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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性1 そ第54話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性1 そ第54話③ 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ第54話③

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 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
      1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③

美濃3

光秀は、美濃に親戚がいた。

 吉田兼見の日記から、そのことがわかる。
 兼見は、吉田神社の神主である。

 場面は、元亀三年1572、十二月十一日、京。

 この日、京都は大雪だった。
 七寸は、3×7≒21cmほど。 
 光秀は、美濃の親類のため兼見に祈祷を依頼した。
 この時の、光秀の所在は、よくわからない。
 築城中の坂本にいたのか。
 それとも、京。
 否、岐阜城の軍議に出ていたのかもしれない。

  十一日、雪降る、七寸計り、
  明智十兵衛尉、折帋を以て申し来たり、
  云く、
  濃州より、親類の方、申し上げるなり、
  山王の敷地に、新城(坂本城)を普請せしむなり、
  其れ以来、不快なり、
  今度、別して祈念の儀憑み入るの由、申し来たるなり、
  鎮札・地鎮、調え遣はすべきの由、返事しおわんぬ、
                     
【 重史 004 】(「兼見卿記」)

 「濃州より親類」とは、一体誰なのだろうか。
 光秀の父方・母方・兄弟の縁者なのだろうか。
 それとも、光秀の妻方の関係者か。
 いずれにしても、美濃に在住の縁者である。
 それも、光秀に祈祷を依頼できる間柄。
 となれば、関係は濃い。

 また、「山王の敷地」とは坂本のこと。
 「新城を普請」とは、築城中の坂本城をさすものと思われる。



 ⇒ 次へつづく

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