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#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ

クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。

これまでの記事↓

(序章)
#01「良い音楽」とは?
#02 音楽のジャンルってなに?
#03 ここまでのまとめと補足(歴史とはなにか)
#04 これから「音楽史」をじっくり書いていきます。
#05 クラシック音楽史のあらすじと、ポピュラー史につなげるヒント

(音楽史)
#06 音楽史① 古代
#07 音楽史② 中世1
#08 音楽史③ 中世2
#09 音楽史④ 15世紀(ルネサンス前編)
#10 音楽史⑤ 16世紀(ルネサンス後編)
#11 音楽史⑥ 17世紀 - バロック
#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック
#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
#14 音楽史⑨ 【19世紀初頭】ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期
#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
#16 音楽史⑪【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
#17 音楽史⑫【19世紀後半】 普仏戦争と南北戦争を経て分岐点へ
#18 音楽史⑬【19世紀末~20世紀初頭】世紀転換期の音楽
#19 音楽史⑭【第一次世界大戦~第二次世界大戦】実験と混沌「戦間期の音楽」
#20 音楽史⑮【1940年代】音楽産業の再編成-入れ替わった音楽の「主役」
〈今回〉#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ

今回は1940年代末から1950年代を取り上げてみます。


録音メディアの進化

20世紀前半を通じて大衆音楽文化の基盤として役割を果たしていた「レコード」ですが、ここまでのレコード盤はSPレコードと呼ばれ、酸化アルミニウムや硫酸バリウムの粉末を固めた混合物で作られていました。割れやすく、片面に短時間(3~5分)の記録(78rpm = 1分間に78回転)という状態でした。ところが、ポリ塩化ビニールを用いることにより、耐久性が上がり、長時間で綿密な記録が可能となりました。これがビニール盤、またはヴァイナルと呼ばれ、現在でもレコードを示す言葉となっています。

1948年にLPレコード(33 1/3rpm)が発売。
(こちらが両面の長時間記録の標準となりました。)

1949年にEPレコード(45rpm)が発売。
(シングルレコードとして定着し、ドーナツ盤と呼ばれました。)

こうしたLP/EPなどのビニール盤(ヴァイナル)の登場により、周辺技術の開発も加速していきました。SPレコードまででは音声データが1チャンネルだけのモノラルでしたが、左右に2つのスピーカーを置いて音を鳴らすステレオ録音の技術の開発が進んでいきます。

さらに、ビニール盤の登場に並行してテープレコーダーも音楽業界に普及していきました。第二次世界大戦中、ナチスドイツにて磁気テープレコーダーの開発が進んでおり、終戦後に、アメリカなど連合国側にその磁気録音技術が流れ込んだため、高音質・多チャンネルを同期させて録音することが試み始められたのです。

このように、1950年代は複数チャンネルの録音と再生時の同期の困難さを技術的に克服していく過程であったのと同時に、新たな録音媒体と録音再生装置を市場に売り込む過程でもありました。ステレオシステムはアンプやスピーカーが2つ必要なため、単純にそれまでの2倍のコストがかかってしまうのです。そのため、様々なデモンストレーションやプロモーションが行われ、徐々にステレオシステムが普及していきました。

1957年にようやくステレオレコードが発売され、ここからしばらくのあいだはモノラル音源とステレオ音源が混在することになります。


楽器の進化

1930年代のスウィングジャズ以降、ギターの音を電気増幅させる試みが始まり、1940年代にエレキギターの原型といえる様々な種類のものが各社から発表されていきましたが、この段階ではアコースティックギターにピックアップをつけるというスタイル(いわゆるフルアコ)であり、中の空洞がハウリングを起こしてそこまで大きな音は出せませんでした。そこで、空洞のないソリッドギターが開発されることになりました。

1948年にフェンダー社が「ブロードキャスター」というテレキャスターの原型が誕生します。1950年代に入ると、現在でも使用されているタイプのエレキギターが続々と発表されます。

1952年
フェンダー「テレキャスター」
ギブソン「レスポール」

1954年
フェンダー「ストラトキャスター」

1958年
ギブソン「フライングV」

さらに、低音楽器もそれまではウッドベース(コントラバス)が役割を担っていたのですが、1951年に「フェンダー・プレシジョン・ベース」が発売され、エレキベースの誕生となりました。

