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【1.2万字無料】 ニューメディア研究の古典——『ニューメディアの言語』を読む

*Kindle Unlimitedでもお読みいただけます!

*新刊紹介を起点としたダイアログのシリーズです。


*本の紹介をしたり、感想を話したりしながら、より広く、哲学思想の考え方や面白さにも触れることができるような記事を目指しています。

(今回紹介する本の書誌情報)
レフ・マノヴィッチ、堀潤之(訳)『ニューメディアの言語』ちくま学芸文庫、2023年


話している人

八角 
 株式会社「遊学」の代表。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 哲学をやっている。

しぶたにゆうほ 
 株式会社「遊学」の一員。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 専門を尋ねられると、大学では「数学基礎論」、大学院では「宗教言語論」と答えていた。

基本情報

しぶたにゆうほ(以下、「しぶ」) レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』が文庫化されました。今日はこの本の紹介をしつつも、単にこの本の話に留まるのではなくて、メディア論の本を一般にどう読むか、ということにいろいろ結びつけられるような話もできればと思います。

八角 分厚い!

しぶ 750ページあるね。机に縦に置くと自立する。原著は2001年、日本では2013年に邦訳されて、ちょうど10年後の2023年7月に文庫化されました。「ニューメディア論の古典」と言ってもいいような本です。

八角 そうなんだ。「ニューメディア」って何? ニューメディアっていう言い方自体、古くない?

しぶ そうだね。一般的には、20世紀の終わり頃に技術の発展によって生まれてきた新しい通信媒体のことをひっくるめて、電話・テレビ・新聞・雑誌みたいなオールドメディアに対して、ニューメディアと呼ぶ。もはや「ニュー」じゃない例に聞こえるけど、たとえばFAXとかテレビ電話とかみたいな。この本の著者は少し独自の「ニューメディア」定義をしていて、一般的説明と重ならない部分も出てくるんだけど、基本的な言葉のイメージとしてはそうだね。

八角 なるほど。テレビ電話……。つまり1980年代とかの発想をする必要があるんだね。日本だと万博のちょっとあとの時代感の思想なんだね。生まれる前だからもう想像でしか処理できないけど。

しぶ もう少し踏み込んで言えば、「これはオールドメディア、これはニューメディア」と分類するというより、たとえばコンピュータでデータを扱ったりできるようになったらもう抽象的に「ニューメディア」を呼ぶと考えればいいと思う。そういう意味では、現代はかなり多くのものが「ニューメディア」化している。テレビとかがわかりやすいけどね。

八角 たしかに。

しぶ とにかく20世紀の終わり頃に、色々なものがコンピュータで扱われるようになったり、それまでにない通信媒体が登場したりして、その衝撃を受けてニューメディアの研究というのが盛んになされた。

八角 そういう研究の中の、古典のような位置づけなんだ。

しぶ そう。現代の本でも、新技術の話をするときに、まずこのマノヴィッチの話を持ってきて、あとはそれを土台にしたり比較したり、というのをよく見る。ちなみにマノヴィッチは、最近もInstagramの研究などをしたりなど活躍中です。

メディア論の楽しみ方

しぶ 「ニューメディア」論が「新しいメディアを扱う」ことは言葉からイメージしやすいけど、そもそも「メディアを扱う」ってこと自体が一般的でないかもしれないので、メディア論の何が面白いかというか、ぼくなりの「メディア論の楽しみ方!」みたいな話を最初にしたい。

八角 大事だね。「メディア」ってみんな普通に使ったりするけど、「メディア」がどんな外延を持っているかわからないし、ましてや「メディア論」が何をやってるかわからないもんね。

しぶ 色々説明の仕方はあるけど、僕がよくする説明というか、哲学思想っぽいことが好きな人に分かりやすい説明はこんな感じ。まず、物事には「内容」と「形式」がある。普通は「内容」が大事だとされる。例えば、人に何かを伝えるときに、それが手紙で伝えようが電話に伝えようがメールで伝えようが、とにかくその書かれている「内容」が重要なのであって、どんなものを介して伝えるかっていうことはどうでもいいよね、みたいな発想がまず普通だよね。

