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【分野別音楽史】#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)

前回からラテン音楽史編に突入し、序論としてもともとの古代ローマから連なる「ラテン」の発祥と、直接的な「ラテンアメリカ音楽史」の源流として重要な「ハバネラ」のリズムの発生に触れました。

ハバネラのリズム

今回からは大きく「アルゼンチン」「キューバ」「ブラジル」の3つに分けてまとめなおしていきたいと思います。

まずは「アルゼンチン編」からです。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉アルゼンチンの歴史

前回説明した通り、中南米地域は長らくスペインやポルトガルの支配下にあったために、ラテン民族化して「ラテンアメリカ」と呼ばれています。

アルゼンチンも1570年代以来スペインの植民地でしたが、19世紀に入り、スペインの属国という地位からの脱却を目指して1816年に「リオ・デ・ラ・プラタ連合州(南アメリカ連合州)」として独立を宣言します。しかし、国内外の領土争いや政治的な争い、土着民族からの土地収奪など、不安定な状態が続きます。1826年には国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)に改称するも、1880年にブエノスアイレスが首都に定められるまで、常に内戦に近い状態に置かれていたといいます。



◉ミロンガの発生

19世紀半ばになると、アルゼンチン~ウルグアイの黒人コミュニティのあいだで、ミロンガと呼ばれるダンスが発生していました。ミロンガの音楽は、アフリカの打楽器音楽や、19世紀初頭にキューバで発生していたハバネラのリズムと、ヨーロッパのポルカなどに、2人の歌い手がギターを弾きながら即興的に歌い合う「Payada de Contrapunto(パジャータ・デ・コントラプント)」と呼ばれる初期のアルゼンチンの歌唱スタイルの要素が合わさったものだと考えられています。


◆アルゼンチン歌唱「Payada de Contrapunto」

◆ヨーロピアン・ポルカ


19 世紀半ばのアルゼンチンでは、このような軽快なヨーロピアンポルカが人気を博していたため、ハバネラと同じリズムパターンである「ミロンガ」は、本来のハバネラに比べてテンポが速くなっており「エキサイティングなハバネラ」とも形容されました。


初期ミロンガに貢献したバジャドール(吟遊詩人)として有名なのが、ガビノ・エセイサ(1858~1916)、イヒニオ・カソン(1866~1914)、ホセ・ベティノッティ(1878~1915)らです。

ミロンガは1860年頃に急速に広がっていき、人気は1870年代にピークとなります。その後も「ミロンガ」はアルゼンチン音楽の1つとして人気を保ち続けますが、一方で、テンポが落ち着いていく形で新たな音楽も派生していきます。それが「タンゴ」です。一部のミロンガは「ミロンガ・シウダダーナ milonga ciudadana」いうサブジャンルとしてタンゴ化し、タンゴに吸収されていきました。ミロンガは現在「タンゴの源流」としても捉えられており、「タンゴ」のサブジャンルの1種としても扱われます。



◉初期タンゴの発生

19世紀の南米では「ガウチョ(牛飼い)」と呼ばれる遊牧民を中心にダンスが踊られていましたが、「ミロンガ」は田舎の黒人の踊りとされてしまっており、白人系のガウチョの間では引き続きヨーロッパルーツのポルカやワルツ、マズルカ(ポーランド)などが踊られていました。黒人のガウチョの間はミロンガ、ハバネラ、そしてアフリカの打楽器音楽を起源に持つウルグアイの音楽カンドンベなどが踊られていました。これらの要素が混じり合うことで、タンゴ誕生への始まりとなっていったようです。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでは、船乗りや労働者、貧しい移民たちが集まる場末の酒場で、フラストレーションのはけ口として男同士が荒々しくダンスが踊られ、そのダンスのことが「タンゴ」と呼ばれるようになっていたと言われています。次第にその踊りは相手を娼婦に代えて踊るようになり、男女が密着する踊りとなっていきました。「下品な踊り」として非難されながらも、下層階級を中心に広がっていたのでした。

