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縄文海進と古神道、神社、天皇制(37)、雄略天皇

マガジン、縄文海進と古神道、神社、天皇制

縄文海進と古神道、神社、天皇制(1)
縄文海進
縄文海進と古神道、神社、天皇制(2)
稲作を行おうということは難しかった、なぜなら、平野がなかったから
縄文海進と古神道、神社、天皇制(3)
『ヤンガードゥリアス期』という小氷期の頃
縄文海進と古神道、神社、天皇制(4)
国土地理院の地図に縄文海新当時の海面データを重ねた地図サイト
縄文海進と古神道、神社、天皇制(5)
地図情報 ー 寒冷化で海面下降が起こる場合
縄文海進と古神道、神社、天皇制(6)
地理情報システムと「要石」
縄文海進と古神道、神社、天皇制(7)
鹿島神宮と香取神宮
縄文海進と古神道、神社、天皇制(8)
地球平均気温のグラフ、神奈川県の2万年前、1万年前、6千年前、現在の海岸線
縄文海進と古神道、神社、天皇制(9)
ハザードマップ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(10)クローヴィス彗星
縄文海進と古神道、神社、天皇制(11)縄文海進前後
縄文海進と古神道、神社、天皇制(12) 縄文時代早期~前期
縄文海進と古神道、神社、天皇制(13) ー 創建年代順に並べた神社
縄文海進と古神道、神社、天皇制(14) ー 補足資料
縄文海進と古神道、神社、天皇制(15) ー 神道と神職、巫女
縄文海進と古神道、神社、天皇制(16) ー 職能者と技能者
縄文海進と古神道、神社、天皇制(17) ー 神社のお仕事
縄文海進と古神道、神社、天皇制(18)天津神と国津神
縄文海進と古神道、神社、天皇制(19)歴代天皇系図
縄文海進と古神道、神社、天皇制(20)八咫鏡
縄文海進と古神道、神社、天皇制(21)弥生小海退
縄文海進と古神道、神社、天皇制(22)日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀、二人のアマテラスとその封印
縄文海進と古神道、神社、天皇制(23)朝鮮半島渡来のウソⅠ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(24)朝鮮半島渡来のウソⅡ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(25)朝鮮半島渡来のウソⅢ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(26)、天鈿女命の陰謀Ⅰ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(27)、天鈿女命の陰謀Ⅱ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(28)、なぜ卑弥呼の時代の海洋渡海の方法が丸木舟と決めつける?
縄文海進と古神道、神社、天皇制(29)、卑弥呼 -真説・邪馬台国伝-
縄文海進と古神道、神社、天皇制(30) - ローマのネロの時代から遣後漢使を日本は送っていたわけで、『三国志-魏志倭人伝』ばかりじゃないのだ。『晋書』、『宋書』にだって載っている。
縄文海進と古神道、神社、天皇制(31)、結構調べた!やはりあの島!あの島は半島文化圏ではなかった!
縄文海進と古神道、神社、天皇制(32)、なぜ『魏書倭人伝』はあるのに『呉書倭人伝』はないのか?
縄文海進と古神道、神社、天皇制(33)、伽耶(かや)
縄文海進と古神道、神社、天皇制(34)、朝鮮半島渡来のウソⅣ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(35)、「白髪三千丈」と「平仄(ひょうそく)」
縄文海進と古神道、神社、天皇制(36)、「邪馬台国論争」のユニークな新説って、どこが?

マガジン、【創作】note:Data

人類種と純知性体の移動
【創作】note:Data 2021/01/28/1、パスカル
【創作】note:Data 2021/01/29/1、純知性体
【創作】note:Data 2021/01/30/1、憑依
【創作】note:Data 2021/01/30/2、宗教医療
【創作】note:Data 2021/01/30/3、私小説
【創作】note:Data 2021/01/31/1、天鈿女命1
【創作】note:Data 2021/01/31/1、天鈿女命2
【創作】note:Data 2021/01/31/1、天鈿女命3
【創作】note:Data 2021/02/02/1、天照大神と建速須佐之男命 表/裏
【創作】note:Data 2021/02/04/1、大国主神の国譲りなどなかった
憑依 - Spirit Possession
除霊、浄霊のメカニズム

フランク・ロイド製歴史年表(471年)を追記しておこう。

沖縄の歴史

掖上(わきがみ)かんす塚古墳

葛城坐一言主神社

「倭の五王」のひとり・雄略天皇が成敗した葛城円の墓とされる“掖上かんす塚古墳”とは?