八角 本質主義っぽい感じね。内容が大事。

しぶ そう。それに対して「形式」が大事なという発想もある。「いやいや、どんなものを使って伝えるかっていうこと自体が重要でしょ!」っていう発想。日常的に言えば、「重要なことはメールじゃなくて電話で伝えなさい!」とかね。実際、「こんなことLINEで連絡してくるなんて馬鹿にしてるのか!」ってトラブルになったりとか、「わざわざ手紙で伝えてくるってことはやばいのでは…?」って不安を増大させたりとかってことがあるよね。

八角 あるある。信書とか、その発想だよね。日本だと、基本的に紙のほうが、信頼性が高い感じ。

しぶ 「内容」重視する人からすると「えっ、何で伝えるかなんて、どうでもいいじゃん!」と思われるだろうけど、現実には「形式」のほうが、逆に内容に影響を与えてしまうというか、重要さを持ってしまうみたいなことがある。そして、そういう「内容を乗せる何か」みたいなものを、「媒体」という意味で、広く「メディア」っていう風に呼ぶ。

八角 それが「メディア論」というときの「メディア」ってことね。形式が大事って発想なんだ。

しぶ ここでよくある誤解というか、説明のすれ違いとして、「メディア論」って説明したときに、普通はマスメディア、つまりテレビとか新聞とかが想定されるよね。だから「マスコミとかそういうことですか」とか、せいぜい「オウンドメディア(自社メディア)とか、まとめサイトとか、キュレーションサイトとか、そういうもののことですか」って言われてしまう。

八角 普段「メディア」ってそういう風に使うからねえ。

しぶ もちろん、それも扱われる。でも、メディア論がいうところのメディアっていうのはもっと広くて、日常的なやりとりとかで行われるものとかも全部メディアとして扱いうる。コミュニケーションとか情報伝達とか、あるいは創作活動とか芸術とか文化的なもの、例えば絵でも音楽でもなんでもいいんだけど、「何によってそれを伝えるか」の部分が全部「メディア」というふうに考えられている。

八角 「媒体=メディア」だね。ふだん使っている「メディア」よりも広く使うっていうことが重要だね。

しぶ その上で、「映画というメディアだと…」「写真というメディアだと…」という感じで、メディアごとに何がどうなっているとかってことをやるのが、メディア論。こういうふうに考えると、興味が持ちやすいと思うんだけど、どうでしょう。

美学的な問題

八角 美学的な問題だよね。カントの『判断力批判』みたいな感じ……。

しぶ 美学的っていうのをもう少し説明してもらえますか?

八角 そうだね、表現にこだわるとか伝え方の問題とかって、実践的なことだよね。つまり、理論と実践の対で考えると、まず理論的に考える場合って、世界を培養室・無菌室のように捉えて、物理の計算みたいに、理想状態で考える。一般的な科学ってまさにそうで、本質主義的・理想主義的と言ってもいいけれど、「同じ状況下であれば再現できる」という発想だよね。「内容が伝われば伝わったということになる」という考え方はこっち。

しぶ それが理論的に考える場合で……。

八角 でも実践という段になるとそうはいかない。そもそもTPOが違うわけで。時間も場所も相手も違うし、つまり文化や歴史や時代もちがう。目の前にいる人が成人男性なのか、それとも幼稚園児なのか、それともそこら辺で突然会った人なのか、みたいなことで伝え方は変わってくる。

しぶ 例えば?

