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【分野別音楽史】#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)

『分野別音楽史』のシリーズです。第一回では一般常識的な『クラシック正史』を追っていき、第二回(前回)からは「正史」の視点が特定の史観に基づいているということを外側の視点から捉えなおしていきました。今回(第三回)は、「捉えなおし編」の中編です。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉18世紀後半

従来の音楽史では「古典派」と呼ばれる時期に入りますが、「古典派」というのは時代区分といいながらも、特にドイツ語圏オーストリアのウィーンで活躍した3人の偉人(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン)を崇拝するための概念となってしまっていることに注意しましょう。

実際はルネサンスやバロックから引き続いて、イタリアやフランスが音楽の中心地であり、ドイツは遅れて追従していく立ち位置だったことを意識しながら、改めて見ていきます。世界史的には、17世紀の「三十年戦争」以来、ドイツ地域は国家としてはまとまっておらず、各地域をおさめる諸侯が乱立している状態であったということも意識しておきます。

ナポリやミラノでは音楽学校や宮廷劇場が多く設立され、引き続きオペラが発展。豪華絢爛なフランス宮廷でも音楽が貴族の生活を彩り、もちろんオペラも嗜まれました。オペラ界では、フランスオペライタリアオペラの間で論争が起こっています。このようなところから、フランス風とイタリア風を折衷させた「混合趣味」という考え方も登場しました。

ドイツの音楽界はこの考え方を取り入れ、自分たちのアイデンティティにしようとする動きがうまれました。「フランス風の良さと、イタリア風の良さの両方を理解し、取り入れ、音楽をより良くしていけるのがドイツなのである」という論法です。このころはまだ、ドイツの音楽がイタリアやフランスに比べて遅れているという意識はドイツ人たち自身も自覚していました。しかし、ここから徐々に、ドイツ人たちの自意識が芽生え始めていくのです。

さて、ヨーロッパの東側「オスマン帝国(トルコ)」の軍隊は、打楽器のパイオニアであったことに前回も触れました。この時期もオスマンはたびたびヨーロッパと衝突していましたが、それによって、シンバル、トライアングル、タンバリンなどの各種打楽器が入ってくるようになり、ヨーロッパ各地の軍楽隊に取り入れられるようになります。これらの材料が、交響曲(シンフォニー)の発達の布石となりました。

イタリア語のオペラを十分に理解するには少しハードルがあったフランスのパリやイギリスのロンドンにおいて、オーケストラ伴奏のほうへ興味が高まりつつあり、"前座"としてシンフォニーが発達していきます。パリやロンドンは、当時の「国際音楽都市」でした。

ドイツ寄りな音楽史では、この時期「マンハイム楽派」なる一派が、交響曲につながる強弱交替や問答型の形式を発展させた、としているものがあります。しかし、当時のドイツの諸宮廷ではフランスに対するコンプレックスが強く、フランスの音楽を模範にしていました。そのような状況証拠的に考えると、マンハイム楽派は「フランス風の訓練を受けたマンハイム地方の宮廷楽団」程度にとらえるほうが妥当のようです。

同じころハンガリーの貴族の宮廷学長として出世し、のちに"交響曲の父"という異名がつけられるハイドンも、実はパリやロンドンでの勉強によって、交響曲の作品を数多く残した、ということのようです。

神聖ローマ皇帝位を失ったハプスブルク家が治めるオーストリア地域には、モーツァルトが登場。英才教育を受けたモーツァルトは幼少期から演奏旅行をさせられ、「神童」としてもてはやされ、その後宮廷音楽家として働きながら各都市を演奏旅行して活動しました。

ハイドンやモーツァルトに影響を与えた音楽教育者として、サリエリという人物がいますが、彼もまたイタリア人です。他にも、史料に名前が残っている多くの人物がイタリア人であり、人数の面でも当時どちらの国に優位性があったのかは明白です。しかし、それらをさておいてハイドンやモーツァルトといったドイツ地域のヒーローが筆頭に挙げられて語られてしまっているのが現在の音楽史なのです。このような視点が生まれるようす自体を、引き続き追っていきます。



◉フランス革命期

18世紀末、とうとう世界史上の一大トピック、フランス革命が起こります。
世界史のお勉強では登場するのに、音楽史としてはなかなか登場しない楽曲として、現在のフランス国歌、ラ・マルセイエーズが挙げられます。この革命期に、多数の革命賛歌や軍歌が作られたということは、もっと触れられても良いテーマであると感じます。