古代王朝の大王でその実在が証明された雄略天皇は、大和王権確立の画期を担ったと考えられている。倭の五王の一人として確実視されている雄略天皇とは?

掖上(わきがみ)かんす塚古墳

葛城坐一言主神社

雄略天皇の実在を証明したワカタケル大王の象嵌文字

奈良盆地には古代王権の痕跡が多く残っています。弥生時代には紀伊地方の影響も大きくあり、現代の行政区画では想像できないほど意外に広大な地域を見なくては正確に当時を理解できないことに気づかされます。

それは日本の歴史を列島内で完結すると考えるのはまちがいで、朝鮮半島や中国大陸、東南アジアからシベリア、さらにはユーラシア大陸の西域まで大きく広げて考えなくてはならないのと同じです。

さて広大な話からピンポイントな話に戻りますが、16代仁徳天皇の皇后は巨大豪族・葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘で、天皇に対しても自己を貫き通すことのできた磐媛(いわのひめ)です。

つまりあの世界三大墳墓を建築させるほどの権勢を誇った仁徳天皇でも葛城氏の機嫌を損ねるわけにはいかなかったという力関係でしょう。その後、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)・安康(あんこう)と続いて5世紀後半に第21代雄略(ゆうりゃく)天皇が登場します。

雄略というのは諡号(しごう/死後に送られる名)で、当時はワカタケル大王と呼ばれていたようです。

その実在が証明されたと大きな話題になったのは1978年のことでした。

それは、1968年に発掘調査された埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した錆びだらけの鉄剣を10年後にエックス線調査をして表裏に象嵌(ぞうがん)されていた115文字の銘文が現れたことによります。

なんとそこには西暦471年に被葬者の「ヲワケの臣」がワカタケル大王の親衛隊長として仕えたという内容が記されていたのです。この鉄剣は1983年に国宝として登録されています。

つまりワカタケル大王の象嵌文字は、雄略天皇の実在を証明することになったのです。

雄略天皇に逆らって滅ぼされた葛城円

その雄略天皇が金剛山の山麓で神と出会った話があります。

ある時、雄略大王は供を連れて山麓に狩りに行きます。すると、正面から自分と同じ狩衣(かりぎぬ)を着て同じ数の供を連れた一行と遭遇します。大王と全く同じ衣装に同じ弓矢を持ち、まるで鏡に映ったかのように同じように動きます。無礼な者どもだというので弓に矢をつがえて成敗しようとすると、まったく同じように相手も弓を構えます。不審に思った大王は「お前たちは何者か!」と誰何しました。

すると「私は善きことも悪しきことも一言で言い放つ神である!」と答えたのです。

相手が神であることに驚いた大王は、「これは畏れ入りました。存ぜぬこととはいえお許しください!」といって、着ている物を全部脱いで、神の一行に捧げて許しを乞うたというのです。

今も篤く信仰されている奈良県御所(ごせ)市の葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社の創建縁起として伝わっている話です。

大王が地元の神にひれ伏したというこの話は、この地域が大豪族葛城氏の根拠地ですから、雄略天皇といえども大豪族葛城氏には一目置いていたと考えてよいでしょう。

しかしながら葛城襲津彦の孫にあたる葛城円(かつらぎのつぶら=円大臣)は雄略天皇に逆らって攻められ、葛城氏本宗家は滅びます。

つまり雄略天皇は目の上の瘤(こぶ)だった葛城本宗家を失脚させることに成功して、権力を大きくしたのです。

御所市のはずれに遠慮して隠されたように造営された掖上(わきがみ)かんす塚古墳(前方後円墳)は、雄略大王に逆らって成敗された葛城氏本宗家の最後の当主である葛城円の墓ではないかと考えられています。

