【分野別音楽史】#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
『分野別音楽史』のシリーズです。第一回は一般常識的な『クラシック正史』を追い、その後「捉えなおし編」として 前編(第二回)、中編(第三回)、後編(第四回)を書きました。
ここからクラシック史の外の分野に突入していきたいのですが、その前に、もう少しだけクラシックと関連した重要な視点として今回は「民族舞踏」などといった視点からクラシック音楽との関連を軽く整理しなおしてみたいと思います。ほとんど過去記事と内容が被ってしまいますが、新しい軸での整理ということで復習も兼ねて是非お読みください。
◉中世~バロック期
ルネサンス末期のイタリアではギリシャ悲劇の復興運動が起こされ、オペラが誕生しました。最古のオペラは1597年のものだと言われてますが楽譜は消失しており、現存しているもので最古の作品は1600年の作品とされます。通常、クラシック史の直接の「始点」とされるバロック音楽のはじまりは、このオペラの誕生からとなります。
この時期には既にヨーロッパ各地に民族舞踏というものが生まれて流行していました。西はスペインから東はポーランド以東まで、東西ヨーロッパの各地域から発祥し、フランスやイタリアの音楽にも取り入れられて流行した舞踏。そのジャンルは、アルマンド、ガヴォット、クーラント、サラバンド、シチリアーナ、シャコンヌ、タランテラ、パスピエ、パヴァーヌ、ポロネーズ、マズルカ、ミュゼット、メヌエット、スケルツォ、リゴードンなど枚挙にいとまがありません。
これらはそもそも中世以来から出現し、民間で行われた踊りが宮廷にも取り入れられ、さらにそれがふたたび民間でもてはやされるといった一種の循環作用で成立していました。クラシック音楽の作品にもごく自然に多く取り入れられて舞踏音楽として貴族社会を彩っていたのです。
これらのジャンル名がそのまま作品のタイトルとしても付けられて現在にも残っているため、舞踏のジャンル名ではなくクラシックの作品名として認識している方も多いかもしれません。
◉18世紀後半・古典派音楽の時代
つづいて古典派時代を見ていきます。オスマン帝国(トルコ)の軍楽隊はメフテルと呼ばれ、強烈なインパクトをヨーロッパに与え続けていました。
その影響もあり、ヨーロッパ各宮廷の軍楽隊が発展していき、さらにクラシック作品としてもこのリズムを取り入れるのがブームとなりました。モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ風行進曲」が有名です。
この時期、スペインにはカスタネットやギターを用いたフラメンコ、ボレロ、パソドブレといった民衆音楽のジャンルが登場します。このようなスペイン音楽の発生は、このあとクラシック音楽とポピュラー音楽の両方に波及していきます。特にスペインはこの時期まで中南米諸国を植民地支配していたため、ラテン音楽の発生にも関係していくことになるのです。
(※「ボレロ」といえば、現在最も有名な「ボレロ」はフランスのラヴェルが20世紀にこのリズムを使って作曲したクラシック作品であり、民衆音楽のボレロそのものとは少し異なります。)
◉19世紀~
18世紀末にフランス革命が起こり、19世紀初頭にかけてナポレオン戦争から大変革期へと突入していったヨーロッパ社会。クラシック音楽史としては「ロマン派」時代に入ります。
音楽史状況としては特に、ベートーヴェンの登場からドイツ語圏の「芸術音楽」というエリート意識が高まり、クラシック音楽史的には従来そちらが重視されますが、一方でパリやウィーンでの社交界での華やかな音楽や、娯楽的なイタリアオペラなども嗜まれていたことをここまでの記事で確認しました。そして、舞踏的な民衆音楽も参照したクラシック音楽も多く書かれています。
19世紀前半のフランスの音楽文化の重要な拠点、パリのサロンコンサートで活躍したのがポーランドから上京して頭角を現したショパンですが、その楽曲の要素には「マズルカ」「ポロネーズ」など、ポーランドの民族舞曲のリズムが取り入れられていました。
◆民族舞踊としてのポロネーズ
◆ショパンのポロネーズ
◆民族舞踏としてのマズルカ
◆ショパンのマズルカ
◆(参考)ポーランド国歌のマズルカ