八角 例えば、家に忘れ物して急いで戻っているときに、道端の人に「じつは私、忘れ物しちゃって急いでるんですよ!」とか言っても、相手からしたら意味わかんないよね。「事実そうなんだから、内容を言ったんだから伝わるよね!」とか言ったところで、変な人だと思われるし、そもそも場全体が意味不明な状態になるよね。

しぶ コンテクストと無関係に話が通じるわけではない、ということね。

八角 もっとよくある例で言えば、真面目な話をしている時に突然変なおちゃらけたこと言い出すと怒られるし、何かみんなで楽しんでいる時にしらけるようなことを言うと、「空気が読めない」とか言われる。空気が読めないに関しては、今はあんまり言わないかもしれないけどね。何が言いたいかというと、伝わらないことに対して自分が悪いとは思わない可能性があるんだよね、本質主義だと。

しぶ 「内容をちゃんと言ってんだからわかるでしょ」って思ってると。

八角 そう。でもそうじゃなくて、相手側の状況もあったりだとかということを、実践という場になるとちゃんと考える必要がある。つまり、その場に合わせて何かしら表現方法を変えたり、情報の出し方を変えたり。でもそれは「内容が伝われば伝わる」とだけ思っている場合とは全然違う次元の話なので。

しぶ 子供に話すときは噛み砕いたりとかね。

八角 だから、ここからは私の主張ですけど、何か内容を伝えたいと思っていて、それを実際に伝えるという段になって、じゃあ伝え方を考えますって考えるときには、もう実践的な次元のものになっていて、それは全て美学的なものだと思っている。つまり表現方法とか伝え方とか状況を考えるとか、何かわきまえるみたいなとかっていうのは全部美学の問題だと思っている。

しぶ それを「美学」と呼ぶのはなんで?

八角 人間にどう伝えるかということ、つまり表現の問題に関しては、美学がやってると思ってるから。カントの『判断力批判』でもそうだけど。理想の理論とか、内容を伝えればいいとかっていう本質主義的なことは、例えば『純粋理性批判』だの『実践理性批判』だのそういうので、「こういうふうに認識はなってます」とか「こうあるべきです」とか、理論上はそうなると言っていて、でもそれをじゃあ現実に落とし込んで考えた時にどうするのかっていうのが『判断力批判』でなされている。だから私は、「理論ではそうなっているし、そうあるべきだっていう話になるけど、じゃどうするの?」の問題を全て「美学的な問題」と言っている。

しぶ なるほどね。いかにも古典的な美学の例を挙げるなら、レッシングが、「彫刻は物体を描くのに対して、文学は行為を描く」(どちらもその逆は描くことができない)という分析をしているけど、この手の話はまさに形式を重視した比較だね。ある人物が、ホメロスの詩の中では叫んでいるけれど、彫刻では叫ぶ直前の姿になっている。それは彫刻と文学という形式と不可分になっていて、同じことを描いてるからいいじゃん、とはならない。

八角 どう伝えるかっていうのは論理構造とかの話じゃないんだよね。相手がちゃんと論理構造を把握できる人ならいいけど、そうとも限らないし、情報を持ってる量も違うだろうから、「どの情報を出してどういう論理構造で言うか」っていうことはやっぱり別の次元の話。「内容さえ伝えればいい」っていう考え方はさ、相手がいなくてもいいんだよね。

しぶ そうだよね、宙に浮いてればいいから。逆に言えば、真偽が問えるってのはそういうことかもしれないな。コンテクストによらないという世界観……。ちなみに、マノヴィッチ自身は「美学」という言葉は、〈美/醜〉〈価値ある/価値ない〉のような尺度を連想させてしまうから敢えて避けているらしい(70頁)。

八角 そうなんだ。

しぶ まあ、わざわざそのことを明記する必要があったことから逆にわかるけど、まさに「美学」と呼んでいいような本だよね。その言葉を使い慣れている人からすれば。

メディアが変われば行動も変わる?

八角 じゃあ、そろそろメディア論の面白さの話に戻ると……。

しぶ 戻ると、内容に対して形式(=媒体)を考えて、その形式とか媒体の固有性みたいなものを強くとって考えるところがメディア論の面白さだという話でした。まあ、これは思想側から見た説明ではあるけど。実際にメディア論の個別のことをやってる人は、それぞれもっと具体的なことをいっぱいやってるはずなので。でもとにかく、思想的にはそう説明できる。

八角 「メディア論」を思想的にそのように説明できるとして、今回読んでいるところの「ニューメディア論」はどう説明できますか?