こうしてエレキギター・エレキベースの発展により大音量化が進んでいき、1930年代までの大編成のアンサンブルに匹敵する迫力を小人数のバンドでも実現できるようになったのでした。

また、ギターの大音量化にともない、ピアノの演奏が強打する傾向になったのと同時に、各ジャンルでハモンドオルガンが用いられるようにもなりました。ハモンドオルガンが身近な存在としてあった黒人教会で育った世代が若手ミュージシャンとなっていったことも要因としてあるようです。

さらに、ウーリッツァー(1954)やフェンダー・ローズ(1959)といったエレクトリックピアノの製造・販売もこのころ開始され、これらはもう少し先の1960年代末~1970年代のサウンドに影響を与えるようになります。



ブギを取り込んで進化するリズム・アンド・ブルース

「レイス(人種)・ミュージック」と呼ばれていた黒人音楽市場が"再発見"され、「リズム・アンド・ブルース」の語がつけられた1940年代末。

スウィング・ジャズの衰退により、「ジャズ史」からの視点では、小コンボ編成による即興演奏の競争・スポーツ的ジャンル「ビバップ」の革命的な誕生から大衆性を捨てた「モダンジャズ」の時代となってしまいましたが、その裏ではスウィングジャズが担っていたダンス・エンタメ路線のジャズバンドも小編成化して継続し、ブルースフィーリングを強めて「リズム・アンド・ブルース」の方向へ統合されていき、黒人大衆に人気になっていました。

ブルースやジャズの中でのピアノの演奏パターンのひとつとしてブギ(ブギウギ)というスタイルがありました。

このころビバップ段階になったジャズは「即興演奏の競争」的な側面が強調されてしまい、スウィング的な踊れるリズムから離れていってしまったのと反対に、「リズム・アンド・ブルース」では、より踊れるようにブギのリズムが強調されるようになりました。

「ブギ」はピアノ演奏の一形態から、スウィングにかわるポピュラーなリズムスタイルとしてより様々なジャンルの楽器演奏者、歌手に幅広い解釈をもって取り入れられていったのです。

このようなリズムアンドブルースのアーティストとしてはプロフェッサー・ロングヘアルース・ブラウンが挙げられます。こういったスウィングジャズを小規模化したような、シティブルース的な流れを持つ、ブギのリズムが強調された音楽はジャンプ・ブルースとも呼ばれるようになり、リズム・アンド・ブルースという枠組みの中の主要ジャンルとして影響力を持つようになりました。そして、ギターの進化とともに徐々に大音量化し、サックスなどのホーンセクションも荒々しく派手になり、ドラムによるバックビートも強化されていきます。



「ロックンロール」の誕生

1920年代にレコード会社のマーケティングの都合で音楽に人種の境界線が引かれて登場した「レイスミュージック」の区分けは1940年代になってもその分類が引き継がれ、

白人中産階級向けの「ポピュラー」
南部白人労働者向けの「カントリー&ウエスタン」
黒人向けの「リズム&ブルース」

というような棲み分けが続いていました。

しかし、1950年代に入り、1つの曲が複数のジャンルのチャートに登場するようになります。白人の若者に黒人のリズム&ブルースが話題となり始めていたのです。

1951年、オハイオ州クリーヴランドの人気ラジオDJ、アラン・フリードがこういった黒人音楽に目を付け、「ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティー」と名付けた自分の番組でリズム・アンド・ブルースの楽曲を紹介し始めたところ、白人の若者たちに熱狂的な人気となっていきました。アラン・フリードは、リスナーの趣向を見極めながら、レコードのセールスマンとして、またヒット・メーカーとして、リズム・アンド・ブルースの曲を紹介していきました。

一般の白人達にはリズム・アンド・ブルースはまだまだ「レイスミュージック」という黒人社会のみで聴かれる音楽という常識が拭えていなかった事情もあってか、番組名からとった「ロックンロール」という語がそのままジャンル名として、リズム・アンド・ブルースを指し示す言葉として定着して広まっていったのです。

リズム&ブルースの人気が白人ティーンエイジャーの間で高まるにつれて、カントリーミュージシャンがブルースやリズム&ブルースのカヴァーを始め出します。同時に、リズム&ブルースのミュージシャンもカントリーのカヴァーをはじめ、お互いのスタイルが結合していき、ロックンロールのスタイルとなっていきました。

