/2023/8/24/19:17/
/書かれてはいけないこと、書いてはいけないこと/燃焼する螺旋形の階梯としての言葉/書物が燃え上がることについて/
書かれてはいけないこと、書いてはいけないことがある。それを書いてしまうとそれが書かれた場所が発火し燃焼してしまうからだ。燃え上がる書物。真夏の正午の時間。書物が、白い光の中、宙を切り裂くように燃焼の炎を旋回させ螺旋形の階梯を生成させながら燃え上がる。書物に書かれた/書かれてしまった言葉の言葉自身が内包する言葉の核を発火点として炎に包まれる。書かれてはいけない、書いてはいけない、燃焼する階梯としての言葉。
自然発火すること、燃焼すること、螺旋形であること、階梯を形作ること、そのことに拠ってして、それは垂直の音楽となる。燃焼する垂直の言葉/音楽
論理にして倫理の誕生。事件として、必然として、宿命として。垂直の音楽とは論理にして倫理であり倫理にして論理である。いかなる意味に於いても、像/イメージになることが禁止される。想像してはいけない。描写してはいけない。記録してはいけない。そんなことをしてしまうと、その者の身体の内部から火が噴き出したちまちの内に人の形をした炎と化してしまうだろう。燃焼する人間。沈黙の中、人形の灰の塊が直立することになる。だから誰一人として垂直の音楽を伝聞することはできない。立ち会う以外、遭遇することができないこと。古い言伝えの破片の中で灰の残滓が漂うことになる
目撃し記憶すること。垂直の音楽を前にして人ができることはそのことだけとなる。耳を澄まし、目を凝らせ。真昼の透明な時間の中、書物が炎に包まれ燃焼する。無数の言葉の核が連鎖的に複層的に分裂と融合を重合させ、光が解放される。白いひかり。向こう側からこちら側へ到来するひかり。時間は反転と正転の最中で宙吊りとなり旋回を開始する。垂直に螺旋形が生成され階梯となり、書かれてはいけない言葉/書いてはいけない言葉が燃焼する。それらのことばたちは燃焼することでしか世界に存在することができないからだ。書かれてはいけない、書いてはいけない、言葉/書物が燃え上がる。
燃焼し旋回する言葉たちを読むためには階梯を昇るしか方法は存在しない。さあ、真夏の昼の時間、地上の光が氾濫する中、燃え上がる書物の中へと進もう。燃焼の白いひかりの内部へ踏み込み、螺旋の階梯を昇ることにしよう
/No.1//四方田犬彦「いまだ人生を語らず」//獰猛にして優しきその知性/肉体と伴に滅びゆく知性の最後を/
わたしの前に四方田犬彦の「いまだ人生を語らず」という本が置かれている。帯には「歳を取ろうとしているわたしは/はたして聡明になったのだろうか。/幸福になったのだろうか」とあり、装丁には四方田犬彦自身が撮影した帽子が並ぶ。七十歳を迎えた四方田犬彦の人生の回顧録、あるいは、老いたる者の幸福と後悔と希望と絶望の記録。まるで人生の指南書のような仕草。
しかし、それが見せ掛けの仮装にすぎないことは明白だ。殊勝な振りをしたところで四方田犬彦は、ルイス・ブニュエルの四方田犬彦であり、ピエル・パオロ・パゾリーニの四方田犬彦なんだ。四方田犬彦は四方田犬彦以外ではない。獰猛にして優しきその知性は衰えてはいない。でも部分部分で少しばかり柔らかくなっていて、わたしは茫漠とした哀しい気持ちの中に一人取り残されてしまった。四方田犬彦が老いる。そして、四方田犬彦はそれを隠さない。信じ難いのだが信じてよいことだとも思う。わたしたちは受け止めなければならない。知性が肉体と伴に有り肉体と伴に滅び行く知性の最後を。
/No.2//咆哮する生者・四方田犬彦の声を/語りえぬものたちを語ろうとしてきたその声を///追悼でも鎮魂でも思い出でもなく、四方田犬彦の言葉について書くこと/
