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縄文海進と古神道、神社、天皇制(30) - ローマのネロの時代から遣後漢使を日本は送っていたわけで、『三国志-魏志倭人伝』ばかりじゃないのだ。『晋書』、『宋書』にだって載っている。

縄文海進と古神道、神社、天皇制(30)

う~んと唸って考え中。

今調べているのは、あの頃(先史時代)の台湾、南西諸島がどうだったか?ということ。

首狩り族が跋扈していて、佐賀県から沖縄経由じゃ中国に行けないよね?

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(1)

これをどう考えればいいのか?

まず、西暦239年、「魏曹叡景初2年、邪馬台国の卑弥呼に『親魏倭王』(金印)を授与する」とか魏志倭人伝にあります。

が、歴史は、西暦57年、「後漢光武帝建武中元2年、倭の奴国王に『漢委奴国王印』(金印)を授与する」なんです。

卑弥呼の時代を遡ること約二百年

西暦57年から西暦239年の間に何があったんでしょう?

空白の4世紀というのは、西暦三百年代ですが、その前の三百年間も中国の史書にちらほら出てくる空白期間なんですね。

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(2)

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(3)

魏曹叡景初2年、邪馬台国の卑弥呼に「親魏倭王」(金印)を授与する」が西暦239年です。

その頃、中国は三国志の時代。

中国後漢、三国志、西普時代と邪馬台国・ヤマトの歴史(4)

魏志倭人伝の頃しか倭国と中国の朝貢外交は注目されていませんが、何度も何度も倭国は中国に勅使を派遣している。

古事記、日本書紀の記述と異なりますが、中国の史書ですよ?

古事記、日本書紀よりも信用できますよね?

卑弥呼の時代の中国、朝鮮半島と日本の逆さ地図

日本の人口の超長期的推移(1)

縄文海進と古神道、神社、天皇制(28) - なぜ卑弥呼の時代の海洋渡海の方法が丸木舟と決めつける?

縄文海進と古神道、神社、天皇制(29) - 卑弥呼 -真説・邪馬台国伝-

長期人口推移

縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。

日本の人口の超長期的推移(2)

縄文時代、26万人でピークに

26万人いた縄文の人口が、8万人まで激減し、まもなく迎えた弥生時代。再び人口は増加に転じる。海の向こうから持ち込まれた稲作の技術が、全国に拡大。食料供給量がアップして、それに合わせるかのように、またたく間に人口を押し上げたのだ。

そんな「正のスパイラルによって」、紀元前2300年から紀元前1000年までの約1000年間で、8万人まで落ち込んだ人口はおよそ8倍の60万人まで伸びていく。

この縄文後期の人口減少期から、弥生時代の人口増加期にかけての人口カーブは、日本列島の人口変動に共通する黄金パターンと言うことができる。その後も、日本列島の人口の増加のポイントには、多くの場合、海外から持ち込まれた技術革新があったからだ。新しい技術や社会制度などが持ち込まれるたびに、文明システムが転換し、人口は増えていった。

一方、そうした新しい技術が定着し、発展の余地がなくなると、人口は横ばいに転じるのが常。そこに気候変動などが起こると、一転、人口が減少していく。これが、日本の人口変動のひとつのパターンとなっている。

稲作技術をきっかけに始まったこの人口増加も、その後奈良時代には500万人と順調に伸びていったが、平安時代の700万人をピークに再び減少期に入っていく。

日本の人口の超長期的推移(3)

米の生産量が増えて日本の人口も増えた

水田稲作が本格的に開始された弥生時代における人口を、遺跡の数から調べてみることにしましょう。弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数 字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。地域別にみると、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がないのに、近畿、中国地方では 20倍以上、四国、九州でも10倍以上と著しい人口増加がみられます。縄文時代には東日本に人口が集中していたのに、弥生時代になって西日本の人口が急激 に増加し、東日本ではそれほどの増加がみられないというのはなぜでしょうか。

このことを考えるため、登呂遺跡を例としてとりあげてみましょう。登呂には12の住居跡がありました。1軒あたり5人が住居していたと仮定すると、人口は60人になります。登呂遺跡における水田面積(75.010m2、 約7町5反)から米の収量を計算し、毎日全員が3合(約0.4キログラム)の米を食べたとすると、とても60人分の食料をまかなうことができなかったとい う結果になります。

しかも、休耕地や自然災害による減収、12軒以外に別の集落の人も利用した可能性なども考えあわせると、米が毎日のように食べられてい たとはとても考えられません。

つまり、弥生時代に米が食べられたとしても、その量はかなり少なかったとみなすのが自然です。

また、水田耕作がもともと熱帯 産のイネを栽培するものであり、イネの栽培には、冷涼な東日本よりも温暖な西日本のほうが、より適していました。これらの点からも、早くから米への依存度 が高かった近畿地方を中心とした西日本と、イネ以外の畑作物や堅果類の比率が高かった東日本とでは、生産量の違いによる人口支持力も当然異なってきます。

古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。さらに律令時代では、国家的規模での集約的労働力の投下、進歩した土木・灌漑技術、国司の派遣による農業指導、農業奨励政策などを通じて、水稲耕作中心の農業基盤が確立しました。これにより、耕地が拡大し米の生産量が増えるにしたがって、扶養できる人口数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。

水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。


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