カントリーシンガーの出身からリズム&ブルース路線へと転身し人気となったのがビル・ヘイリーです。1955年の映画「暴力教室」の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が一大センセーションを巻き起こし、「若者の反抗」の象徴としてとらえられるようになっていきました。

さらに、エルヴィス・プレスリーが登場し、圧倒的な人気となります。エルヴィス・プレスリーは、白人用に薄めたリズム&ブルースではなく、本気の姿勢で黒人スタイルのワイルドさを表現しようと取り組んだところが画期的だったのでした。「曲に合わせて腕や腰を振る様子はあまりに下品」であり、「ロックンロールは青少年の非行の原因だ」と大人たちから大きな反感を買うようになりました。

エルヴィスの影響を受けて、黒人をリスペクトする形で表現したロック・スターが続々と登場しました。ジェリー・リー・ルイスカール・パーキンスバディ・ホリーなどです。このような、白人のカントリー(ヒルビリー)と黒人音楽との融合の側面があるロックンロールはロカビリーとも呼ばれました。

一方、当の黒人サイドのリズム&ブルースを出自として、ロックンロールへの変遷期において影響力を発揮したのアーティストには、リトル・リチャードチャック・ベリーがいます。リズム&ブルースを基盤としながらも、ゴスペルやカントリーの要素も取り入れ、50年代のロックンロールのスタイルを確立しました。

ギターサウンドが中心となってきていたロックンロールにおいて、リトル・リチャードやファッツ・ドミノは、ピアノ演奏を武器に人気となりました。

また、1940年代にボーカル・コーラスブームが起こっていたブラック・ゴスペルからは、ドゥー・ワップというジャンルが誕生し、こちらもロックンロールとの関連が強いジャンルとして人気となりました。


アメリカの音楽業界全体でのロックンロールの大きな影響として、ニューヨーク中心産業を解体してしまった点があげられます。南部の出身のアーティストが多く台頭し、地方のラジオ局によってムーブメントが巻き起こったのは、ティン・パン・アレーのポップスの影響力が決定的に低下してしまったことを示していました。

1920年代以降、アメリカの音楽産業は基本的に人種による音楽ジャンルの分節化を進めてきましたが、ロックンロールはそのような境界線を崩壊させ、ポップスチャートに黒人ミュージシャンが多く登場したり、リズム&ブルースのチャートに白人ミュージシャンが多く登場するなど、「人種混淆」の形相を呈しました。一方で、「若者文化」としてロックンロールが人気を得たことで、これまでの「人種による音楽ジャンルの分断」に替わってアメリカ社会は「世代間での分断」の問題が新たに顕在化していったのでした。

さて、このように一大ムーブメントとなったロックンロールですが、わずか数年のブームでいきなり失速してしまいます。その大きな原因2つありました。1つは、ロック・スターが相次いで表舞台から去ってしまったことです。1957年、リトル・リチャードが突然の引退。1958年にはエルヴィス・プレスリーの徴兵・入隊が公表され、ジェリー・リー・ルイスのスキャンダルが発覚します。1959年にはバディー・ホリーをのせた飛行機が墜落し、死亡。チャック・ベリーが淫行容疑で逮捕されてしまいました(濡れ衣ともいわれています)。

もう1つは、ペイオラ事件です。当時レコード会社では、ラジオでレコードを多くかけてもらうために、DJに多額の賄賂を支払っていました。これをペイオラといい、DJはラジオで同じレコードを毎日のようにかけ、ヒットを叩き出していました。このように、ヒットのために賄賂を渡す行為は何も突然始まったことではなく、19世紀のティンパンアレーから実は日常的に存在していました。楽曲(楽譜)を舞台で使ってもらうために劇場主や人気スターに賄賂を差し出すことでヒットを産み出していて、その文化が引き継がれていただけだったのでした。しかしそれが、ラジオやテレビなどのメディアでエスカレートしていくと、見過ごせなくなり、また、槍玉に上がったDJがロックンロールを流していたことから、「社会悪」であるロックンロールブームを駆逐しようという意図もはたらき、ティンパンアレー系の著作権団体であるASCAPが激しく非難して議会へと働きかけ、ペイオラを違法とする法律が制定されることとなったのでした。「ロックンロール」の名付け親だったアラン・フリードは罪を認め、名声は失墜してラジオ局を解雇されてしまいました。