『日本書紀』は編年で記録されているものの書き始められたのは雄略朝からだろう、という説が大半を占めています。

それほど雄略天皇は、古代大和王権の建設にとって重要な天皇だったと考えてよいのだろうと思います。

葛城氏

古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる。6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。

武内宿禰

景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。

葛城の古道

大和朝廷は、三輪王朝・河内王朝・葛城王朝など豪族(大王)の王朝を経て、飛鳥の地で体制を固めた。今回は、葛城王朝の地と推古朝から持統帝の都・飛鳥(明日香)、藤氏総氏神を祀る霊峰・多武峯、さらに仏教文化の華が開いた平城京を旅した。
第1回目は「葛城の古道」に沿って、鴨一族(4世紀)の総本社・「高鴨神社」、葛城氏(5世紀)の祖神を祀る「高天彦神社」、雄略天皇(在位456~480)との狩など説話に登場機会の多い一言主を祀る「一言主神社」および種々の伝説を持つ修験道の祖・役小角の誕生寺「吉祥草寺」を訪ねて、金剛葛城山麓の古代を偲んだ。

ここで訪れた神社の主祭神は、地主神または国ツ神である。この背景は二つある。一つは、弥生時代にその地域を支配していた豪族が、原始的自然信仰についで生まれた産土信仰や農業信仰の祭祀権を持ち、その氏族をまとめたことである。もう一つは、この地方に出雲系の神々が祭神として祀られていることにも注意を払わなければならない。これは、出雲国が倭国に服従した7世紀前半(620年代)に蘇我本宗家がこの地に入り込んできた事情と関係する。
※門脇禎二「古代出雲」(講談社学術文庫2003.1)からの抜粋

出雲について: 「イツモ王国にヤマト朝廷の圧力が迫ってきたのは、6世紀中葉の欽明朝が決定的な画期であったらしい。まず出雲西部に、ヤマト朝廷の進駐勢力ー南方の山越えから蘇我氏系の日置伴部らが、北方の海上からは物部系の勢力が入ってきた。そして、現地の新興勢力神門(カンド)氏と組んで展開しはじめて「政」のなかに出雲西部の人々はとらえられはじめた。オウを本拠としたイツモ王国の王は、その領域の西部と東縁に現れてきたこのような変化のもとで、ついにヤマト朝廷に対して、これまで束ねてきた王国内すべての神社の祭祀権=王国の政治権をさし出し、ヤマト朝廷の地方官としての国造の地位をうけいれることになった。6世紀~7世紀はじめのことであった。」

三輪王朝について: 「三輪信仰は縄文文化の段階から確かめられている三輪山への自然信仰、つづく磐坐信仰、ご神体を蛇とする箸墓伝説などから発して、それらを集合ないし重層しつつ、大物主神がヤマト王国の国家的祭祀の中心となっていった。そして三輪山は、天照大神が皇祖神とされる以前の皇祖神「高天原の神王高御魂命(タカミムスビノミコト)」の静まる国家的神山であり神なびとなっていった」。

葛城氏のあとに─馬見丘陵地域の古代史─

本講演では、4世紀から7世紀にかけて、馬見丘陵周辺で積み重ねられた歴史をたどっていきたい。ニュータウン化が進む馬見丘陵だが、かつてはなだらかな丘陵が大和川の南に続いていた。南北およそ7km、東西およそ3km、標高は最大で25mほどで、「豆山(馬見丘陵の古名)三里小石なし」と言われるほど、石が少ない土地だったという。行政的に見れば、馬見丘陵は北葛城郡が発足する明治30年まで、東部は高田川流域の広瀬郡、西部は葛下川流域の葛下郡という2つの郡にまたがっていた。広瀬郡と葛下郡・葛上郡を合わせた地域が葛城であり、葛城の北半分が今回お話しする馬見丘陵地域と言うことになる。

この地域の古代史を考える上では、遺跡がたいへん重要な意味をもつ。馬見丘陵の東南部には4世紀から5世紀にかけて築かれた馬見古墳群があり、丘陵の東西には片岡王寺・西安寺・尼寺廃寺・長林寺など、7世紀代の寺院が密集している。これらの古墳や寺院はどのような人々によって築かれたのだろうか。