しぶ 20世紀末に、それまでなかったような「媒体」、つまり「形式」がいっぱい出てくる。メディア論的に考えれば、「単に『古い伝達方法』が『新しい伝達方法』に変わっただけ」とはならない。それまでになかった、新しい形式に固有の問題がたくさんあることが想像できる。例えば、メディアが変われば人々の行動様式も変わるかもしれない。そういう意味での色々な新しい問題について論じるのが「ニューメディア論」。

八角 つまりニューメディア論というのは、20世紀末以降の新しい(ニュー)形式の問題を扱っているんだね。この『ニューメディアの言語』という本に即して、具体例はある?

しぶ 第5章の話とかは、ある意味「メディアが変われば行動も変わる」という話として読めるかも。

八角 へー。そうなんだね。

しぶ ニューメディアと、それまでのメディアでは、「慣習」(フォーム)がちがう、という話が書かれている。しかも、単に「ニューメディアを使っている時にその慣習で使われる」というだけではなくて、その慣習が文化全体に逆輸入されて、文化を規定するみたいなことになっている。ここで出てくるのは「データベース」と「航行可能な空間」という2つの慣習。

八角 慣習で考えるのって社会学っぽいね。でも、「データベース」が慣習ってよくわからないんだけど。

しぶ ここは込み入っていて、後で適宜説明します。そもそも、もとの本だと「慣習」は「フォーム」と同義で使われていて、この「フォーム」は「形式」って訳されるのが普通なんだけど……。

八角 オッケー、込み入ってるのはわかった。「データベース」は良いとして、「航行可能な空間」というのは何?

しぶ 3Dゲームに代表されるような、中を移動できる仮想空間のようなものです。ほら、こないだ、メタバースについてこんなやりとりをしたよね。

八角 メタバースも、ゲーム世界の模倣なので、ゲーム世界であり得る発想でしかメタバースはできないと思う。

しぶ メタバースの発想が既存のゲームの想像力を超えられないというのはそうだと思うんだけど、ゲームが描いてきた世界観のバリエーションって、いわゆる今のメタバース的な世界観よりもっと多様なんじゃないのって思ったんだけど。

八角 いや、そんなことないと思うよ。「多様」ということで何を指しているのか分からない。ゲームの思想って1つしかないんだよ。思想が1つしかない状態でめちゃくちゃなものは作れないでしょう。基本に反するルールに基づくような世界は作れないと思う。

しぶ あのとき言っていた「ゲーム世界であり得る発想」「ゲームの思想」みたいなものが、ちょうどこの「航行可能な空間」という発想に対応すると思う。ゲームに限らず、ニューメディア時代を規定するようなもの。

八角 えーっとつまり、その時代とか地域とか文化とか、共同体レベルで、特に説明しなくても通じ合うようなまあ要は「コモン・センス」みたいな「常識」とかを指して言ってるんだね。

しぶ そういう言い方もできるね。ニューメディアを扱う人がみんなで明確に意識して「こういうふうにしよう!」と示し合わせていなかったとしても、ある共通性を持ったものが生まれてしまう、そしてそれが昔と今では異なっている、という。

八角 だから「慣習」なんだ。

しぶ マノヴィッチ曰く、「あらゆるニューメディアのデザインは、この2つのアプローチに還元できる」(461頁)。つまり、「データベース」と「航行可能な空間」に。例えばぼくたちは日常的にGoogleとかで「検索」をするけど、「深層に膨大なデータが溜まっていて、それを表層に呼び出している」という意味ではデータベース的だよね。これが、文化全体に染み出している。マノヴィッチの見立てでは、ニューメディア以前だったら、リニアに、つまり「ナラティブ(物語)」的に考えていたところが、ニューメディアでは「データベース」的になった。

八角 えーっと、データベース的、ナラティブ的ってどういうこと?