こういった要因により、ロックンロールは一瞬にして衰退してしまいました。

さて、このあと「ビートルズの登場までチャートは再び退屈な音楽で占められてしまう。」と、従来の「ポピュラー音楽史」ではここからまるで空白期のように語られてしまいます。しかしこれは、反抗心のある若者音楽を「正史」、商業的なポップスを「退屈、悪」だという一方的な視点で選別された、ロック中心的すぎる歴史観だと言わざるを得ないのではないでしょうか。実際のところはこのあとの期間も停滞期なんかではなく、20世紀前半のジャズ・ブルース~ロックンロールまでの音楽傾向から脱皮し、その次の新しいポピュラー音楽手法が発展するための充実した転換期であるということを次回の記事では確認したいと思っていますが、こういった「ポピュラー音楽史」の名をかたった「ロック史」は、ドイツ発祥の進歩史観的な美学にとらわれた「クラシック音楽史」や、即興性だけにフォーカスしてしまった「ジャズ史」、荒々しく原始的なものをホンモノだと定める「ブルース史」などと同じく、特定の価値観によって視点を固定化し、全音楽史からジャンルの価値観を分断させる原因になるものだと感じます。



ソウル・ミュージックの萌芽

リズム&ブルースのアーティストの中で、特にゴスペル的要素を取り入れていたレイ・チャールズサム・クック、ジャッキーウィルソンといったアーティストは、ロックンロールとは別に影響力を持つようになり、後にソウル・ミュージックとして発達していくことになります。「神様を讃える」敬虔なゴスペルミュージックと、俗物的な「悪魔の音楽」リズム&ブルースを「魂を売って」融合させてしまったと捉えられたために、そう呼ばれるようになりました。




モダンジャズの隆盛

音楽史全体の流れで見ると、1930年代のスウィングジャズブームのあとは1940年代のリズム&ブルースなどから1950年代のロックンロールへと繋がっていくのですが、「ジャズ史」にフォーカスした場合、1930年代のスウィングジャズのあとは1940年代のビバップの誕生からモダンジャズの段階に入っています。ビバップはミュージシャンどおしの技量試し・スポーツ的な要素が特徴でした。


スウィングジャズが衰退し、このような小コンボ編成の演奏が主流となっていた中で、スタン・ケントンビッグバンドを継続し、クラシック的な理論やハーモニーを強調して、ジャズアンサンブルをダンスのためのバンドではない「純粋なコンサート・オーケストラ」にしようと努めていました。スタン・ケントンは自らの音楽をプログレッシブ・ジャズと呼びました。このプログレッシブ・ジャズという言葉は結果的にジャンルとして確立されるまでには至りませんでしたが、白人ミュージシャンの多かった西海岸のジャズの形成に大きな影響を与えました。そして、ニューヨークなど東海岸で熱い演奏を繰り広げられていたビバップと対比されるようになります。

さて、ビバップを牽引した主要ミュージシャンは前回の記事でも紹介しましたが、そんな巨匠プレイヤーたちの中で揉まれながら食らいついて奮闘していた、ある一人の若手トランペッターがいました。それはマイルス・デイヴィスです。マイルスはビバップの創始者チャーリー・パーカーら先輩プレイヤーのもとで修行をしていましたが、次第に独自のサウンドを追い求めるようになります。ビバップの音楽的要素を受け継ぎながら、アドリブの長さや音を整理し、編曲という形でジャズの音楽理論の洗練化を試みました。そして、編曲家のギル・エヴァンスとともに作り上げられ、1949~50年に録音された「クールの誕生」というアルバムでそれが一つの形に結実します。

スタンケントン楽団のサウンドや、マイルスの室内楽的なサウンドは、ビバップのインパクトによって即興演奏一辺倒の風潮に包まれていた当時のジャズ界への反動としてとらえられました。こういったスタイルはリー・コニッツ(A.Sax)、スタン・ゲッツ(T.Sax)、レニー・トリスターノ(Pf)などによって演奏され、統率の取れた白人寄りのサウンドとしてクール・ジャズと呼ばれました。クール・スタイルのムーブメントは、1940年代の終わりから1950年代の初めにかけてのわずかな期間でしたが、そのクール・ジャズの影響を強く受け、次に西海岸ではウエストコースト・ジャズとよばれるスタイルが誕生することになりました。