さらに、19世紀に入ってからウィーンなどのヨーロッパ社会で爆発的に流行した舞曲が、ワルツ(ウィンナ・ワルツ)です。国際的な場に初めてワルツが登場したのは1814年「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議でのことで、これを機に世界中に広まっていったとされます。
また、2拍子の軽やかなポルカやチャルダッシュなど、チェコ(ボヘミア)やハンガリーで発生した舞曲、そしてカドリーユという4組のカップルが四角形で踊るスクエアダンスも、ワルツとともに爆発的に流行しました。ワルツ、ポルカ、カドリーユなどの作品を書いたことで有名なのがヨハン・シュトラウスとランナーの2人であることも見てきました。さらに、チャルダッシュという舞曲の名が付いた有名なクラシック作品ではモンティの作品が挙げられますね。
◆チャルダッシュ(モンティ)
◆ポルカ
このようなヨーロッパでの都市文化の流行音楽が中南米の都市へも伝わり、流行し、そこからラテン音楽の発生にも繋がっていくことは、今後の記事でポピュラー史を見ていく上でも大事なポイントになっていきます。19世紀後半になるとイギリスやアメリカでの音楽も発達していくなど、この段階からは各種ポピュラー音楽史の黎明期としても見ていくべき段階には突入していますが、現在の我々の耳からすると、「ポピュラー音楽黎明期」の音楽はクラシック音楽に非常に距離の近いものだったとも言えるのではないでしょうか。
キューバの首都・ハバナではハバネラという音楽が発生し、スペイン本国でも流行し、さらにスペイン経由でアルゼンチンにも伝えられ、1870年頃に流行していました。ハバネラは正確にはスペイン語読みで「アバネラ」と発音し、「ハバナの舞曲」のことを言います。ハバナの社交界から始まった優雅なダンス・リズムで、ヨーロッパから伝わった舞曲がハバナスタイルに形を変えて、これがふたたびヨーロッパにも逆輸入されたのでした。
この「ハバネラ」のリズムは、ビゼーのオペラ『カルメン』の中の一曲にも取り入れられて有名なクラシック作品として残っていますね。『カルメン』の初演は1875年なので、時期的にも一致しています。
他にも、19世紀後半、キューバで誕生したソンは、キューバの基幹音楽として発展していました。19世紀末、スペインから伝わったコントラ・ダンサ(舞踊)が「ダンソン」として流行します。
このような音楽を聴くと、「西洋音楽とアフリカの打楽器音楽が融合することで、ラテンやジャズなどのポピュラー音楽が誕生した」という言説の意味が良く理解できるかと思います。
中南米で唯一、スペイン語圏ではなくポルトガル語圏であるブラジルでは、ヨーロッパ系移民が持ち込んだ当時流行のポルカが基本となり、1870年頃にリオの酒場でショーロという器楽音楽が確立されます。スペイン語圏とは一線を画すブラジル音楽はこのあとサンバに発展していきます。ショーロは、ピシンギーニャによってクラシカルで近代的なハーモニーが当てられ、発展していきました。
バロック期からロマン派前期にかけての、クラシック音楽と民衆舞踏の相互関係を考えると、本来はこのようなラテン音楽もクラシック音楽と影響し合いながら発展していっても良かったように思いますが、この時期は、正当なクラシックの「ドイツ美学」的にはロマン派後期へと突入していく時期であり、大衆音楽的な要素を排除していき、高尚な「美」を重視する風潮が産まれてしまった時期でもあります。
スペイン音楽やラテン音楽に目を向けた、スペインのクラシック作曲家のアルベニス、グラナドスなどは、チェコやロシアなどの東欧の作曲家らと一緒に「国民楽派」という、「民俗的要素を取り入れたナショナリスティックで特殊なグループ」に分類されてしまいます。これにより「中心地ドイツの音楽が普遍的なスタンダードあり先進国」で、「民族的な要素をもつ田舎的・後進的な音楽文化はドイツ的なものからの差で捉える」という、差別的な視線が産まれてしまったのです。これが「クラシック美学」の本質です。
このような部分から、「高尚な」クラシックと「下等な」ポピュラー音楽、という分断的視線の発生にも繋がったと見て良いでしょう。このような視点の克服を大きなテーマとして、引き続きポピュラー音楽史のまとめなおしに突入していきたいと思います。