世界史的な復習をもう少ししますと、この後つづいてナポレオンが登場。革命のヒーローかと思われたナポレオンですが、1800年代を通じて大陸支配を広げていき、「ナポレオン戦争」と呼ばれる状態になります。1810年代になると反ナポレオン運動が激化し、ナポレオンは敗北しました。

この時期にドイツで大きな影響力を持ったのがベートーヴェンです。ベートーヴェンは通常、ハイドン・モーツァルトとともに「古典派」の3人として位置づけられますが、活躍時期的にはハイドン・モーツァルトの2人よりも少しあとの「19世紀の人間」で、19世紀の音楽“ロマン派”への架け橋ともされています。ここで、改めてドイツについて見ていきましょう。

18世紀までドイツ地域は長らく後進国でした。

軍事的な面では、イギリスやスペインは海洋進出により植民地侵略で富を築き、フランスは強大な統一国家として君臨。イタリア地域は小国の集合でしたが、地中海の恩恵により商業的に発達。しかし、ドイツ地域は群雄割拠のまま取り残されていました。

文化的な面では、イギリスはシェイクスピア以来の文学の伝統。イタリアは、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、といったルネサンス文化の伝統や、オペラの発祥地という強大な音楽文化。フランスも絶対王政下の貴族の社交文化と、デカルト・パスカルらの哲学者、モンテスキューの啓蒙思想などが時代をリードしていました。それに対し、ドイツの文化的状況は立ち遅れている状況でした。

そうして18世紀ドイツは、軍事的にも文化的にも「追いつけ、追いこせ」の精神が芽生え始めました。諸侯たちが軍事力によって地位挽回に努めたとすれば、インテリたちは文化的な劣等地位を挽回すべく、「ドイツ精神の作興」に立ち上がります。詩人としてはゲーテシラーが登場し、哲学ではカントヘーゲルショーペンハウアーらが運動を牽引。

特にヘーゲル哲学は、「弁証法」という考え方 =「テーゼとアンチテーゼを戦わせ、より高い次元へと昇華していく」という強烈な進歩史観で近代社会に大きな影響力を与えました。

こうして、ドイツ文化圏に「美学」という独特の学問が誕生。その根底には「諸外国よりも自分たちを優位に導く」という方向性があったため、ドイツ美学というものは、ただ単に美意識を論じるのではなく、ドイツ人に備わる「崇高さ」という概念を追求するものとしてドイツ人の重要なアイデンティティになっていきます。結局、美術や文学の分野ではフランスの優位を崩せずにいましたが、唯一、音楽という分野にこの突破口が見出されることになったのでした。その立役者こそが、ヘーゲルと同い年のドイツ人、ベートーヴェンだったのです。

ベートーヴェンは19世紀に突入して以降、楽しむための貴族の娯楽ではなく、ゲルマン民族の誇りを持って高らかに自己を歌い上げる崇高で真面目な音楽を作り始めます。そして「自分が一番偉い」という考え方を広げていきます。

「作品は他人の娯楽のために書くのではなく、芸術的な表現である」(⇒BGMや商業音楽の否定)

「譜面は一音たりとも直して弾いてはならない」(⇒作曲者優位、演奏者低位の思想)

「絶えず前進することを前提とし、既存と異なった切り口を常に模索せねばならない。」(⇒ヘーゲル哲学の弁証法的な発想)

このような、ベートーヴェンが提唱したそれまでの常識に反する異例の発想は、「美」「崇高」を追求する哲学・美学と結びついて、後世のドイツ人らに大きな影響を及ぼしました。こういった思想は、今日まで続くクラシックの風潮の源流になります。ドイツ哲学や美学のもとで誕生した「美」と「崇高」というキーワードが、ベートーヴェンという"救世主"のおかげで、音楽の分野で体現できることとなり、文化的劣勢だったドイツ民族はここで「音楽民族」としてのアイデンティティを獲得します。

このあと登場する多くのドイツ系音楽家が「ベートーベン信者」となり、音楽批評を利用して「数々の巨匠によるドイツ音楽史」を確立していくことになります。これで、音楽室に飾られる肖像画や音楽の教科書に載る偉人が、ドイツ人ばかりである理由がわかってきます。