しぶ データベースだと、そのつどそのつど検索とかによって表層に呼び出されて、配列が変わる。だから、決められた秩序はない。それがデータベース的。それに対して、例えば小説だったら、順番に読むことが想定されているよね。それがナラティブ的ということ。

八角 そうか、バラバラのものを呼び出すって普遍的じゃないのか。データベース的世界に慣れ親しんでいるから、言われないとわからないね。

しぶ もちろん、3Dゲームにもストーリーがあるわけだから、その意味でニューメディアにもナラティブはある。だけど、昔ながらの小説にナラティブがあるのとはもはや違う形になっているとか、そういうことを考えるわけだね。データベースを前提して物語が進んでいく、という形になっているとかね。

八角 なるほどね。でももう私には、データベースを前提としていないナラティブというのが何を指しているかわからないかも。

しぶ この「ナラティブ」から「データベース」へという変化は、世界の見方そのものと関わっている。ニーチェ的に言えば神が死んで、リオタール的に言えば大きな物語が終わって(どちらの思想家もマノヴィッチ自身が引き合いに出している;467頁)、世界はデータベース的になった。

八角 そうなんだ。メディアが変わると見え方が変わってしまうんだね。そういえば、写真家の大山顕さんが、「スマホで写真を撮るようになって、我々の認識もスマホのカメラを覗くような仕方で見るようになっているんだ」みたいな話をよくしていて、「言われてみればその通りだ」と思ったんだけど……そういう話だ。

しぶ まさにそういう話。「文化自体の変化」と「媒体の変化」を関連づけて捉える。こういうの、意外と普段の仕事とかにも関わる話で、例えばあるお店があったとして、「店舗がどんな形になるのか」「お客さんがどんな消費行動をとるのか」は人々のメディア的想像力に間接的に影響される。そういうのは広く言えば全部メディア論だし、だからニューメディアみたいに「新しいもの」が出てきた時にどう対応するかって重要な話なんだよね。

分厚いけど、どう読んだらいいの?

八角 それにしても、分厚くない……?

しぶ さっきのデータベースとナラティブの話1つとっても、具体例がたくさん出てきて、しかもそれが何トピックもある、みたいな感じだからね(笑)。「これ当時はめっちゃ流行ってたんだろうなあ」みたいなゲームの例とかがいっぱい出てくる。固有名詞も多い。ある意味、文化史的にも面白いかも。

八角 なるほどね。これだけ分厚い本だと読み通すのも大変そうだけど、どういうモチベーションにして読んだらいいだろう。

しぶ うーん、「全体を捉える」っていうふうに意気込まないのであれば、「なにかアイディアをもらう」ぐらいでいいんじゃないかなと思うけど。普通の読書なら。

八角 アイディアっていうのは?

しぶ さっき「美学的な問題」って言ってもらったわけだけど、まさに「美学」っぽい問いの立て方というのがある。小説を読んで、「なぜ著者は、この箇所でこの表現で書かねばならなかったのか」と問うとか。つまり、どんな対象を相手にしている場合でも、内容ではなく形式に注目して「なぜこの形式を取らねばならなかったのか」というような議論の立て方があるわけだよね。

八角 うん。そう思うよ。

しぶ この本は、そういう「形式への注目」の良質な例をたくさん集めた本だとも言えるから。『ニューメディアの言語』全体の構造を把握して主張を理解するという読み方とは別に、様々な例に注目して「こういう目の付けどころがあるのか!」みたいなインスピレーションをもらうみたいな読み方はできるね。ちょっとした商品開発とかデザインのアイディアにもつながりそう……ちょっと読み方としてはマニアックかね?

八角 いやぁ〜いいんじゃない?

しぶ 自分がもしこの本を、細かい文脈とか知らずに読んでいたとしたら、そういうモチベーションかなと思う。人に何かを説明するときの仕方として、例えば「このマンガはここが面白いんだ」みたいに言うときに、「普通はこういうコマ割りにならないんですよ! だけど、このコマ割りになっていることが物語内容にも効いてるんですよ!」みたいな説明の仕方ってあるよね。その手の「形式への注目」の、現代のメディアに固有なバージョンとたくさん出会える。

八角 本の内容に即していうと、例えば?

しぶ 例えば、3章あたりを見ますか。ニューメディアに特有の「オペレーション」が3つ取り上げられているんだけど……。

ニューメディアの形式への注目の例:3つのオペレーション

八角 待った! 「オペレーション」って何?

