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専門性の落とし穴:社会問題の総合的判断の必要性

今回は日本のアカデミズムが、専門的(スペシャリスト)の視点に傾きすぎて
人間社会から学問が離れ、一面的な正しさ(局所解)に傾きすぎているのではないか、それにより人間社会に問題が起きているのではないか?
どうすればアカデミズムは多角的な視点を取り戻すことができるのか?
という問題意識からまとめてみました。

もう一度学問を人間社会に取り戻そう


✅【学問とはなにか:専門分野の壁】

学問は有機的な現実(全体)を条件(一面)に切り取ることでその限定的な条件の中では正しいであろうこと(局所解)を探求する。
それをするために専門分野という壁を作り、矛盾がない壁の中で自己完結してしまう。

専門分野の壁により、人間社会のための学問から専門分野で自己完結する『専門分野のための学問に変化』
・本来の目的(人間社会のための学問)ではなくなり、専門分野での成果が目的に変わる自己目的化が起きている。

✅【専門性の落とし穴】

専門分野の壁により、人間社会から学問が切り離されると専門性の落とし穴(それによる問題)が発生します。

🔶〈落とし穴①局所解に陥る〉

専門分野の壁の中に学問が閉じこもると、専門分野で自己完結し切り落とされた部分の考慮がなくなる。
有機的な現実(全体)考慮した正しさ(メタ視点の正しさ)を学問が無視するようになる。

専門的な正しさとは、全体を切り取った一面的な正しさであり、全体(総合判断)として正しいとは限らない。(ミクロとマクロの正しさは違うことがある)
⇒一面的な局所解に陥る危険性がある。

例えば人間は健康のためだけにも生きていませんし、経済のためだけにも生きていません。
それを一面的に判断してしまうと、切り落とされた部分が抑圧されることになります。

「健康のために生きろ」「経済のために生きろ」と言われても困りますよね。
一面的な正しさで全体を判断してしまうと、全体としては不利益が発生することがあります。

🔶〈落とし穴②社会から切り離されることで学問の社会性が失われる〉

人間や社会の問題から切り離され、社会を考慮しない一面的な領域を証明するための、専門分野のための学問になると
その研究成果が、現実社会でどう使われるか関係なくなる。

この理論は物理的に正しい(専門的に正しい)からといって地球破壊爆弾を作ってはいけませんよね(笑)

社会から切り離された学問は社会でどう使われるかより、専門内での短期的な利益を追い求めてしまいます。
学者も専門家も労働者でお金が必要ですから、出資者の方向性に研究が向かい自己目的化(本来の目的を忘れ別の目的を目指すこと)を引き起こし、
成果主義や論文主義、金儲けのための学問に陥る危険性があります。

✅【落とし穴から抜け出せなくなる心理】

このような不都合な事実に直面した場合、事実や責任を否認することがある。

[予測される否認のパターン]
単純な否認:不快な事実についてその現実をすべて否認する。(臭い物に蓋をする)

最小化  :事実について認めるが、事の重大性は否認する。現実の害を小さく捉えて心を守る。(事実の矮小化)

責任転嫁 :事実と重大性を認めながらその責任を政治家や社会に責任転嫁する。

合理化  :自分の立場や状況では正しい選択であり「仕方が無かったんだ」と自己正当化する。また一面的な正当性(一面的な合理性)を盾にして自尊心を保護する。

道徳的合理化:事実について認めるが、自分の行動の一面的道徳性を盾にして自己正当化する。それにより道徳的に自分を許し自尊心を保護する。

隔離   :思考では認められているが行動が分離する。「本音と建て前」が一致できない。おかしな行為だと自分では気づいているがその行為が止められない。周りの反応を気にして正しい行動ができない。周りを気にしすぎなど強迫観念による場合が多い(事なかれ主義)

知性化  :事実により感情が動かされることを避けるために、浅い知識レベルで理解したことにして満足(合理化)し事実を放置する。

軽蔑   :相手を卑下しても事実は変わらないのに、相手を非難して拒絶し意識から排除することで、相手が言う事実から目を逸らす。
自分は相手よりすごいと思い込んだり、相手を軽視して蔑むことで相手の言う事実を振り払おうとする。

