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吉村萬壱なら、 私をどう評価するだろうか? : 『哲学の蝿』

書評:吉村萬壱『哲学の蝿』(創元社)

吉村萬壱の小説については、『バースト・ゾーン 爆裂地区』と『回遊人』以外は、すべて読んでいる。この2冊を読んでいないのは、たまたまの巡り合わせでしかない。買ってはあるのだが、他の本を読んでいるうちに、積ん読の山に埋もれさせてしまって読めなくなり、数年経ってから、今度こそ読もうと再購入しても、その本もまた埋もれさせてしまった、といった具合である。

意識的に読まなかったのは、吉村唯一のマンガ作品『流しの下のうーちゃん』で、こちらはマンガ作品として、純粋に絵柄が趣味に合わなかったからだ(イラストとしてなら、いいのだが…)。
私は、マンガの場合、絵柄が趣味に合わないと、どうしても読む気になれず、それで読み逃している名作マンガがいくつもある。中身が良いのはわかっていても、文芸作品とは違ってマンガの場合は、どうしても絵柄が目に入った段階で「これは読めない」となってしまうのだ(だいたい「垢抜けしない」系はダメだ)。

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したがって、エッセイ集は、本書以前の2冊とも読んでおり、そのため、私にとっては、本書に特に目新しい記述があったわけではなかった。だが、面白く読めた。一一では、どこがどう面白いのだろうか。

吉村萬壱のエッセイの、私にとっての面白さについては、すでに『うつぼのひとりごと』のレビュー「気になる〈彼〉と、私の違い。」で縷々書いており、それをここで繰り返すことはしないが、要は、吉村と私には似ているところと真逆なところがあって、吉村が自身についてあれこれ考える部分で、読んでいる私は「では、私はどうか?」と考えさせられ、そのことが刺激的だからなのだろうと思う。そうした意味で、私にとっての吉村萬壱は、「自惚鏡」ならぬ「反省鏡」なのである。

そこで、今回書きたいのは、吉村萬壱と私の「違った部分」である。

「違った部分」と言っても、もちろん色々あるのだけれど、私が思うに、私と吉村萬壱の最大かつ根本的な違いは、私が「堅牢なもの」を好み、真逆に吉村萬壱は「不安定なもの」を好むところではないだろうか。

「不安定なもの」と言っても分かりにくいだろうが、要は「堅牢ではないもの」のことであり、具体的に言えば「汚物」とか「ゴミ」とか「ゆるい生活」とか「規則的でないもの」とか、そんな「ぐずぐずなもの」といった感じである。吉村萬壱ファンなら、これで分かってもらえるのではないかと思う。

かく言う私も、そういったものが「嫌い」というわけではない。正確には、「好きではない」だけ、なのだ。
「堅牢なもの」と「堅牢ではないもの」の、どっちが「好み=好き」かと言われれば、「堅牢なもの」が好きなのだけれど、かと言って「堅牢でないもの」が積極的に「嫌い」というわけでもない。だから、そういうものに対しても、ひと通りの興味を示して接触してみるし、その上で「これは、これ以上、追求するほどの興味が持てないな」と見極めたら、そこで止めるという感じなのだ。

そもそも「堅牢なもの」が大好きで、小説家で言えば大西巨人を「心の師」とまで仰ぐ私が、わざわざ正反対に近い感じの吉村萬壱を、「好み」として読みつづけるわけがない。
しかし、一見したところ、私の趣味ではなさそうな吉村萬壱なのだが、実際に読んでみると、どこか気になって仕方のないところがあり、ずっと読み続けている。
だからこれは、正確に言うと、吉村萬壱が「好き」だというのではなく「気になって仕方がない」ということであり、さらに言うと、私にとっての吉村萬壱は、前記のレビュー「気になる〈彼〉と、私の違い。」に書いたとおり「片付かない」作家なのである。この作家はこうだと、すっきり片付けて終わらせることのできない、読みきれない部分が常に残る、その点で「面白い」作家なのだ。