文献を見てみると、葛城地域最初の巨大勢力は、葛城氏という豪族であった。葛城氏は有力な大臣・武内宿祢(たけしうちのすくね)を始祖とし、その子に葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物がいた。『日本書紀』では襲津彦は、神功皇后から仁徳天皇の時代にかけて5回も登場しており、朝鮮半島をめぐる軍事活動や外交交渉などで活躍している。「百済記」にも「沙至比跪(さちひこ)」として現われ、4世紀後半に実在した人物であろうと認められている。襲津彦が手にした大きな政治力を、その子孫の葛城氏は大王家と婚姻関係を持つことで維持していった。5世紀には履中天皇から武烈天皇まで9人の大王のうち、6人の母が葛城氏の女性であったこと。当時のヤマト王権にとって、葛城氏がいかに重要な位置にあったかが如実にうかがわれる。

葛城氏の本流はおそらく葛上地域を本拠とし、襲津彦の子(名前は未詳)のあと、玉田宿祢(たまたのすくね)、円大臣(つぶらのおおきみ)と続いたが、円大臣が眉輪王の反乱に加担したため、5世紀後半に滅亡してしまう。一方、襲津彦から葦田宿祢(あしたのすくね)、蟻臣(ありのおみ)、荑媛(はえひめ)と続く流れは、おそらく葛下地域を拠点とし、有力な母后が輩出した。本流と違って、その血筋は生き延びたと見る説もあるが、荑媛以降になると有力な人物は全く現われないから、やはり没落したと考えるのが妥当である。

葛城氏が退場した後、馬見丘陵地域に勢力を伸ばしたのは、葛城氏の血を引く大王家一族であった。葛城荑媛を母とする飯豊皇女(いいとよのひめみこ)は清寧天皇の死後、馬見丘陵地域南端にあたる忍海角刺宮で国政を執ったとされる。その陵墓(埴口墓)とされる古墳は時期的にも問題がなく、『日本書紀』記事の信憑性は高い。また、同じく葛城荑媛が生んだ仁賢天皇、その子の武烈天皇も、『日本書紀』によれば馬見丘陵地域に陵墓があった。古墳を築く場所はとても重要で、その人物と関わりの深い場所や勢力をふるった地域を選んだに違いない。さらに武烈天皇は「城上(キノヘ)」と呼ばれた水派邑(ミマタムラ)を開発したとされる。キノヘは馬見丘陵地域南部の地名とみて誤りない。こうしたことから考えると、葛城氏の血を受けた大王たちは、馬見丘陵地域における権勢を受けつぎ、政治的・経済的な実力の源泉としたと言えそうである。

葛城氏系の大王は武烈天皇でとだえるが、継体天皇は武烈天皇の姉にあたる手白香皇女をキサキとし、その子孫たちが王統を継承していった。継体の孫にあたる敏達天皇は、その葬儀を「広瀬」で行なったと『日本書紀』は伝える。広瀬も馬見丘陵地域と考えるほかなく、ここにも大王家との深い関係を見出すことができる。敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子は、武烈天皇が開発した水派邑に宮室をいとなみ(水派宮)、その成相墓(ならいのはか)は馬見丘陵内の牧野古墳にあてるのが定説である。牧野古墳は直径69mの大円墳で、奈良県でも屈指の規模の横穴式石室をもつ。6世紀後半には、大王家一族はふたたびこの地域に進出し、政治的な拠点としていたのである。

押坂彦人大兄皇子にはじまる王族には、やがて天智天皇・天武天皇が現われ、奈良時代以降の天皇家につながるが、彼らは元来、蘇我氏との婚姻関係をほとんどもたなかった。この一族を、彦人大兄皇子の主要拠点であった押坂(桜井市忍阪)にちなんで「押坂王家」と呼ぶが、馬見丘陵地域は押坂王家のもう一つの勢力基盤だったわけである。面白いことに、大和川をはさんだ斑鳩地域には、蘇我氏の血を色濃く受けた王族、つまり聖徳太子の一族「上宮王家」が勢力を伸ばしていた。二つの王家はやがて、推古天皇の後継をめぐって対立する。押坂王家の田村皇子、上宮王家の山背大兄王がそれぞれに王位継承を主張し、豪族たちも二つに割れた。結局、蘇我蝦夷が一族をまとめ上げて田村皇子を擁立し、この人物が舒明天皇として即位することになる。その後、上宮王家は643年に蘇我入鹿らに滅ぼされ、蘇我氏本宗家も645年に滅亡する。こうして押坂王家が「非蘇我系の王統」を確立したのであるが、その勢力基盤(副拠点)こそが馬見丘陵地域であった。