1950年に勃発した朝鮮戦争においてロサンゼルスが太平洋岸の拠点になったことによる軍事景気の影響や、ハリウッド映画産業の隆盛によるサウンドトラック録音などの音楽産業の活況により、西海岸には実力のある優れた楽器演奏者たちが集まるようになっていました。彼らはスタジオでの仕事を終えると、夜にジャズクラブで盛んにジャム・セッションを行っていたのです。譜面に強かった彼らは、オリジナルを書いたり、抑制のきいたアレンジをしたりして、ビバップの手法を取り入れながらも、マイルス・デイヴィスが示したクール・ジャズにも影響を受け、より洗練された知的なスタイルを作り上げていきました。このようなウエストコースト・ジャズの中心的な存在となっていたミュージシャンは、チェット・ベイカー(Tp./Vo.)、アート・ペッパー(Sax)、ポール・デスモンド(Sax)、シェリー・マン(Dr)、ジェリー・マリガン(B.Sax)らがいます。


モダンジャズの歴史はこうして、「黒人的で熱い即興」と「白人的で落ち着いた洗練」の二面性を抱えることになります。1955年にチャーリー・パーカーが死亡し、ビバップの“第一波”が下火になっていくと、その後を引き継ぐ若手のジャズ・ミュージシャンたちは、自分たちのスタイルを探るようになります。リズム&ブルースなどのサウンドにも影響を受け、演奏テクニックだけを競う面が強くなりすぎた初期ビバップに対して、即興演奏の側面を受け継ぎつつもメロディアスでブルージーな要素を共存させようと取り組みました。こうして生まれたのが「ハード・バップ」というジャンルであり、モダンジャズの中心的なサウンドとして「ジャズの王道」になっていきました。

クールジャズを示した後ニューヨークの中心的存在となっていたマイルス・デイヴィスのリーダーによるバンドや、ドラム奏者のアート・ブレイキーによるアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズミルト・ジャクソン (ヴィブラフォン)やケニー・クラーク(Dr)によるMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)などのバンドを筆頭として、黒人ミュージシャンたちが集まり、様々なメンバーで互いにセッションしながら、ライブや録音を重ねていきました。ハード・バップの中心的なミュージシャンは他にも枚挙にいとまがありません。

【ハード・バップの代表的ミュージシャン】

マイルス・デイヴィス(Tp)
アート・ブレイキー(Dr)
ソニー・ロリンズ(Sax)
クリフォード・ブラウン(Tp)
マックス・ローチ(Dr)
ソニー・スティット(Sax)
ジョン・コルトレーン(T.Sax)
チャールズ・ミンガス(Ba)
デクスター・ゴードン(T.Sax)
レッド・ガーランド(Pf)
ハンク・ジョーンズ(Pf)
エルヴィン・ジョーンズ(Dr)
ポール・チェンバース(Ba)
ケニー・ドリュー(Pf)
ウィントン・ケリー(Pf)
ケニー・クラーク(Dr)


特に、ハードバップの中でもブルースフィーリングやゴスペルミュージック、ソウルミュージック的な要素などに似た、黒人性が強いと受け取られたものは「ファンキー・ジャズ」とも呼ばれました。



ラテン音楽の影響

キューバン・ミュージックとしては40年代~50年代にかけてマンボが欧米に輸出されて人気となっていましたが、50年代にはキューバ本国で、ソン/ダンソンをベースとしてマンボよりもテンポを落としたチャチャチャというスタイルが流行しました。エンリケ・ホリンが代表的です。

また、キューバ音楽はジャズ・ビバップへも影響を与え、スタイルが融合してアフロ・キューバン・ジャズとしてジャズで演奏されるリズム・スタイルの1つになりました。


所変わってブラジルでは、カーニバルで演奏されていたサンバは若者にはウケが悪く、ジャズやアメリカンポップスが人気となってしまっていました。そんな中で、リオデジャネイロのコパカバーナやイパネマといった海岸地区に住む白人中産階級の学生やミュージシャンたちによって、サンバに対抗するようにボサノバというスタイルが新たに誕生します。サンバの作曲時に、大きい音が出せないアパートで、優しくギターを鳴らしながら小さな声で歌ったことでこのようなスタイルが生まれたと言われています。これがサンバの洗練化と捉えられ、特にアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルトによる楽曲が大ヒットとなりました。



