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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈46〉

 検事である父が息子のタルーを誘って傍聴させた、自らが担当するその裁判の被告人は、ある一人の若い男だった。
「…この日のことについて、僕の心にはたった一つのイメージが残っただけだ。それはその罪人のイメージだった。僕はその男が実際に有罪だったと信じるし、それがどんな罪だったかはたいして問題じゃない。しかし、その小柄な、年は三十ぐらいの、貧弱な赤毛の男は、何もかも認めようとすっかり決心している様子で、自分のしたことと、これから自分に対してされようとしていることとに、すっかり心からおびえている様子で、しばらくすると、僕の目はただもうその男にだけひきつけられてしまった。男はまるであんまり強い光線におじけ立った梟という様子だった。ネクタイの結び目もカラーの折り口にきちんと合っていなかった。一方の手、右手の爪ばかりかじっていた……。要するに、くどくいわないでもわかっただろうが、この男は生きていたのだ。…」(※1)
 どこにでもいる、何の変哲もない気弱そうな若者。他の人々に紛れるかのように巷の中で普通に生きてきて、しかしどこか報われない暮らしを余儀なくされてきたであろう、憐れでみすぼらしい一人の男。タルーの眼にはそのとき、彼自身としてはそれまでどこの誰とも知ることのなかったこの男の姿が、しかし単なる「被告人という便利な概念」においてではなく「他の誰でもない、この人」として、まさしく現に目の前でこうして確かに生きている、ただ一人の人間として存在しているのだという厳然たる事実をもって、突如として鮮烈に突き刺さってきた。
 今は被告人と呼ばれる立場にある「この男」にも、確かに自分の名前があり、そして彼自身の人生を自分なりに重ねてきたはずである。彼は、「この男」はまさに、ここにこうして生きている。その単純な事実が、若いタルーの心を新鮮な驚きと共に揺さぶった。

 タルーは被告人の男に対して、かつて父親に対してもおぼえたことのないような、「目もくらむような身近さ」さえ感じていた。
 しかし、その男に対して今まさに、他の誰でもないタルーの父が、いつも家庭で見せている様子とは全く違う、厳粛で権威的な態度をもって、それがさも当然であるかのごとくに、被告人を死刑に処すべきことを裁判長に対し要求しようとしているのだった。
「…赤い法服ですっかり変って、好人物でも愛想のいい人間でもなくなった親爺は、大仰な言葉を口にうようよさせていて、そいつがひっきりなしに、まるで蛇のようにその口からとび出してきた。そうして僕にわかったことは、親爺が社会の名においてこの男の死を要求しているということ、この男の首を切れとさえ要求しているということだった。もっとも、親爺はただこういっただけだった−−《この首は落ちるべきであります》。しかし、結局、その違いはたいしたことじゃなかった。しかもそれは実際同じことになるわけだ、なにしろ、親爺はその首を手に入れたのだから。ただ、その場合には仕事をするのは親爺じゃないというだけだ。…」(※2)
 傍聴者たちも、検事による死刑求刑に対して何ら異議なく同意の様子を見せているようだった。タルーは、ここにいる自分以外の全ての人間が、この被告人の死を望んでいるのだということに気づき、そのことにもまた、殊更強く激しい戦慄を覚えるのだった。
 そしてそのときタルーは、父がこれまでもこのように裁判で被告人の死刑を声色高く求め、その判決が確定していざ刑の執行ともなれば、その現場に「職務として」幾度となく立ち会ってきたのだ、ということにも気がついてしまった。さらにまた、その死刑執行の日とは、決まって父が朝早く目覚まし時計を鳴らすときだったのであろうということも、彼は暗い閃きと共に思い当たるに至ったのである。
 それから一年ほどが経ったある晩、父が寝しなに目覚まし時計を準備している様子がうかがえた。その気配をざわめく心に感じたタルーは翌朝、父のセットした目覚まし時計が鳴らされる前に、誰にも告げることなく家を飛び出したのだった。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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