本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性6 そ第20話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性6 そ第20話①
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2(1)光秀の素性 6転機 そ第20話①
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1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
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そ第158話⑨ そ第158話⑩ そ第158話⑪
4没落 そ第200話① そ第200話② そ第200話③
そ第201話① そ第201話② そ第201話③ そ第201話④
そ第201話⑤
5再興 そ第151話① そ第151話② そ第152話① そ第152話②
そ第152話③ そ第152話④ そ第152話⑤ そ第152話⑥
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6転機 そ第19話 そ第20話① そ第20話②
永禄八年2 幕府再興へ
義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。
覚慶は、一乗院に幽閉された。
以後、彼の人生は、時代の波に大きく翻弄される。
→◎第20話 ◎小20 第20話 小
然うして、二男御舎弟南都一乗院義昭、当寺(興福寺)御相続の間、
御身(義昭)に対し、聊(いささ)か以て野心御座なきの旨、
三好修理大夫・松永弾正かたより宥(ゆる)し申され侯。
尤(もっと)もの由仰せられ侯て、暫(しばらく)、御在寺なさる。
この覚慶こそ、後の足利義昭である。 →【 人物 】
義昭は、天文六年1537の生れ。
信長の三つ下。
この時、29歳。
父は、室町幕府第十二代将軍・足利義晴。
母は、関白・近衛尚通の娘(慶寿院)である。
義輝は、一つ上。
同腹の兄。
幼くして、母方の叔父にあたる時の関白近衛稙家の猶子となり、
奈良興福寺の一乗院に入って、「覚慶」と名乗った。
永禄五年1562、一乗院門跡を嗣ぐ。
義昭(覚慶)は、奈良を脱出した。
義昭は、夜陰に紛れて姿を消した。
甲賀の和田惟政の館へ入った。
或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、
和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、
(『信長公記』)
こちらは、多聞院英俊の記録。
廿八日夜、一乗院覚慶 僧都(そうず=僧正の次位)、廿十九才、
寺を御離れおわんぬ、
御落所、翌日にもしれず、
甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
去る五月十九日、将軍御生害、三十歳、
御舎弟、鹿苑院殿、同上、廿一歳、
(「多聞院日記」永禄八年七月二十八日条)
義昭は、幕府再興へ動き出した。
和田館に入って、わずか数日。 →そ第20話②
義昭(覚慶)は、己の意思を表明した。
すなわち、上洛。
なれど、その道のりは、遠し。
光秀は、後に、この義昭に仕えることになる。
そして、「歴史」に登場する。
⇒ 次へつづく
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