この音楽思想は、19世紀もまだまだ続くイタリアのオペラ(=娯楽)や、フランスの社交音楽(=アイドル的消費)、軍楽・鼓笛隊のような「実用音楽」に対して、ドイツ側から対抗するためのものだ、という視点が重要です。現在のクラシック音楽が「クラシック音楽」たる原点が、このベートーヴェンの思想にあるのです。


◉ロマン派初期(19世紀初頭)

古典派の偉人として数えられるベートーヴェンですが、19世紀に突入してからの「後期ベートーヴェン」の活躍はロマン派の始まりとしても捉えられており、初期ロマン派の作曲家たちと同時代を生きていました。

長らく音楽後進国だったドイツが、ヒーローの登場により風向きが変わりましたが、この時期のドイツ的なトピックは以下の2つです。

ウェーバーが、ドイツ語台本でのオペラを創始。
(有名作品:『魔弾の射手』)

それまでオペラといえばイタリアとフランスのものだったので、ドイツ人にとっては念願という感じでしょう。


シューベルトドイツ語での歌曲リートを発展させました。

18世紀、文化的遺産が乏しかったドイツ人が音楽民族としてアイデンティティを確立する過程でまず民謡にフォーカスが向けられます。モーツァルトやハイドンの作風も、実はドイツ民謡的なのです。さらに詩や文学の分野でゲーテやシラーなどの人物が作品を残していました。シューベルトはこれらの流れを受け、ドイツの国民的、民族的な詩にロマン派的な音楽を付けてドイツ歌曲を発展させた「歌曲の王」して評価されました。

ウェーバーやシューベルトは、同時期のベートーヴェンの作風よりも音楽的にはどちらかというと古典派寄りであるのですが、「19世紀ドイツの文化」を切り開いた人物として評価され、初期ロマン派に位置付けられることになりました。

後期ベートーヴェンのほうはというと、難聴が進む中、スランプも乗り越え、1824年にあの有名な「第九」の合唱が知られる、交響曲第九番を初演。大成功します。

1827年、56歳でベートーヴェンは死亡します。翌年1828年、31歳の若さでシューベルトも死亡。ベートヴェンのお墓の隣に埋葬されました。ウェーバーも1826年に亡くなっており、彼らが作ったドイツ語圏でのロマン派の第一波が収束し、その次の世代へと受け継がれていきます。


一方、歴史あるイタリアオペラ界では、

ロッシーニ(1792~1868)
ドニゼッティ(1797~1848)
ベルリーニ(1801~1835)

らが活躍。非常に華やかな文化でした。ブルジョア聴衆たちにとっては、このような「軽い音楽」が人気であり、当時のポピュラー音楽とまでいえるでしょう。

ドイツのベートーヴェン派から見れば、このような「軽音楽」という俗物に対して、「重厚で真面目で崇高な美を体現する我々のほうが普遍的なのだ」という意識を持つようになります。現在にも存在する、「メジャー音楽批判」「こちらのほうがホンモノの音楽なのだ」というような発想はこのころ生まれたものだといえます。



◉ロマン派最盛期(1830~1848)


◆フランスのサロンコンサート

フランス革命~ナポレオン戦争のあと、会議の末「ウィーン体制」=「革命前に戻そう主義」が決まり、フランスは1815~1830年のあいだブルボン王政復古となります。1830年に「七月革命」が起き、絶対王政は再び打倒されました。ここからルイ・フィリップが王となる「七月王政」時代に入ります。

フランス革命によって一瞬で社会が民主化したわけでは無く、一筋縄ではいかない動乱が続いていたため、貴族社会は断絶したわけではなく、むしろ「継続」したとの見方が近年主流になってきているそうです。パリの街には多くの貴族や新興ブルジョワジーらが住み、絶対王政の宮廷時代から続く華やかな文化を引き継いで、社交が行われていました。王侯貴族の権威が解体された後も、階級意識は浸透しており、裕福な貴族や大資本家たちから支援を受けて音楽家が活動していました。各邸宅にて頻繁に開催されたパーティーは、「サロンコンサート」と呼ばれ、19世紀前半のフランス音楽が発展する重要な舞台となります。

音楽内容としては、復古王政時代はロッシーニなどのオペラコンサート中心だったのが、七月王政期に入るとピアノコンサートが増加します。

ポーランドから上京し、サロン音楽の花形として頭角を現したのがショパン。大きな音を好まなかったショパンは、サロンという場で繊細なピアノを奏で、貴族の女性たちを虜にしました。

