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本能寺の変1582 お知らせ №14 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

     お知らせ      №14 

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加筆・修正

  いつも、多くの皆様に御覧いただき大変ありがとうございます。
  さて、表記の件につき、下記の通り、内容の一部を加筆・修正いた
  しましたのでお知らせいたします。

重要 ◎目次小 第12話 

4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 4/7 

はじめに ←目次 ←重要 ◎目次 ←重要 ◎目次小 ← 
→重要 ◎目次小 第1~20話 第21~40話 第41~ 話 
→重要 ◎目次小 ①第1~5話 ②第6~10話 ③第11~15話 ④第16~20話
見えてきたもの 目次 
*「◎」は、重要ヶ所◎マークです。
 10① ◎ 10② ✓ 11 ◎ 12 ◎ 13 ◎ 14 ◎ 15 ◎   
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 

◎第12話  第12話

信長の人物像 保守的 年功序列主義 視野が広い 佐久間信盛の息子
信長の性格  忍耐強い 誇り高い男 執念深い 朝倉破軍 

  ◎佐久間信盛は、別格の存在だった。        『信長公記』
  ◎信盛は、七ヶ国の大軍勢を率いていた。      『信長公記』
  ◎信長の忍耐も、限界に達していた。        『信長公記』
  ◎信盛は、「武」より「財」を優先した。      『信長公記』
  ◎信長は、他の家臣たちへ悪影響を及ぼすと考えた。 『信長公記』
  ◎信長は、誇り高い男であった。
  ◎そして、執念深い。               『信長公記』
  ◎信長は、信盛の息子、信栄の行状に呆れ果てた。  『信長公記』



  以上。
  今後とも、よろしくお願いたします。
                              20240115

NEW!!

目次 が更新されました。

 これで、全体像がよくわかる!!
 毎日更新!!
 原因・動機の究明は、この一歩から!!

重要 ◎目次 が更新されました。

 「本能寺の変」
 原因・動機は、この中にあり!!
 ご注目下さい!!

見えてきたもの 目次 が更新されました。

 これで、さらに、一歩、近づいた!!
 ご期待ください!!

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