映画やミュージカルでのヒット

50年代はリズム&ブルースやロックンロールを中心とした音楽史に目を向けられがちですが、ミュージカル界でもこの時期に有名作が誕生しています。「マイ・フェア・レディ(1956)」「ウエスト・サイド・ストーリー(1957)」「サウンド・オブ・ミュージック(1959)」などです。これら3作は現在でも人気top3といわれる名作ミュージカルとして歴史に残りました。これらはすぐこのあとに映画化もされ、全世界へ広まっていきました。


映画史的に見ても50年代はミュージカル映画がピークとなり、「巴里のアメリカ人(1951)」「雨に唄えば(1952)」「バンド・ワゴン(1953)」などが名作として残っています。

ディズニーアニメでは「シンデレラ(1950)」「不思議な国のアリス(1951)」「ピーターパン(1953)」「眠れる森の美女(1959)」などから名曲が誕生しました。

これらの音楽は、もちろんクラシック音楽史には記載されるわけがないですし、かといってロック中心史観のポピュラー音楽史的にも「黒人音楽」に対する「商業的な白人のポップス」という位置づけによって「敵」となっていたために音楽史に記載されることは無く、たくさんの楽曲が残っているにもかかわらず歴史記述として一番目が向けられにくい分野だと思います。



もはや行き詰まり?「現代音楽」

さて、こうやってポピュラー音楽史の隆盛と併記する形になると、この時代ではもはや「オマケ」状態な感もある「西洋芸術音楽史」。クラシック音楽史から続く実験的な「現代音楽」のようすも引き続きみてみます。

戦後の潮流としては、楽譜上での音の管理方法を追求した「トータルセリエリズム」が主流となっていましたが、ジョン・ケージが「楽音」「作品」の概念を問う実験を始めたところまで前回は書きました。

1950年代に入ると、さらにアイデア最優先の発明作品が増えていきます。作曲過程に中国の「易」という占いを用いた「易の音楽」や、コインを投げて音を決めなければならない「チャンス・オペレーション」、「楽譜」が用意されていてもその演奏の過程で何らかの仕掛けによって演奏・聴取のたびに異なる音響効果が得られるように設計された「不確定性の音楽」などを創始しました。これらを総合して「偶然性の音楽」と呼びます。このような実験作品の末に、1952年、ついに有名な問題作「4分33秒」が発表されました。

楽譜には休符が書かれているだけ。現在はネタ曲として大変有名ですが、芸術音楽界としては大真面目な実験音楽として評価されている「現代音楽」作品です。会場内の偶然的なノイズを聴取するという意図をもって作曲されたこの作品は、クラシック音楽のたどってきたドイツ的美学の末にシェーンベルクが提示した「新しさ」に固執して研究を深めていった末路であるといえるでしょう。

そもそも考えてみてください。記譜以外の要素が入る音楽(=即興演奏など)は、ジャズを中心としてポピュラー音楽の世界では既に当たり前なのです。しかしそれらは芸術音楽史の系譜では評価されずにきました。なぜなら、芸術音楽の美学の理屈でいえば、「大衆のための音楽」の即興演奏は「バロック時代にあったような前近代的文化」であり、メロディーやハーモニーが存在する「ロマン派の域を出ない」音楽だからなのです。音楽理論的な発展と「記譜による作品である」というベートーヴェン以来の暗黙のルールのテーブルの上で「哲学的・美学的な問題」を浮かび上がらせるための新しい技法の提案・実験であることが「現代音楽」の条件なのです。

そのため、ジャズにせよ、ロックにせよ、それまで無かったジャンルや新しい音楽の楽しみ方が次々と誕生して多くの人々に実践されていたとしても、それらはすべてクラシック音楽学的に「新しくない音楽」であり、問題とされないのです。

「ジョン・ケージ以降、取り立てて新しい音楽は産まれていない」というのが芸術音楽界の主流な見解となっていますが、それは「芸術音楽」の進歩・歴史の方向性をドイツ的に定め、過去の手法を取ることを禁止し、調性音楽の新しい発展をすべて黙殺している以上、当然の帰結でしょう。

一方、「現代音楽」は批判されればされるほどその価値が高まります。「芸術音楽」が理解できない大衆の耳は愚かであり、大衆のための音楽の通念を否定することこそが表現となっているからです。

「現代音楽」という名称がついている地点で、芸術音楽の特殊な歴史観に支えられて分類されているこの用語自体が「現代の音楽」の中で特権的であり、エリート的であり、スノビズムであるという批判も高まっています。

ここから現代音楽はさらに、新規性の追求の「大喜利」の様相を呈していきます・・・。


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