ショパンと対照的に力強い演奏と強烈な速弾きで人気になったのがリスト。若い女性から人気の的となり、楽屋には握手を求める長い列が続き、そこにあったリストの飲み残しの紅茶を自分の香水瓶に入れて持ち帰るご婦人までいたそうです。いわばアイドル的な人気ですね。

リストがピアノの指テクで魅了したとすると、ヴァイオリンではパガニーニが速弾きテクニックで聴衆を魅了していました。

このようなリストやパガニーニをはじめとする名人芸・超絶技巧のパフォーマンスがブームとなり、名演奏家はヴィルトゥオーソと呼ばれました。



◆ウィーンでのダンスミュージック

自ら踊るための「ダンスミュージック」(社交ダンス)としては、ワルツ、ポルカ、カドリーユといったジャンルがウィーンで人気となっていました。ワルツは言うまでもなく3拍子の舞曲のことですね。ポルカはチェコに発生した2拍子の舞曲で、ヨーロッパ社交界に広がりました。カドリーユは8分の6拍子や2拍子などの複数のパートから構成され、4組のカップルがパートナーを入れ替えながら踊っていくというものです。

このような社交ダンス界へは、ヨハン・シュトラウスⅠ世ランナーが競い合うように作品を書き、発展していきました。

(こういった19世紀前半のヨーロッパの上流階級で流行した舞曲は、植民地支配をしていたラテンアメリカ圏へも伝わり、そこで黒人音楽の打楽器的なリズムと独自に融合し、ラテン音楽の発生へと繋がっていきます。)



◆ドイツのナショナリズム

このような華やかな「マス・カルチャー」を、快く思わなかった人々がいます。ベートーヴェンの意志を受け継ぐドイツ地域の音楽家たちです。

文化的に長らくイタリアとフランスに負けっぱなしのドイツ人たちは、「美学」という武器をもって自らを崇高な音楽民族としてまとまろうとしていました。ヴィルトゥオーソが活躍する「ミーハーな娯楽」に反発し、「学識ある聴衆」を対象とした演奏会を確立していきました。

こうして、フランスやイタリアに対抗するため、自国の大作曲家たちを称揚する空気が生まれます。発掘作業によって「大作曲家」「名作」「批評」「伝記」という概念が誕生し、その文化が音楽学校で「保存」「教育」されていきました。こんにち我々が一般に学んでいるクラシック音楽の考え方は、この流れにあるものです。

この時代、メンデルスゾーンが、バッハの「マタイ受難曲」を再演します。

とっくの昔に忘れ去られていた100年以上前の人物であるバッハですが、遺った楽譜がまわりまわってメンデルスゾーンの祖母の手に渡っており、クリスマスプレゼントとしてその楽譜をプレゼントされたメンデルスゾーン少年。これを演奏会で披露したことで、「バッハ」は「再発見」されたのです。バッハは晴れてバロック時代を代表する「(ドイツ)音楽の父」となったのでした。

また、1835年にメンデルスゾーンは演奏会のプログラムを改革していきます。「歴史的演奏会」を開き、バッハからベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトに至るまでの「音楽史の系譜」を紹介します。

古代ギリシャから中世のイスラム世界、イタリアのルネサンス、フランス宮廷でのバロック・ロココを念頭に置くと、このメンデルスゾーンの紹介する音楽史は「ドイツ人の偏った一視点に過ぎない」ということがお分かりかと思います。しかし一方で、このドイツ視点の物語が、今でも「音楽の教科書」に載っている音楽史のもとになっていることにお気づきでしょうか。この点が、僕のnoteを通じて常に主張している一番の問題提起となっています。

はじめは数の上で「娯楽派」にかなわなかった、ニッチな「真面目派」。そこでドイツ人たちは、持ち前の「美学」を用いて、「倫理的批判」を展開するのでした。

「音楽というものは本来、優れた古典的作品をじっくりと聴くべきものなのではなかろうか。商業主義に毒されてヴィルトゥオーソのような悪趣味なものに走るのはいかがなものか。」

そしてこの時期、音楽批評というものを発展させたのがシューマンです。大衆向けのオペラや、名人芸ばかりの器楽より、「質の高い」ものを広めたい、との思いを持って、1834年「音楽新報」を創刊し、評論を発展させていきます。

