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【分野別音楽史】#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)

『分野別音楽史』の第二回、クラシック史の捉えなおし編です。前回は一般常識的な『クラシック正史』を追っていきましたが、以前の記事から指摘しているとおり、実はこの史観はかなり特定の視点から描かれているものなのです。

今回はそのような史観がどのように成立していったのかという外側からの視点で、クラシック音楽の歴史を改めて捉えなおしていこうと思いますので、是非最後までお読みください。それではまいります。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉古代

声高に「西洋音楽史を捉えなおす」と言っていますが、僕は別に史料を研究して「失われた古楽の復元」などを志したり、考古学的な研究を進めようとはしていません。

なので、古代に関してはあまり深入りしないでおきたいのですが、古代についてここで1つ問題提起をするとすれば、音楽史として「古代ギリシャの音楽史だけが評価されがちだ」ということを挙げたいです。

一般の世界史的な流れとしては古代ギリシャから古代ローマへと続きますが、音楽史的には「ローマはギリシャ文化が引き継がれただけであまり音楽的には特記事項は無い」とされがちです。

しかし実際のところは、音楽が戦争の合図や軍楽的に用いられたり、現在の芸術的な役割とは別の機能を持っていたともされ、本来ならばそのようなこともきちんと「音楽史」として捉えていくべきなのです。

しかしクラシック音楽史は、芸術としての「美学的意味」の観点から歴史が綴られるため、何かの道具的な役割としての「音楽」は無視され、劇場音楽や数理的なピタゴラス音階が発達したギリシャ文化が重要視されるのだ、という点は頭に入れておいて良いでしょう。



◉中世

中世に入り、ヨーロッパ一帯はキリスト教文化圏になりました。ギリシャやローマなどで栄えた古代の豊かな文化は忘れ去られてしまい、暗黒時代へと突入します。

音楽に限らず、そもそも大陸の端っこにあるヨーロッパという地域はこの時代「辺境」であり、世界史的に見てもこのころ社会が発展していたのは実は中東地域・アラビア世界です。ヨーロッパと違い、ギリシャ文化をきちんと引き継いで保存・発展させていったのもアラビア世界だったといわれています。

7~8世紀ごろにはササン朝ペルシャで生まれたバルバッドという楽器がシルクロードによって各地に伝わり、アラビアではウード、ヨーロッパではリュート、中国・日本では琵琶へと発展しました。

画像引用:私家版 楽器事典
https://saisaibatake.ame-zaiku.com/gakki/history/history_barbat


他にも、13~14世紀ごろには弓で弦をこするタイプの弦楽器がアジアの騎馬民族からもたらされてフィドルやバイオリンの元になったり、トルコの軍楽隊からは打楽器が発展するなど、その後のヨーロッパ芸術に欠かせない楽器へと進化していくことになる楽器の元はアジアや中東地域からの発祥が多かったりします。

クラシック音楽史は近代ヨーロッパ人のための歴史なので、このあたりは都合よく隠され、キリスト教文化圏に「紙資料」として残されていた「楽譜(ネウマ譜)」のある「グレゴリオ聖歌」が重要なルーツとして一大トピックに挙げられるのです。

資料が残っていると、歴史として語ることができます。資料の残らない、民間での口承での「世俗歌」もヨーロッパ地域にあった可能性はありますが、それは「正史」になっていません。

仏教においてサンスクリット語の経典を読み上げるお経などと同じく、キリスト教においてラテン語の聖典を読み上げる宗教儀式「聖歌」は、聖職者・貴族という「エリート階級」の権力によって支えられ、イタリア~フランス~ドイツの地域に「紙に書いて設計され残された文化」として残っていたために「正史」となることができたのです。




◉ルネサンス

ご存知のとおり、絵画や彫刻なども含めたルネサンスの文化はイタリアから始まります。イタリアには都市国家が栄え、祝祭的な雰囲気に包まれました。音楽も例にもれず、ここから長い間イタリアが西洋音楽の中心地・発信地として栄えることになります。五線譜のルールがまとまったのもイタリアであり、現在使われている多くの音楽用語やドレミの階名などもイタリア語です。バイオリンが誕生して数多くの名器が生み出されたのもイタリアです。

しかし、現在語られる音楽史は何故か「ドイツ」を中心に語られてしまっています。

ここまで指摘してきた「非西洋地域の繁栄や民族音楽・世俗音楽」などの問題はひとまず横に置いておき、シンプルに「ヨーロッパ芸術音楽の歴史」を考えていくとしても、今度はこの「イタリアとドイツ」の問題が非常に重要になってくることを覚えておいてください。

前回紹介した通り、通常の音楽史はバロックからが本編スタートであり、ルネサンス音楽以前は「前史」になってしまっています。

いくら西洋中心に語るのだとしても、普通に考えれば、多くの西洋音楽の直接的ルーツが生まれたイタリアのルネサンスを起点として書かれるべきだと思いませんか。そうなっていないのは、イタリア中心の歴史ではなく、バッハやベートーヴェンなどの「ドイツ人のヒーローによる音楽史」を紡いで語りたいがためだといえます。どうしてそうなってしまったのかは後ほど触れます。