しぶ それはそうだ。えっとね、例えばコンピュータで文章を書くときに、コピー&ペーストってするでしょう。

八角 する。コピペ。

しぶ そのコピペ作業って、コンピュータ上では写真や図形に対してもできるよね。さらに言えば、音声や動画もやっぱりコピー&ペーストの作業ができるというのは(実際に編集した経験がなくとも)何となくわかると思う。

八角 そうだね。

しぶ ここでいうコピペみたいなものが「オペレーション」にあたる。「操作」って言っちゃうと曖昧すぎるかな……まあ、「アプリ上の操作」あたりがイメージに近いと思う。

八角 なんとなくわかるけど。文章以外の、動画とかの例を出したのは意味があるの?

しぶ コピペというのは「文章限定」とか「この動画編集ソフト限定」とかじゃなくて、コンピュータ上の多くのものに共通した操作だよね。マノヴィッチもそういう感じで使っている。

八角 つまり、ニューメディアに広く用いられるような、でもニューメディアに特有の操作=オペレーションが取り上げられているということね。

しぶ そう。3章では「選択」「合成」「テレアクション」という3つの「オペレーション」が取り上げられている。

八角 例えば、「選択」がニューメディアに特有の操作なの? どういう意味で?

しぶ ニューメディアでは、何かを作るときに「0からの創造」ではなくて、「選択肢を選ぶ」というものになったって話。確かに、コンピュータで文章を書くときにフォントを選んだり、文字の大きさを選んだりするよね。ペイントソフトでも、線の太さを選んだり、決められた色から選んだりする。手書き(手描き)なら「ただとにかく0から書く(描く)」だけで、「選ぶ」ことはしない。

八角 なるほどね。

しぶ これは結構なるほどなって思った。現代的に言うと、Chat-GPTに「冬の空を描写する文を10個書いて」って書かせて良いものを1個選ぶ、とかの繰り返しでも創作になりうるわけだよね。つまり、生成AIのような問題は、ニューメディア時代が始まった時点ですでに潜在していたとも言える。

八角 「選択」がニューメディア的オペレーションってそういうことね。

しぶ そう。今の話の中で、絵や文章のデータ(内容)について全く気にかけていないよね。データに対して「選択する」と言う操作(形式)に注目している。

八角 そうだね。次の「合成」は?

しぶ いわゆる合成写真とかの「合成」。「選択」した諸々をくっつけて、「継ぎ目のない単一のオブジェクトを作り出す」(308頁)。これがニューメディアに特有な「合成」。

八角 「継ぎ目のない」?

しぶ マノヴィッチによる、昔からあるメディアとの比較が分かりやすい。例えば映画だと、シーンとシーンのつなぎは「つぎはぎ」で行われている。いわゆるモンタージュ。

八角 そうだね。モンタージュとかコラージュとか……そこらへんの美術用語は細かい使い方が難しいんだよね。

しぶ いずれにしても昔のメディアでは、つなぎは「つぎはぎ」、つまり境界線がある。それに対して、ニューメディアでは、境界線がない。

八角 境界ないの?

しぶ 昔のメディアは、小説でも映画でも、「時空間がぱっぱって切り替わる、その間は描かれない」っていう発想だけど、ニューメディアでは、3D空間を移動するようなイメージになる。FPSとか、VRとか。

FPS :
ファースト・パーソン・シューティング。
操作キャラの視点でゲーム世界を移動するシューティングゲームの総称。

八角 なんでFPSが境界線がないものの例なのかわからない。

しぶ 例えば演劇の第1幕が室内で、第2幕が家の外だったとしても、その移動はぶつっと場面転換で切り替わるわけだけど、FPSだと連続的に歩いて移動するでしょう。

八角 そういうことか。

しぶ 他にも、スペクタクル映画での「CG」と「実写」のシームレスな合成とかね。この本が出たのは2001年だけど、『タイタニック』が97年、『マトリックス』が99年だから、まさにVFX激動の時代で「合成やば!!」って感じだったかも(いずれの作品も他の箇所で実際に言及されている)。

八角 なるほどね。それで3つ目の「テレアクション」ってのはなんですか。言葉として聞き慣れないけど。

しぶ 「テレ」は「離れて」の意味。離れたアクション。

八角 それはそう。

しぶ マノヴィッチによると、〈遠くが見える〉技術と、〈遠くと連絡が取れる〉技術は別に発展してきたんだけど、それが20世紀に交わった。それがニューメディア特有のテレアクション。

八角 例えば?