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そうした、私と吉村萬壱の「違い」の中で、特に根本的なところでの相違はというと、私は父に可愛がられて育った父親っ子であり、知ってのとおり、吉村は母親に虐待に近い扱いを受けながら育ち、それでも母親に執着している母親っ子だ、という点であろう。

さて、そんな父親っ子の私は、「規範的」なものが嫌いではない。フロイトだったかどうか正確なところはともかく、私は「父親」の体現する「規範的」なものが嫌いではないのだ。
と言っても、私の父が実際に「規範的」で厳格でな人あった、ということではない。父は、私を可愛がってくれたのである。
ただ、そんな父を一度だけ、とても悲しませたという辛い記憶がある。

それは、私がせいぜい幼稚園か小学校低学年くらいだった幼い頃、タンスの引き出しにしまわれていた母の小銭入れから、小銭をちょろまかして、それを父に叱られたという記憶だ。
一度にせいぜい数十円くらいで、子供心に「それくらい減ってても気づかないだろう」という計算は確かにあった。そうしてちょろまかしたお金で、駄菓子屋でお菓子を買ったりしていたのである。しかし、こうした行為というのは、露見するまではやめられないもので、ついにその日はやってきた。

父が私に「話があるから、ここへ座れ」と居間の座敷で、対座させらされた。もちろん、細かいことは覚えていないし、記憶の改竄もあるだろうが、とにかくその時、父は私に「お母ちゃんの財布から、お金を盗ってないか」というように尋ね、私は、もはやすべてがバレていて誤魔化しようもないと観念し、おびえながらも嘘がつけずに「ごめん、盗った」みたいなことを泣きながら答えたと思う。その時父が「おまえがそんなことをするなんて、お父ちゃんは情けない」と言って、涙を流していたと思う。そしてそれを見た私は、取り返しのつかないことをして、大好きな父を裏切ったのだと、心からの後悔にとらわれ、泣くことしかできなかった、と思う。

それくらいしか憶えていないのだが、きっと、父は「もう二度とするな」というようなことを言って、許してくれたのだと思うし、私も心から反省して「しない」と誓ったと思う。
しかし、その後も私は、何度かたわいのない物を万引きしたことならある。だから、なんだ反省していないのかと言われても仕方がないのだが、やはり反省したのはしたのだと思う。ただ「完璧」ではなかったのであろう。

ともあれ、このようなこともあったからかどうかは定かではないけれど、結果として、私の中には「規範」意識に対する、抵抗や反抗心は生まれなかった。どちらかと言えば、きっちりしているのが好きで、整理されているのが好きだ。未完成なものには、落ち着かなさを感じてしまうくらいだ。
だが、そうした「規範好き」は、自分が納得のいく「規範」であれば、という条件付きである。納得していないのに、人から強制されるという類の「規範」は、私にとっては「規範」ではなく「強制」でしかないから、それに対しては反発するし、可能なかぎり、そうした「理不尽な規範」には抵抗した。
これは「規範」が好きだからこそ、「不完全な規範(もどき)」に対しては、余計に反発するということなのではないかと思う。だが、何はともあれ、私の「規範好き」と「規範嫌い」というのは、こういうものなのである。

そして、後者の「規範嫌い」のところで、私は吉村萬壱に共感する。吉村も「規範嫌い」であり、それでいて、無論、自分の立てた「規範」にはこだわるタイプだから、その点で共感できるのであろう。

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ただ、同じ「規範好きの規範嫌い」である私たちの違いは、「規範」に対する態度に表れているようにも思う。

私の場合は、嫌いなものに対し、「攻撃」的に抵抗する。一方、吉村の場合は、基本的には「逃げる」のではないだろうか。
誤解されては困るのだが、私は何も「逃げる」吉村を、責めているわけでも見下しているわけでもない。そうではなく、タイプの違いを言いたいのだ。

実際、自分が「嫌い」なものなら「相手にしなければいい」だけであり「あなたはあなた、私は私で、関係ありません」と距離を置く態度の方が、よほど常識的でもあれば、真っ当でもあろう。