そして、そのダンスのための伴奏曲として、上に挙げたハバネラやミロンガ、カンドンベ、ポルカやマズルカなどが用いられ、それら影響しあうことでタンゴの音楽形式が固まっていったようです。そこでは、ギター、フルート、バイオリンが用いられて演奏されていました。1850年代ごろから、「ミロンガ」などタンゴの原型となる音楽は存在していたようですが実態はよくわかっておらず、1880年に楽譜が出版された「バルトール(Bartole)」(作者不詳)が、確かに現存する最初のタンゴ音楽だと言われています。そのため、1880年はタンゴ元年だとされています。

ただ、この楽曲は今日はあまり演奏されていません。現在もよく演奏されている曲の中で最古のものは、1897年、ロセンド・メンディサーバル作曲の「エル・エントレリアーノ(El Entreriano)」という曲だとされます。

さて、アルゼンチンでは1880年にブエノスアイレスが首都に定められ、ようやく国内は安定し、国家としてのまとまりを得ていきます。ヨーロッパからの移民を盛んに受け入れるようになり、大いなる発展の時期を迎えていました。移民者たちが雑然とひしめく港町でタンゴが踊られ、ヨーロッパ移民たちのあいだにも急速に広がっていきました。

そして、ヨーロッパで誕生したバンドネオンという楽器が1890年代後半にアルゼンチンに持ち込まれ、タンゴの伴奏楽器として急速に普及していきます。バンドネオンはヨーロッパでは定着せず、今では「アルゼンチン音楽のための楽器」という立ち位置だと言っていいほどになっています。さらに、蓄音機の登場によって数多くの楽曲も録音されるようになりました。

さらに、アンヘル・ビジョルド「エル・チョクロ(El chocro)」という曲がヒットしたことにより、いかがわしい酒場の音楽とみなされていたタンゴが次第に一般にも広まり始めました。アンヘル・ビジョルドは「タンゴ最初のヒットメイカー」と呼ばれ、これがタンゴを世に知らしめる契機になりました。


※ちなみに、この時期のスペインの代表的なクラシック作曲家にアルベニス、グラナドス、ファリャなどが居ますが、スペインの民族舞踏などの形式を用いた作品を多く発表しており、実はその中に「Tango」という曲も存在しています。下記の動画の楽曲を聴いてもらったらわかるとおり、典型的なハバネラの形式で書かれており、この音楽史記事シリーズ内で僕がたびたびキーワードにしている「クラシックとポピュラーの分岐点」がここにも垣間見ることができます。

クラシック音楽史の記事でも問題提起している部分ですが、バロック時代から、民間の踊りの形式が上流階級の作品にも取り入れられるというのはごく当たり前のことであったため、ラテン音楽を取り入れたクラシック作品の出現も、ごくごく自然なことであったはずでしょう。

しかし、この時期に勢力を強めていたドイツではワーグナーを筆頭として「芸術音楽とは大衆音楽とは違う、真面目で哲学的な作品であるべき」というふうに厳格な線を引くようになり、アルベニスらスペインの作曲家は、東欧の作曲家らと同じく「国民楽派」というロマン派のサブグループに分類されてしまったのでした。

これにより、「ドイツ音楽」という「普遍的・美学的スタンダード」と、それに反動する「周辺国の民族的な音楽」という上下関係を構築してしまったのです。ここに、現在に至るまでの「クラシック」と「ポピュラー」の根深い価値観の分断の原因があると僕は考えています。



◉グアルディア・ビエハ

20世紀に突入し、バンドネオンや弦楽が導入されたタンゴは世界的に伝播していきます。1900~20年代まで、「ダンスミュージック」として数多くのタンゴスタンダードが作られ、「グアルディア・ビエハ(古いタンゴ、古典曲)」と呼ばれています。(「ラ・クンパルシータ」など。)

