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縄文海進と古神道、神社、天皇制(12) 縄文時代早期~前期

やっと、縄文人が鹿島神宮・香取神宮の要石の場所までたどり着きました。この場面がこのシリーズの第一目標。古社と呼ばれる神社が、大和朝廷が創始した神道システムとはいかに関係がないか、卑弥呼の4世紀、大和朝廷成立の5世紀以前、紀元前にも神道にも仏教にも関係のない日本古来でオリジナルの縄文人のアニミズムに基づく古神道があった、というのを縄文海進が起こったことで説明したい、というのがこのシリーズを書いている動機なんです。長い文章をお読みいただきありがとうございます。
※マガジン『縄文海進と古神道、神社、天皇制』シリーズは続きます。マガジン『ヒンズー教と仏教の原風景』シリーズで扱っている気候と民族移動、宗教のお話にやっとリンクする時代になりました。縄文海新後も気候変動が続きます。それによって『インドへのアーリア人の侵入』が起こったり、平安時代の平安海進によって飢饉が起こり武士の時代になったり。人間活動は気候による影響が思っているよりも大きいのだな、と思う次第です。

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縄文海進 第 4 話 縄文海進: 縄文時代早期~前期

ヤンガードリアス期(12,800~11,600年前)を過ぎ、クローヴィス彗星の粉塵による影響を脱して、地球の気象は急激に温暖化の方向に逆振れした。現代の地球平均気温から20℃近く低下していた状態からほんの数百年の間に十数℃気温上昇が起こり、縄文時代早期前(8,500~9,000年前)には現代よりも温暖化が進んだ。8,200年前には一時現代と同じ平均気温となったが、また上昇して、縄文海進の起こる6,900年前となった。

海水面と地球平均気温4

その間、海面は上下動を繰り返し、ヤンガードリアス期には今よりも100メートル以上の海退(海面下降)が起こった後、縄文海進時には、逆に今の海面よりも5~6メートルもの海進(海面上昇)となった。

縄文時代早期(8,100年前)~前期(5,200年前)には、ブリヤート人の混血部族は北海道から徐々に南下して、関東地方に、中部地方に、九州に、やがては沖縄にも達した。人口も2万人から11万人ほどにも増加した。ただし、大部分の人口分布は関東地方以北に偏っていた。

縄文海進

縄文海進の頃の海岸線は、ほとんどが丘陵部から突然海に落ち込むような地形となっていた。海岸線と河川が陸路での移動を困難としており、例えば千葉県は、霞ヶ浦が現在の2倍以上に広がっていて、半島ではなく島のような状態になっていた。海面上昇により、海面下降の時期に堆積した土壌はほとんどが洗い流され、岩礁がむき出しになっていたであろう。

海水面BC4900

海水面BC1900

ブリヤート人の混血部族の南下部隊は、霞ヶ浦の河口にたどり着いた。そこで彼らが見たのは、左右に小高い岩礁があり、その距離は13キロほどだった。地平線までの距離は5キロほどなので、河口に近づくとどちらかの岩礁が目視できた。左の岩礁は現在の香取神宮の要石であり、右の岩礁は現在の鹿島神宮の要石であった。

霞ヶ浦

ブリヤート人の混血部族は狩猟民であり、基本的にアニミズム、動物も含めたあらゆるものに魂があり、その魂というのは不滅で、人間などの目に見える肉体というのは魂の仮の姿と考えられていた。

森の主、山の主、海の主というような動物界を支配する者がいて、その骨などを丁寧に扱えば、また人間のところへおみやげとして肉や毛皮を持っていってくれるという思想を信奉していた。

また、霊魂の世界というのがあって、いろいろな物事、事象が霊に支配されて起こると考えられていた。シャーマン(霊媒師)という、特別な霊的な能力を持っていて、自分の魂を霊の世界に行かせる、あるいは霊を自分の体に呼び込んで、予言とか病気治療を行う人が部族にはいた。このシャーマニズムというのは、北方アジアに広くある精神文化である。

このシャーマニズム、のちの古神道は、一種の精霊信仰で、自然崇拝が本質である。自然なるもの全てに神の遍在を見るもので、山も海も川も神であり、太陽も月も北極星も神である。風も雷も神であり、季節も時間も神である。この世界、この宇宙に神ならぬものはなく、神とともに在る、という思想である。そしてその原初の姿、形は、カンナビ、イワクラ、ヒモロギ、ヒに集約される。

「カンナビ 」は、秀麗な山岳を神山・霊山として信仰する。「イワクラ 」は、特に威厳ある巨岩を神の依り代(よりしろ)として信仰する。威厳のある巨岩を神の依り代として信仰する。「ヒモロギ 」は原生の森であり、その全体を「鎮守の森」として崇めるが、その中の特に際立つ巨樹を神木とし、神の依り代として信仰する。「ヒ」は信仰の原理であり観念でもある。

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縄文の人々は、霞ヶ浦河口の左右の岩礁に「イワクラ 」を見たであろう。内陸へと続く霞ヶ浦河口の迎え神として崇めた。

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縄文海進が終わり、徐々に海岸線が沖へ沖へと退いていった。霞ヶ浦の河口は狭まっていった。しかし、縄文の人々は、徐々に海抜が高くなっていく左右の岩礁を続けて信仰した。やがて、岩礁の周囲に沖積世の土壌が堆積していき、岩礁の周囲は高台の平地になった。

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古神道の信仰対象は、大自然そのものである。人工的な物品を神体・依り代とするのは、はるか後世のことであり、元来の信仰にはないものだ。本殿を始めとする神社建築も、それら物品の神体を納めるために造られたものであって、それより古い形式の神社には本殿がない。奈良県の大神神社や埼玉県の金鑚神社、長野県の諏訪大社本宮などは、拝殿のみで本殿がなく、背後の神体山をそのまま参拝するようになっている。これが、神道の本来の姿である。かつての神社はすべてがその形であったのだが、その後、多くの神社が神体に依り代を据えて、その保護のために社殿(本殿)を建築した。

左右の岩礁もそうだったであろう。やがて、大和朝廷が勢力範囲を東国にまで及ぼした頃、東北地方の制圧の策源地として、縄文人が信仰していた左右の岩礁のあった一帯も人工的な神社として祀り始めた。大和朝廷は、左の岩礁のあった一帯を香取神宮とし、右の岩礁のあった一帯を鹿島神宮とした。既にその頃には、岩礁の周囲は台地となっていて、岩礁の先端部が地面にかすかにのぞく程度になっていた。しかし、縄文時代以来の言い伝えで、この岩礁の突端は「要石」と呼ばれ、地下に延々と続くものとして敬われた。

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