[+αバイアス]
認知的不協和:無意識的に間違い/失敗を認めない性質。
自尊心を保護するために、無意識に自らの意見に沿うように事実を曲げ解釈し、非合理な判断を下し自己正当化してしまう。
・無意識に知らず知らずやってしまうことで、意識的には合理的判断だと思ってしまう。
更に費やした努力やコストが大きいほど、また社会的立場が高いほど失敗を認められない傾向にある。
これは失敗を認めたことによる自尊心のダメージが大きくなることに起因する。・傷つくのが怖くなるほど認知的不協和は強まり抜け出しにくい。


上記のように悪いと分かっているのに自己正当化が容易であることや、責任転換や合理化することが容易。
更に無意識に働く様々なバイアスで認知を曲げ自己正当化してしまう。
このように落とし穴から抜け出せなってしまう、
失敗をなかなか認められない肉体の性質を人間は持っている。

✅【落とし穴からの抜け出し方】[間違いを素直に認める、また認めさせる]

🔸⑴受け入れても実益に影響がない場合
受け入れることに大した損は発生せず、実益が発生することを認める。
・局所解を続けるより、全体解をした方が社会にも自分にも利益があることを意識する。
・受け入れた方が罪悪感なくストレスなく生きれる。
・社会的にも信頼される。

わざわざ間違っていたと告白し謝る必要はない、さらっと身を返し変わればいい。それができない人がほとんどで、間違いを認めれるだけで優秀。

間違いや失敗をさっさと認めるのはメチャメチャ得。早めに認めるほど周りと差を付けれる。
間違いを認めるのを進歩しているとポジティブに捉えていい。何も悪い事じゃない。

🔸⑵受け入れると多大な実益の損害がある場合
もし受け入れると研究費が無くなってしまうなどの危機的状況の場合部分的に改善し緩やかに正しい方向に持っていく。
 
🔸⑶外的要因によって改善する。
自浄作用が観られない場合、他者が批判することによって、正しいことをしない方が損失になる構造を作り、行動を正しい方向に向かわせる。                   

✅[正しさの実用化:全体解を求める人間社会のための学問へ]

私は全く専門性、専門分野を否定するつもりはありません。勿論専門的な深い知見も大切です。
しかし有機的、多角的に構成される現実社会で実用的に判断する時には、
一面的な正しさだけで判断すると危険です。

様々な専門的(一面的)な正しさをなるべく統合して、社会的に何が正しいのか総合判断(メタ判断)し、初めて現実社会で使える実用性のある正しさになります。

民主主義社会では全体の判断を下す政治の分野に限らず、全ての専門的な学者、並び全ての国民は社会(全体)を考慮する必須性があります。社会を作る構成員ですからね。

人間社会から切り離された、一面的な正しさ(局所解)のみを追い求めるのではなく、他の分野とも積極的に関わり、社会全体を俯瞰したメタ思考で自身の専門的な正しさが総合的に正しいのか(全体最適解)を求める必要があります。

知識人や政治家に求められるのは専門的視点だけではなく、それらを総合した多角的な視点(ジェネラリストな視点)。
現実をなるべく多角的な視点で正しくとらえ、理論を構成し、現実と照らし合わせて検証し修正する。このプロセスを繰り返し最適化していく。

人間社会で学問が活かされ、それにより人間社会がより活きる。
この当たり前の姿へ。

✅【まとめ】

①専門分野のための学問(自己目的化)に注意
人間社会のための学問という目的から外れ、
手段が目的化されることや(専門分野のための学問になることや)
別の目的のための学問(専門内の評価や金儲けのための学問)になることに注意。

②局所解に注意
専門的に観測する一面的条件の範囲(局所解)では正しくても、
社会全体を考慮し正しさを総合判断(全体解)すると、専門的な正しさが不利益(間違い)になることもある。
・ミクロとマクロの正しさは違うことがある。

③[様々な否認に注意]
めんどうな事、不都合な事実を否認しやすい人間の肉体の性質に注意。
自己正当化しても現実(事実)はダメージを受けている。

④全体解を求める人間社会のための学問へ
知識人並びに国民は専門的知識だけではなく、
多角的な視点から自己の世界解像度を高める必要があり、なるべく世界(人間社会)を正しく認識し全体最適解を求める必要がある。
・目指すのは専門(スペシャリスト)だけではなく、ラプラスの悪魔。
なるべくラプラスの悪魔(広く深く多角的な視点)に近づけるように努力する。

局所解に陥ることや、自己目的化に気を付け、
もう一度何のための学問なのか?を問い直し
学問を人間社会に取り戻そう!

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