パリなどに持ち込まれたタンゴは「ヨーロピアン・タンゴ」として人気になり、日本では「コンチネンタル・タンゴ」と呼ばれ1910年代に流行しました。第一次世界大戦を乗り越え、1920年代以降にもフランスパリなどヨーロッパの社交界で引き続き大流行していたタンゴは、そのフランス流のスタイルがさらにアルゼンチンに逆輸入されるなどして盛んになっていきました。

こうして、もともとアルゼンチン本国においては下級な踊りであったタンゴは地位を向上させ、アルゼンチンを代表する音楽として黄金期を迎えます。1930年代から1940年代にかけて、洗練されたタンゴ作曲家や演奏家が次々と登場し、音楽的に円熟していきました。

また、ピアニストのセバスティアン・ピアナが、1931年に『ミロンガ・センチメンタル』を発表し、タンゴのサブジャンルの1つとして、テンポの速い「ミロンガ」も復権していきました。





◉タンゴの低迷期とフォルクローレ

レコードの普及に伴って多くのミュージシャンが活躍したタンゴですが、1950年代半ばを過ぎたころから、次第にアメリカン・ポップスに地位を奪われてしまいます。さらに軍事独裁政権による集会の禁止令が発令されてしまったことにより、社交ダンスとしてのタンゴが衰退してしまいました。若い世代にとってタンゴは「自分の親や祖父母の世代の音楽」とみなされるようになっていき、時代遅れとなってしまいました。

一方で、南米の伝統的な民族音楽の継承として「フォルクローレ」が台頭し、人々の興味はそちらに移っていきました。

「フォルクローレ」という語はもともと「民俗伝承」全般を指しますが、1950年代ごろからアンデス山脈周辺の国々の音楽が注目され、ボリビア・ペルー・エクアドル・アルゼンチンのあたりで、南米先住民の音楽とスペイン系の音楽的伝統を融合して完成した新しい音楽を「フォルクローレ」と呼ぶようになったのでした。

代表的な曲としては、ペルーの「コンドルは飛んでいく(エル・コンドル・パサ、El condor pasa)」やアルゼンチンの「花祭り(ウマウアケーニョ)」などがあります。「コンドルは飛んでいく」はサイモン&ガーファンクルのカバーにより、世界的に有名になりました。


◉モダン・タンゴ

タンゴは低迷期の中、精鋭ぞろいの小編成の楽団によって、古い作品を現代的な解釈と高度な演奏技術で聞かせるスタイルが生まれ始めます。

1960年に結成された『キンテート・レアル(Quinteto Real)』が代表的で、従来のタンゴのレパートリーにモダンな解釈を加えて、新たな魅力を引き出しました。

マリアーノモーレス(Mariano Mores)は、アルゼンチン国内向けの小編成と、欧米市場向けのシンフォニック・タンゴを使い分けることで成功しました。

他にもバンドネオン奏者のフリアン・プラサや、アニバル・トロイロ、ギターのロベルト・グレラらが登場し、次世代のタンゴが確立されていきました。こうしてタンゴは、「踊るためのタンゴ」から「聴くためのタンゴ」へと移行していったのでした。従来の社交ダンス的な側面を捨てた、こうしたタンゴが「モダン・タンゴ」とされます。


そして、この流れに於いて、さらに大胆にタンゴを芸術化したのが、クラシック史の項でも紹介したアストル・ピアソラなのです。代表曲の1つである『リベルタンゴ』は現在ジャズやポップスでも頻繁に演奏されるスタンダード曲的な立ち位置となった一方で、組曲『ブエノスアイレスの四季』など、クラシック楽曲として受容されて演奏・鑑賞されている作品も多く存在しています。

ピアソラは各国で演奏活動も精力的に行い、1992年に死去した後もその作品への評価はますます高まっています。こうして、タンゴの歴史は途絶えることなく現在に至っています。

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