さて、「クラシック正史」のほうでも書いたとおり、ルネサンスは複数声部の旋律の重なりから成立する「ポリフォニー」の全盛期でした。ですが16世紀ごろにもなると、声楽文化が器楽と合体し、既にポリフォニーが衰退していく兆候が表れ始めます。つまり、旋律どおしを重ねる(横軸)のではなく、の線 (和声、ハーモニー)での考え方が出現したのでした。

引き続き、音楽の中心はイタリア地域。特にヴェネチアで盛んとなり、後にヴェネチア楽派と呼ばれました。

さらに、フロットラマドリガーレといった世俗歌曲も流行し、これがオペラ誕生への重要な布石となります。




◉バロック(17世紀)


◆ドイツ三十年戦争

17世紀に入り、世界史的に重要な出来事として、ドイツで1618年~1648年に三十年戦争と呼ばれる宗教戦争が勃発します。ドイツの人口の20%を含む800万人以上の死者を出し、野蛮で残忍な行為が横行し、人類史上最も破壊的な紛争の一つとなりました。

そんな混乱状態にあったドイツは、そもそもイタリアやフランスに比べて文化を発信することがない「音楽後進国」とされていました。当時ドイツではドイツ語しか話せないのは教養のない者のことになり、エリートたちはみな、先進国のイタリア語かフランス語で喋ったといいます。


◆バロックとは

さて、そんな17世紀からバロック時代の幕明けとなります。バロックとは「いびつな真珠」という意味で、ルネサンス後のダイナミックな芸術運動として音楽に限らず美術・彫刻・建築などで広がった運動です。

イタリアでは、宗教改革などで権威の落ちたローマカトリック教会の威信の回復のために、豪華絢爛なバロック建築が活用されました。フランスでは17世紀、ブルボン王朝のルイ13世~14世の時代、絶対王政が確立します。王の力を誇示するため「ヴェルサイユ宮殿」をはじめとするきらびやかな建物や様式がつくりあげられました。王や貴族が贅沢の限りを尽くし、音楽もそんな贅沢の一部でした。作曲家を大金で雇い、ことあるごとに作曲させられます。

このように、バロックとは「きらびやかな王侯貴族の文化」ととらえてください。はっきりとした強弱や、カッチリとした縦のハーモニーが音楽的な特徴と言えます。



◆オペラの誕生

バロック期の最大のトピックは、オペラの誕生です。フィレンツェの貴族中心の文化人グループ・アカデミー「カメラータ」が、演劇・音楽・舞踏が一体となった総合芸術、古代ギリシャ悲劇の復興を試みたのです。1597年に世界最初のオペラが生まれたとされていますが現存しておらず、1600年『エウリディーチェ』という作品が現存する最古のオペラ作品です。

フィレンツェから起こった新様式の音楽はイタリア全土へと広まりましたが、特に功績が大きかったのが、ヴェネチア楽派モンテヴェルディ(1568~1643)。このようにして、ヴェネチアオペラが隆盛していきました。

また、ストラディバリ、ガルネリ、ガスパロダサロ、マジーニなどのバイオリンの名製造者がこの時期のイタリアに登場し、弦楽が栄えるようになります。鍵盤楽器はチェンバロが中心。また、それまで合図用だったトランペットも、ソロ楽器として音楽に使われるようになります。17世紀後半には、フルート(バロックフルート)が生まれ、オーボエやファゴットも使われるようになりました。ここから、管弦楽(=オーケストラ)への萌芽がみられます。


◆フランス宮廷文化

先述したように、フランスでは絶対王政が確立します。その権力をより強固にするため、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を築き、王を中心とした「宮廷社会」が成立します。

貴族たちはルイ14世に服従しながら仲間の連帯意識を持たされ、数々の「儀礼」によって自分の地位を競争しながらネットワークを形成し、王に飼いならされていきました。狩猟・スポーツ・儀礼・文化活動などを通じて社交を行うことで、王の威光を高めていきました。毎日のように祝祭が行われ、花火大会、馬上試合、舞踏会や晩餐会などの宮廷文化が花開きます。

これらの隅々を彩ったのがバロック音楽です。17世紀前半はバレエがたしなまれ、17世紀後半にかけてオペラが中心になりました。ルイ14世の宮廷音楽の実権を握っていたのがリュリ(1632~1687)でした。フランスオペラの創始者といわれます。





◉バロック後期(18世紀前半)


◆本来はロココの時代

美術や建築など、他の文化史では、バロックに続く潮流としてロココと呼ばれる時代に入ります。バロックが王の権威を彩るダイナミズムだとすれば、ロココは軽やかさ・洗練の傾向といえます。しかし、音楽史ではなぜか、ここからの時代の音楽のほうが多く「バロック音楽」として知られているため、時代感の把握がややこしくなっているということを理解しておくと良いでしょう。


◆イタリア音楽

イタリア音楽は引き続き隆盛を誇ります。フィレンツェで生まれ、ヴェネチアを中心に広まっていったオペラは、やがてナポリでさらに発展していきました。その中心人物はアレッサンドロスカルラッティ(1660~1725)です。

