 覚慶は、一乗院に幽閉された。
 以後、彼の人生は、時代の波に大きく翻弄される。

  然うして、二男御舎弟南都一乗院義昭、当寺(興福寺)御相続の間、
  御身(義昭)に対し、聊(いささ)か以て野心御座なきの旨、
  三好修理大夫・松永弾正かたより宥(ゆる)し申され侯。

  尤(もっと)もの由仰せられ侯て、暫(しばらく)、御在寺なさる。                         

◎この覚慶こそ、後の足利義昭である。

 義昭は、天文六年1537の生れ。
 信長の三つ下。
 この時、29歳。
 父は、室町幕府第十二代将軍・足利義晴。
 母は、関白・近衛尚通の娘(慶寿院)である。
 義輝は、一つ上。
 同腹の兄。
 幼くして、母方の叔父にあたる時の関白近衛稙家の猶子となり、
 奈良興福寺の一乗院に入って、「覚慶」と名乗った。
 永禄五年1562、一乗院門跡を嗣ぐ。

◎義昭(覚慶)は、奈良を脱出した。

 義昭は、夜陰に紛れて姿を消した。
 甲賀の和田惟政の館へ入った。

  或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、
  和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、
                          (『信長公記』)

 こちらは、多聞院英俊の記録。 

  廿八日夜、一乗院覚慶 僧都(そうず=僧正の次位)、廿十九才、
  寺を御離れおわんぬ、
  御落所、翌日にもしれず、
  甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
  去る五月十九日、将軍御生害、三十歳、
  御舎弟、鹿苑院殿、同上、廿一歳、
                         (「多聞院日記」)

◎義昭は、幕府再興に動き出した。

 和田館に入って、わずか数日。
 義昭(覚慶)は、己の意思を表明した。
 すなわち、上洛。
 なれど、その道のりは、遠し。

◎光秀は、後に、この義昭に仕えることになる。

 そして、「歴史」に登場する。

◎義昭は、上杉謙信を頼った。

 その年、永禄八年1565、八月。
 先ずは、越後へ。
 御内書を発す。

  今度(こたび)、京都様躰、是非なき次第に候、
  其れに就き、和田に至り取り退(の)き候、

  進退の儀、万端任せ置き候間、
  早速、無念を散じ候様、
  入魂(じゅこん)、偏(ひとえ)に、頼み入り候、
  
  委細の段、大覚寺門跡え申し候間、演説有るべく候
  穴賢(あなかしこ)々々、

    八月五日         (花押)
    上杉弾正少弼殿

                         (「上杉家文書」)

◎謙信は、これまで二度上洛している。

 天文二十二年1553と永禄二年1559。
 謙信は、これまで二度上洛。
 将軍義輝に拝謁している。
 そのことがあった。
 室町幕府として、最も、信頼を寄せる戦国大名だった。

◎大覚寺義俊が上杉の窓口だった。

 義俊は、真言宗大覚寺門跡。
 関白近衛尚通の子。
 稙通の弟。
 義昭にとっては、母方の叔父にあたる。
 謙信との親交が濃密であった。 

 以下は、義俊の副状である。
 
  急度注進申し候、

 
これによれば、松永久秀が覚慶(義昭)を幽閉していた。
 これに対して、開放すべく交渉したのが朝倉義景であった。

  一乗院殿南都御座所の儀、
  御番を居え候て松永堅く申し付け候へども、
  朝倉左衛門督直談せしめ、種々調略を廻らし、
  去る廿8日、甲賀和田の城に至り引き退かれ候、

 義俊は、謙信の出勢を期待した。

  公儀御家督、相定まり候間、先ず以って珍重に存じ候、
  其れに就きて、当国の人数も出勢あるべき由に候、

◎丹波の赤井直正。

 また、丹波では。
 これに連動して、三好方と反三好方の間に戦いがあった。
 赤井直正が内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取った、とある。 

  将又(はたまた)、丹州の儀も、
  去る二日、奥郡荻野惣右衛門尉(直正)手前に於いて、
  内藤備前守(宗勝)其の外七百余人討ち捕り候、
  一国平均に成り申し候間、此の砌(みぎり)御出張有るべく候条、

◎やがて、光秀の宿敵となる男である。

 この直正、後に、光秀の大きな障害となる。

 これについては、後述する。

◎大覚寺義俊は、上杉に傾斜していく。

 重ねて、謙信の援助を乞うた。

  早々御上洛の儀、待ち奉り候、
  是非とも御才覚を以て、御当家御再興此の時に候、
  偏に仰ぐ所に候、

  仍って、扇子十本進献せしめ、賀儀を表す計りに候、
  猶、祐阿(水原)申し入るべく候間、再筆能わず候、
  穴かしこ々々々々、

    八月五日         (花押)
    上杉弾正少弼(謙信)殿
                         (「上杉家文書」)



 ⇒ 次へつづく

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