※ちなみにシューマンはショパンのことは絶賛しており、彼の音楽批評のデビュー稿も「諸君、脱帽せよ、天才だ!」の見出しが有名なショパン評です。しかし、ドイツ人特有の崇高な美学をもとにした大仰な深読みは、ショパンは相手にしていなかったどころか、的外れの批評に「ありがた迷惑」とすら感じていたようです。


「美学」という学問は、

「真面目な音楽/娯楽音楽」
「芸術音楽/軽音楽」
「高級なもの/低級なもの」

という、上下関係を伴った価値的な差別を含蓄する考え方です。そしてこうした発想はすべて19世紀ドイツで出来上がったものです。「独創性」「作品」「天才」という概念もすべてこの時代に確立したものです。そもそも18世紀までは「芸術」というカテゴリー自体がありませんでした。

この時代ドイツでは、「美」という独自の価値を音楽に与えることで、イタリアやフランスにマウントをとって地位を保証していくことがテーマでした。

「クラシック」は「高級」であり、娯楽に欠けている崇高な精神性をともなっている、という印象は、今でも何となく受け入れてしまいがちですが、こうした発想は19世紀の産物であり、しかも音楽の場合、かなり強引な二分法によってつくられたものなのです。

バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの「伝説」も、すべてこの時代の産物です。かつての神話は研究によって覆されてきていますが、それが「本当か嘘か」よりも、この時代に「巨匠の伝記」が次々と出版されたという事実自体が重要です。

パガニーニやリストといった「名人芸スター演奏家」に対抗するためには、「演奏」ではなく「作品」を聴きに行こう、というように、「作曲家」にフォーカスを当てるため、作曲家たちを「ヒーロー」に仕立てる必要があったのです。

たとえば、ベートーヴェンには若いころの肖像画や優しい顔をした肖像画もありますが、「過酷な運命に立ち向かった意志の人」というイメージを強調するために「男らしい、力強い絵」が選ばれて有名になりました。

「ヒーローたちの人生が劇的であってほしい」という願望が「ロマン主義精神」であり、ドイツロマン主義とは「ゲルマン民族のナショナリズム運動」のことなのです。


この時期、音楽的にベートーヴェンの交響曲的側面・崇高な精神性を強調させて発展させた人物にベルリオーズがいます。1830年に発表した「幻想交響曲」は、全5楽章からなり、それぞれに「標題」がついていました。楽曲の冒頭にはプロローグとなるストーリーが書かれていて、これが「標題音楽」のはじまりとされ、次の時代へ受け継がれていきます。


1840年代に入ると、ヴィルトゥオーソブームは飽きられはじめました。「真面目派」の論調は日増しに強くなり、音楽界の論壇は彼らの論調が支配するようになります。そして、それを境にして、ドイツ以外の演奏会でも「過去の音楽家」が急速に増加し始めます。

“いつもの「軽い曲」ではなく、愛好家のために「重い曲」を取り上げます”

などという言い訳付きで、「クラシカルコンサート」が開催されたりもしました。そこで、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトらが、「古典派(クラシック)」=偉大な人々、と位置付けられたのです。

「真面目派」は聴衆を自らの陣営に引き込んで主導権をとることに成功し、今日の「巨匠の芸術に精神を集中させて静かに鑑賞する」というクラシック演奏会の規範が確立されていきました。



◆1840年代、時代の変わり目

ドイツの音楽地位向上に大きく貢献した音楽雑誌「音楽新報」ですが、シューマンは「作曲に専念する」として1843年に音楽新報の編集をおり、次の編集はブレンデルが担当することになりました。これがこの後のドイツ音楽評論の流れに大きく関わってきます。

世界史情勢としては1848年に「1848年革命(二月革命)」が起き、ヨーロッパ各地で革命が相次いでいきます。ヨーロッパ情勢が一変し、ロマン主義の空気もまた、ここから変わっていくことになります。世界の政治思想に大きな影響を与えた、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が発表されたのも1848年なのです。

この1848年の前後には、音楽史的にも

・1847年 メンデルスゾーン 没。
・1848年 リストがリサイタルを引退し、作曲に専念。
・1849年 ショパン 没。
     ヨハン・シュトラウスⅠ世 没。

と、一時代の終焉と世代交代を思わせるような出来事が起こっていったのでした。

→(次の記事へつづく)

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