【ロックンロールと私の未来】『ボーン・トゥ・ラン:ブルース・スプリングスティーン自伝』ブルース・スプリングスティーン
私の人生、たった一つだけ後悔があるとすれば、1985年のブルース・スプリングスティーン来日公演を観れなかったことである。
入れ違いでアメリカの高校に留学していたからだ。
あとは、ほぼない。
「お前がアメリカに留学しようが博士号を取ろうが、
オレはスプリングスティーンの来日公演を体験している。
アレ以上のものはこの世に無い!」
と、私の幼馴染は酔っ払うたびに語る。
私はこの話を聞く度に、とある戦争未亡人の話を思い出す。
彼女は戦争で旦那を喪ってからずっと再婚することなく暮らしている。
曰く、
「お互い初対面でお見合い結婚して一週間後に旦那は徴兵されて戦死した。でも、あの一週間の思い出があれば私は生きていける」
年々思うのだが、
人生の幸せはとは「時間の長短」ではなく「質量」である気がする。
乾坤一擲、一瞬の「重み」だ。
幼馴染のスプリングスティーンには負けるのだろうが笑、
天気の良い日に黄金の′80年代ヒットチューンを流しながら基地のフェンスに挟まれた沖縄の国道58号をクルーズすると、軽く飛ぶ。
それはアメリカ留学時代の思い出と直結している。
私のアメリカ高校時代の思い出は、
青空とアメリカのダチのオンボロのアメ車の助手席で聴いていた、
カーラジオから流れる80年代ヒットチューン、
そして週末のパーティーである。
オンボロのアメ車が「今週末のパーティー担当者」のダチの家に着くと、
周りには同じようにアメリカのダチたちのボロ・アメ車が列をなして並んでいる、パーティー会場のサインだ。
そこに意気揚々と乗り込むと、まずは「COORS」を開けて乾杯だ。
リビングには、昼間教室で席を並べていた男のダチどもがCOORS片手に嬌声をあげ、着飾った女子たちは「ハ~イ!ジョ~~~ジ💛」とハグをしてくる。
自分もビール片手に徘徊し、色んなヤツらと喋る。
一度、フットボールの試合の後に、しこたま呑んでからライバル校との「恒例の」喧嘩に向かう不良チームと一緒に喧嘩会場に向かってたら通報で駆け付けたポリスにとっ捕まり、
「あちゃ~、留学生のオレが捕まったら強制送還だ!人生終わった~!」
と人生(たかだか18年の笑)が走馬灯のように回っていたら、
先にポリスの身分検査を終えたダチが検問の列に並んでいたオレの腕をいきなり引っ張って車(バン)に押し込んだ。
私はバンの中で身を伏せて、車は走り出した。
途中、証拠隠滅のために、積んであった瓶のビールをガンガン道に捨てながら現場から逃げ切ったときは、みんなで「きゃっほ~!」と嬌声をあげた、、、、
もう二度と体験することは出来ないが、
そんな「思い出」の密度と輝きは年々増している。
そんな「思い出のダイヤモンド」を一粒ないし二粒三粒持っていれば、
後はそれを肴に酒呑んで暮らしていけるのだ。
さて、
朝、
ブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』や『ザ・リバー』を爆音で鳴らしながら通勤している、
もちろん一緒に歌いながら。
よく晴れた読谷村から恩納村へ向かう海岸沿いをスプリングスティーン流してクルーズしていると、しばしば初めて彼を聴いた高校生の頃を思い出す。
1980年に発売されたアルバム『ザ・リバー』によって、
彼の名前を初めて知った。
そこから遡り、一家に一枚の名盤中の名盤『明日なき暴走』に辿り着いた。
「シケたこの街から飛び出そうぜ、俺たちゃ突っ走るために生まれて来たんだからよ!」
と、歌詞は読まずとも完璧に意味は分かった、
メタ・コミュニケーションというやつだ。
ゴミの様な大人、ゴミの様な学校、ゴミの様な同級生、
そんな生まれ故郷、静岡の、シケた田舎町の澱んだ空気の中でひたすら悶々とロックを聴いていた真っ暗なオレの人生に一筋の光明が見えた、
眩しいほどの。
それは、
フラワームーヴメントが終焉し、ベトナム戦争で疲弊した、
1970年代のドン詰まったアメリカの暗く澱んだ空気の中にブルース・スプリングスティーンが登場した時、
「ロックンロールの未来」と称された感覚と完全に同じはずである。
腐った田舎街でドン詰まっていた高校生の私は、
ブルース・スプリングスティーンを聴いた瞬間、何の根拠も無く、
「よし!イケる!」
といきなり確信した。
今だにその感覚に一分の曇りもない。
何しろその後の私は「生まれ育ったシケた田舎町」を飛び出して、
今や沖縄の青く澄み渡った空の下、澄んだ海風が吹くシーサイドラインをぶっ飛ばしているのだ。
信じる者は救われる、のである。
ロックンロールの未来を何の疑いなく信じてよかった。
さて最後に、
この本、自伝というより「歌」である。
行間から飛び切りのロックンロール・バンドのサウンドが聞こえてくるのである。