押坂王家の遺産は、馬見丘陵地域にいくつも見ることができる。まず、片岡王寺であるが、その創建者については諸説あるものの、私は吉川敏子氏の糠手姫皇女説を支持したい。糠手姫は押坂彦人大兄皇子の妻で、舒明天皇を生んだ女性である。また、尼寺廃寺についても、彦人大兄皇子の子、茅渟王(皇極天皇・孝徳天皇の父)が創建したという学説が有力である。彼の墓が「片岡葦田」にあり、尼寺廃寺に近接する平野塚穴山古墳がそれにあたると推定されるからである。ただし、私は古墳や寺院の年代、瓦の系譜などに着目し、むしろ茅渟王の妻である吉備姫王が創建したと見たほうがよいと思う。いずれにせよ、両寺ともに押坂王家一族との関わりを考えることができる。彼ら・彼女らの活動をよく物語るものであるが、文献や瓦から見れば、斑鳩の上宮王家とも友好的であったらしい。

馬見丘陵の南部から東南にかけて弘福寺(川原寺)の荘園、広瀬荘があった。弘福寺は、天智天皇が母の斉明(皇極)天皇のために建てた寺院である。その広瀬荘は30町もの田地と経営施設、さらに広大な山林や瓦窯からなっていた。これは「押坂彦人大兄皇子→舒明天皇→天智天皇」と相続された領地が、弘福寺に施入されたものと見られる。また天智天皇の弟、天武天皇も馬見丘陵地域に離宮「広瀬宮」をもっていた。近くの片岡・木上(キノヘ)に天武の領地があったらしく、子の高市皇子、孫の長屋王へと受けつがれ、長屋王家木簡に現われることになる。木上司からは米やあけび・なつめ・竹などが進上され、馬も飼われていた。私は、JR五位堂駅東の「木延」「大ミカド」が木上司に関係する地名であろうと考えている。木上も片岡もまた押坂王家が領有し、天武天皇やその子孫に相続された荘園だったのである。ちなみに高市皇子の葬儀は城上(キノヘ)で行なわれ、墓は「三立丘」にあった。今もニュータウン内に「見立山近隣公園」があり、おおよその場所が知られる。

以上、馬見丘陵地域の歴史と、それに関わる遺跡や荘園について述べてきた。葛城氏の栄光と没落のあとに、王族たちがこの地に進出し、特に押坂王家の勢力基盤となった。蘇我氏の影響の強かった葛城南部とはやや異なった古代史を、馬見丘陵地域はもっていたのである。こうしたことは古墳や寺院の遺跡、あるいは古文書や木簡からうかがい知ることができる。とりわけ地域の遺跡は、古代史のかけがえのない証人と言ってよい。地域から歴史を考えることは、『日本書紀』をよりよく理解する上でも必要不可欠なのである。


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フランク・ロイドのリンク

参照:フランク・ロイドのマガジン

私のトップページを見ても、続き物が多いので、何がなにやらわかりません。できれば、下記のマガジン一覧から追っていただければ幸いです。


マガジン「縄文海進と古神道、神社、天皇制


マガジン「ヒンズー教と仏教の原風景

マガジン「フランク・ロイドのエッセイ集」


マガジン「フランク・ロイドのサイエンス」

マガジン「フランク・ロイドの音楽」

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マガジン「フランク・ロイドの『総集編』」

マガジン「フランク・ロイドのヰタ・セクスアリス」

マガジン「性同一性障害と勘違いして悩む義理の妹に悩むぼくの物語」


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