しぶ 前にメタバースの議論をしたときに、こういう話をしていたよね。

八角 例えばアメリカの空軍だかどこだか、飛行機の操縦の練習……どころか実際の操縦もそうだけど、プレイステーションのコントローラー使ったりもしてるし、潜水艦もゲームのコントローラーになったりしているし、確かF1のハンドルもゲームのコントローラーみたいだったよね、有名な話で。

八角 してたね。

しぶ その話ともつながるけど、遠隔で画面を見ながら手元のコントローラーを操作して相手を撃つ……というのが、現代の戦争では当たり前のようにあるらしい。これこそまさにテレアクション。もう少し穏便な例なら、UFOキャッチャーをネットで遠隔でやるとかでもいいけど。

八角 なるほどね。

しぶ まあ、何は置いてもインターネットそのものがテレアクションだよね。マノヴィッチももちろん書いてるけど、ページからページ、サーバーからサーバーへ飛び回る。

八角 そうだろうね。

しぶ マノヴィッチ曰く、「選択」と「合成」は何かを作る仕方に関係していたけど、「テレアクション」はそれにアクセスする仕方に関係している(351頁)。だからさっきの話に引きつけると、ニューメディア特有の、アクセスの形式に注目する、とも言える。

八角 もとの話で言えば、選択にしろ合成にしろテレアクションにしろ、内容ではなく形式に注目してるっていう話ってことだね。

しぶ そういうことでした。

どういう人におすすめか?

八角 この本はどういう人におすすめですか?

しぶ 今の時代は、どんな仕事をしていても、どこかで「技術」や「デザイン」と関わると思うんだよね。だから「技術」や「デザイン」について考えたい人、アイディアのヒントをもらいたい人はたくさんいるはず。そういう部分でピンとくる人にはおすすめです。

八角 なるほどね。

しぶ この本でもたびたび言われるんだけど、ニューメディアの時代というのは「デザイナー」と「ユーザー」が重なり合っているような時代なんだよね。古風に生産者と消費者と言ってもいいかもしれないけど。ユーザー側だからデザインや技術に触らないってことはあまりなくて、あるタイミングではデザインや技術を使う側になる。個人でお店のチラシ1枚つくるのだって、技術やデザインに関わることになるし。

八角 前に民主主義の話で言及した、「テクノロジーの民主化」とも関係あるね。

しぶ そうね、まさに「テクノロジーの民主化」だの「AIの民主化」だのという言い方が最近はよくされるけど、昔は大企業が独占していたようなテクノロジーを個人や小さな会社でも使えるようになったことはたくさんある。

八角 『ニューメディアの言語』の内容に即して、もう少し説明して。

しぶ この本が書かれたのは2001年だから、「現在進行形で新しいものいっぱい出てきてる!」っていう時代に書かれてるわけなんだよね。その時代に、同時代の記録を残すというつもりでも書かれている。だからまさに「ニュー」メディアなんだけど、20年以上経った現在から見れば、ニューメディアは「馴染んでいる前提」「みんなが使って普及しているもの」だよね。

八角 そうだね。

しぶ つまり、当時は「ニュー」だったかもしれないけど、今は全ての人に関係する共通前提のようなものなわけで。だから、誰が読んでも何かしら参考になりそう。しかも、その共通前提がどのようなものなのかを、それがまだ目新しかったころにきちんと対象として捉えて、理論的に言語化しているというのは、とても良い。

八角 他に、別の角度から「こういう人におすすめ」というのはある?

しぶ 最初のほうに言ったこととも重なるけど、「語り口」という観点から参考にするという面がある。

八角 語り口?

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