ところが、私の場合は「これは嫌いだ」と思ったら、黙ってはいられない。我慢ということができない。基本的に、無視やスルーということができない。なぜなら、私が不愉快であるからだ。だから、攻撃して排除しようとする。
しかし、ただ「気に入らないから排除する」では世間は通らないので、私は、私の「感性」の正しさを「論理的に説明」することで裏付け、正当性を持って「気に入らないものを排除する」のだ(と、ここまで言うと、やや大げさだが、基本的には、そんな感じなのである)。

もちろん、これが「屁理屈」なら、私こそが「邪悪」な存在だということになるのだが、「屁理屈」ではなく、誰もが納得せざるを得ない「正論」において「気に入らないもの」を正当に批判し攻撃するのだから、これは文字どおり「正義の行い」であって、誰にも文句は言わせない。文句があるのなら、相応の「理屈」で私を説得してやめさせろ、という極めて強気で強硬な態度なのである。

そんなわけで、幼い頃は口喧嘩が苦手で、よく泣かされた私だった(たぶん、あふれ出す感情に、言葉がついてこなかったのが、歯痒かったのであろう)が、文章を書くようになってからは「危険人物」と見られるようになったし、意識的に、そう見られるようにもしてきた。なぜなら、馬鹿な雑魚を相手にするのは時間の無駄で、私が排除したいのは「威張っている勘違い野郎」だからである。そういう奴を、こちらから狙い撃ちにしたいので、どうでもいい取り巻きの雑魚に、時間など取られたくなかったからである。

で、このように書けば、私が吉村萬壱を決して見下しているわけではないというのが、ご理解いただけよう。吉村の「嫌いなものは避ける=逃げる」というのは、ごく常識的な身振りであり、私の方がよほど常識はずれであり、ある意味、危ない奴なのである。だから、吉村を見下したりバカにしたりはしないし、できないのだ、論理的に。
しかしまた、私の過激と言って良い趣味からすれば、吉村萬壱のそういうところは「不徹底で物足りない」とは言えるのである。

そんなわけで、「規範としての倫理」に対する態度も、私と吉村とでは、好対照である。
「倫理的なもの」が好きではない吉村萬壱は、基本的にはそれを「避ける」のだけれど、「倫理的なもの」が嫌いではない私は、嫌いではないからこそ、その「倫理」に対し「倫理的」に完璧を求めるのである。つまり「ご立派なことを言っているくせに、実際には全然できていないじゃないか」と攻撃して、その倫理の徹底化を要求することで、その「倫理」の欺瞞性を暴き、中途半端な倫理的主体を自壊にまで追い込もうとするのである。
これは、私が「倫理的なもの」が好きだからこそ「傷モノ」には妥協できない、ということなのだ。好きなものについては、完璧主義となり、潔癖でもある。だから、手に負えないのである。自分で言うのも、何ではあるが…(このように私は、自分には甘い)。

私の「宗教」批判とか「作家」批判とか「大衆」憎悪とかいったものも、すべてこれだ。こうした「ご立派なもの」が、私は嫌いではないのだ。ただ、好きだからこそ、「偽物」は断じて許せないので、排除する、ということになるのである。「理想主義者」が、しばしばテロリストになるというのは、まったく筋が通った話なのだと思う。

そんなわけで、私は非常にシンプルでわかりやすい人間である。
だから、「わかりにくい」ものに惹かれる。わかりやすい馬鹿は大嫌いだが、わかりにくいものには興味が尽きない。そして、そのようなわけで私は、吉村萬壱に惹かれるのであろう。

吉村からすれば、きっと私は、化け物のような人間で、決して好きなタイプではないと思うのだが、私のこの極端さが、ちょっと「ニーチェ」系だと、興味を持ってもらえる部分もあるんじゃないだろうか、なんて調子の良いことを考えながら、吉村萬壱との対話的読書を楽しんでいるのである。

ここまで書き上げて、今『うつぼのひとりごと』のレビュー「気になる〈彼〉と、私の違い。」を読み返したら、実質的には同じことを書いていた。まあ、仕方がないとしよう。

(2022年1月18日)

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