また、ヴェネチアではヴィヴァルディ(1678~1741) が活躍します。
ようやく聞きなじみのある名前が登場したのではないでしょうか。

さらに、ドイツ出身のヘンデル(1685~1759)も、イタリアに出て成功(後にイギリス人に帰化)。


◆フランス宮廷音楽

フランスでは、リュリに続いて、クープラン(1668~1733) ラモー(1683~1764) が活躍。こちらは、ロココ音楽ともされるグループです。



◆さて、ドイツでは

ルターの宗教改革以降、プロテスタントの牙城になったドイツ諸地域では、社会の混乱が続く中で神との結びつきを大切にし、敬虔な雰囲気での教会音楽が捧げられていました。中世から長らくペスト流行も続いており、さらに30年戦争など長年の戦争が続いて国土は荒廃し、随分と長いあいだ混乱が続いている状態です。

そんな中で17世紀後半にはオルガン音楽を中心にブクステフーデ (1637頃~1707) や パッヘルベル(1653~1706) が活動していました。

そして、それに続いてバッハ(1685~1750) が活動します。バッハの作品は対位法を駆使した綿密なパズルのような作風。

縦の線や華やかさを重視するバロックやロココの流行から比べてもその技法は実にマニアックで、質実剛健な中世由来のポリフォニックな様式にもとづくものでした。同い年生まれで国際的に活躍したヘンデルに対し、バッハは生涯ドイツ圏内にとどまっており、死後もしばらくのあいだマイナーな存在のままでした。19世紀にドイツ人の手によって「発見」されるまで…。

今日我々が教わる音楽史ではその「発見された」視点で語られているため、バロック音楽の代表として「音楽の父・バッハ」が真っ先に登場しますが、それがバロックのイメージを混乱させる一因になっています。

ドイツ系の音楽史では、バッハの存在は絶対不可侵の神聖な存在であり、ことさらにバロック音楽の代表としてバッハを祀り上げ本来はバロック末期の活躍であったバッハをあろうことか音楽史の起点に描こうとします。

そのため、バロックの音楽イメージが分かりづらくなり、音楽史と他の文化史で「バロック」の時代区分がずれてしまい、イタリアの音楽史が矮小化され、ルネサンス音楽以前が「前史」となってしまっているのです。


ドイツ系の音楽史でバッハを起点にしようとする一番の根拠は、『平均律クラヴィーア曲集』の存在です。

このころ、現在まで使用されている音階や音楽理論の骨格となる十二平均律が誕生し、メジャー・マイナーの区別や和音の概念などといった、重要な基礎的ルールが確立していました。こういったシステムを取りまとめて、12個それぞれのキーでそれぞれ長短を含む24の調性で作曲できることを示したのがこの曲集だとされています。

そのため、バッハこそが現在のクラシック音楽の基礎をまとめたクラシック音楽史上の最重要人物、バロック音楽を代表する偉大な『音楽の父』だと位置づけることが可能になっているのです。

「平均律を用いればオクターブ内の12の音を主音とする24の長短調で作曲できることをバッハが示した」

「バッハがいなければ西洋音楽の発展は100年以上遅れていただろう」

という言説は一般に浸透し、非常によく目にする考えですが、これらはかつての常識であり、古楽研究が進むにつれて古典調律への関心が高まり、この考え方が否定されつつあります。

『平均律クラヴィーア曲集』と訳されているものの原題『Wohltemperirte』とは単に『よく調整された音律』『ほどよい調律』という意味であり、必ずしも平均律を意味するものではなく、むしろバッハが意図したものは平均律ではない、という考えが研究者では主流になってきているといいます。

そもそも、バッハ自身が平均律の調律を考案したわけではありません。バッハの功績と印象付けられている西洋音楽理論の基礎は、この時期までに徐々に確立していったものでしょう。それが、『Wohltemperirte』の存在のためにバッハに紐づけて歴史を語ることが可能になってしまっていたのです。

さらに、もし仮にバッハの考案によって音楽理論が形作られたのだとしても、バッハは生涯ドイツ国内でひっそりと活動していたことは認められている事実であり、バッハが発見されたのは後世になってからであるということも紛れもない事実であるため、「バッハが居なければ発展が遅れていただろう」は正しくないことは明白です。

しかし、その点もうまく誤魔化され、「孤高の天才」「敬虔な生涯」などという言葉によって"ロマンチック"な偉人崇拝に誘導されていきます。(このような視点はまさに19世紀ドイツの「ロマン派」的な態度が見え隠れしています・・・。)

バッハをどうにか「ドイツ音楽史の始点」とするべく、バッハをバロックの代表と位置付けるために、音楽史においてはバロックという時代区分は1750年のバッハの死までを区切りとして分類されることになったのでした。

ヨーロッパで主流だった和声的な「縦の音楽」ではなく、すでにオワコンとなっていた「横の音楽」ポリフォニーが、「バッハ=バロック」の音楽の特徴とされ、この始点から「音楽理論の発展史観」が形作られていくことになります。

→(次の記事へつづく)


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