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縄文海進と古神道、神社、天皇制(2)

縄文海進と古神道、神社、天皇制(1)でも述べたが、『縄文海進』は、最後の氷河期が終わった1万9千年前から気候が温暖になり、温暖化のピーク時は、6千9百年前(紀元前4900年頃)とも6千年前~6千5百年前とも言われている。いずれにしろ、紀元前5千年~4千年頃の日本は現代よりも暑かった。平均気温が今よりも(!)1~2℃高かったのだ。つまり、地球温暖化で21世紀、あと80年も経つと現在よりも平均気温が2℃高くなると言われているが、それは日本が縄文海進の頃の海岸線に戻る、ということを意味する。これから紹介する地図は、日本の6千9百年前の地図であり、80年後の将来の地図でもある。ここでは将来の地球温暖化の話はしないが、将来もたぶんこうなる、ということを覚えておくのも興味深い。

最終氷期の最も寒い寒冷期の後、約1万9千年前から始まった海面上昇は、沖積層の堆積より速かった。日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで侵食された河谷には海が入り込んだのだ。

日本の学会などでは、歴史的に変化する地形など無視して、やれ、縄文時代は狩猟文化であり縄文人は稲作などの農耕文化を持たなかったとか、農耕文化は弥生人(渡来人)によってもたらされたとか、渡来人によって日本の文化は狩猟文化から農耕文化に移行したとか言っている。

しかし、これから見る地図を見れば分かる通り、前期縄文時代に相当する6千9百年前の縄文海進の頃は、農耕を行おう、稲作を行おうということは難しかった。なぜなら、平野がなかったからだ。平野がなく、急峻な山間部が急激に海に落ち込んでいる地形、それが前期縄文時代の縄文海進の頃の日本だった。

実は、縄文海進の後、小規模だが『平安海進』という海岸線の後退も起こっている。8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。つまり、小氷期で寒かったのだ。それがまた暖かくなり、10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。また小氷期が起こったのだ。それから、12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった。つまり、12世紀(鎌倉時代の頃)は、現在よりも温暖だった。今回は『平安海進』には触れないが、温暖化で稲作の耕作量が増え、社会が豊かになり、武士階級が台頭して平安時代から鎌倉時代に移ったのも『平安海進』とは無関係とは言えないであろう。

※これ以降、今回は地図ばかりです。退屈でしたらここまでで読むのをお止めください。

縄文前期、縄文海進の頃、当時の海面が今よりも約5メートル上昇していたことは地質学的に実証されている。縄文海進の頃の日本の海岸線はどうだったかというと、

縄文海進ー日本

こうなっていた。現在の海岸線に食い込むように水色の区域が拡がっているが、その地域はほぼ海抜ゼロメートル地帯である。縮尺が大きいので不明瞭だから、分割して見ていこう。

縄文海進ー関東地方

縄文海進ー関東地方2

まず関東地方。千葉県は本州から離れほぼ島である。三浦半島も島。東京南部、神奈川南部は海面下で、海岸線は鬼怒川、日光方面まで侵食している。緑色の地域が海抜10メートル。関東地方の農耕可能な面積は今の半分以下であろう。濃い赤は標高100~300メートル。伊豆半島など今でも山間部が海に迫り平野などほとんどないが、縄文海進の頃はもっとひどい。海岸はほとんど切り立つ崖であったろう。

縄文海進ー中部関西地方

縄文海進ー関西紀伊半島

中部・関西地方。名古屋地方は海面下だ。飛騨山脈のふもと付近まで海岸線が侵食していた。和歌山市も海面下で、紀の川が20キロほど半島の奥まで食い込んでいて、海と川伝いに行けば、吉野地方に今よりもたやすく行けたであろう。だから、吉野、高野山一帯には古神道の神社が多いとも言える。大阪はほとんどない。湿原が広がっているだけだ。小豆島は主な四つの島と小島に分かれている。平野部などほぼないのだ。

古事記・万葉集の日本の国造りにでてきた小豆島だが、古代の日本人はこの島をどう思ったであろう。6千9百年前頃から、徐々に海岸線が後退し、小島が大きな島につながり、弥生時代、飛鳥天平時代には、大きな島が一つの島となった。平野も増えてきた。これは神々の国造りの奇跡だとでも思ったであろうか?

縄文海進ー山陰地方

縄文海進ー出雲地方

山陰・出雲地方。宍道湖・中海から北は海面下である。出雲大社は海岸沿いに位置していたようだ。岡山・広島の平野部はない。山陰山脈が急に海岸線になっている。

縄文海進ー山陰九州北部地方

縄文海進ー福岡阿蘇地方

九州北部、福岡・阿蘇地方。卑弥呼神話で邪馬台国があったと言われる地方だが、ここも阿蘇山カルデラ地帯が広がり、山がちの地形。長崎半島は島である。

縄文海進ー九州南部地方

九州南部。クマソの地域であるが、薩摩半島は平野部がえぐられている。大隅半島もほぼ島であった。

縄文海進ー北陸地方

北陸地方。新潟平野はない。能登半島は島だった。佐渡ヶ島は二つの島にわかれていた。

縄文海進ー東北北部地方

縄文海進ー東北南部地方

東北地方。津軽半島、下北半島も島であった。仙台平野も海面下であった。

縄文海進ー北海道西部地方

縄文海進ー北海道北部地方

縄文海進ー北海道東部地方

北海道。札幌・函館地域と他の道東地域は別の島だった。主な平野は海面下である。

縄文海進ー名古屋地方

縄文海進ー富士三河地方

名古屋、三河・富士山近辺をみると、飛騨山脈のあたりまで琵琶湖ほどの湿地が拡がっているのがわかる。三河地方も平野がない。知多半島はほぼ海面下であった。

以上のように、平野がなく、山脈から急激に海岸線に落ち込んでいる日本列島では、稲作など難しく、狩猟をするか、海洋に出て、日本の他の地方や海外に縄文人が活路を見出したのがわかるだろう。

弥生人(渡来人)が日本に移住してきたのではなく、縄文人が弥生人を日本に連れてきた可能性もあるのではないか?

(つづく)

●フランク・ロイドのエッセイ集ー記事一覧
https://note.com/beaty/m/m2927b9ba7a08
●A piece of rum raisin(note)
 目次ー小説一覧
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