わたしがこの文を書いている理由は、四方田犬彦がいままだ生きているからだ。四方田犬彦が生きているこの現在の時間の中で、彼の叫び声を四方田犬彦以外の者が書くこと、そのことに意味がある。と思うからだ。死によって四方田犬彦が生者・四方田犬彦と異なる存在として変貌する前に、これを書かなければならない。咆哮する生者・四方田犬彦の声を正確に言葉にすること。わたしにできるはずもない。しかし、出来るか否かを問うてはいけない四方田犬彦はいついかなる時も語りえぬものたちを語ろうとしてきた。だからわたしもそれに倣って生きて/吠えて/走る/四方田犬彦の姿を刻み込もう。
わたしが書くそれは誤り多きものかもしれない。しかし、書かないではいられない。わたしは四方田犬彦に多くの大切なものを与えてもらったからだ。かけがえのない幸せな時間がそこには含まれている。追悼でも鎮魂でも思い出でもなく、四方田犬彦の言葉について書く事。言い訳と慰めと感傷と醜い自慢話はこれくらいにして、俊敏に手早くさっとやり遂げることにしよう。
/No.3//四方田犬彦の「いまだ人生を語らず」とは、箴言集、寸鉄、であり、四方田犬彦版・〈旧約聖書〉、あるいは、〈約束の言葉たち〉
目次を見ればこの本がいかなるものなのか判明する。はじまりと途中と後書きこそ、それらしきタイトルがアリバイ作りのように並んでいるが、他の各章のタイトルを読めば、この本の本性は別の処にあることが分かる。「いまだ人生を語らず」の〈いまだ〉に騙されてはいけない。四方田犬彦とは永遠の現在進行形の知性であり、彼が人生を語ることなどこれからもありえない
四方田犬彦の「いまだ人生を語らず」とは、箴言集であり、四方田犬彦版・〈旧約聖書・知恵〉であり、寸鉄である。「寸鉄人を刺す」まさに人を刺す。ことばによって人が刺されることになる。だとすれば、触れれば皮膚が裂け血が滴り落ちることになる塩の結晶の言葉/寸鉄を、したり顔で解説する様ほど醜悪なことはない。愚者のわたしでさえも目を背けてしまう愚行なり
だからわたしにできることは編纂することだけだ。箴言集として。四方田犬彦の「いまだ人生を語らず」を〈約束の言葉たち〉として組み換えること。人生の回顧録として読まれることを、一旦、拒否し破棄し、燃焼し旋回する発光する言葉として再編集すること。吠えろ!走れ!跳べ!四方田犬彦!
/あとがき/03//『ソドムの市』(Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いは、ソドムの120日」)ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画について
/あとがき/03/が四方田犬彦・箴言集の前に置かれる必要がある。ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』と善と悪、そして、〈悪霊的なるもの〉についての文。ピエル・パオロ・パゾリーニの四方田犬彦の言葉を読むために必要であり、わたしが何者であり、四方田犬彦の言葉を読む理由についての文。四方田犬彦が四方田犬彦であり、わたしがわたしである理由。
わたしは、時折りピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』の[Blu-ray]を真夜中の暗闇の静謐の時間の中、一人で、観ることがある。わたしは日々のあれこれとあれこれの日々の、重大でありながらも些細でもある混沌とした希望と絶望の濁流を泳ぎ溺れる。そんな時『ソドムの市』を観る。
飲み込むことができないそれでも飲み込むほかにない、汚穢を飲み干し、体内を満たす汚穢の残虐なる香りに陶酔し狂気の淵を彷徨うように回遊する。誰もいない真夜中の闇、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』
わたしの中の奥深い秘密の場所に檻が存在している。檻は厳重に施錠され、内部に存在するものは決して檻から出ることはできない。そこに存在している〈悪霊的なるもの〉。絶対的な悪としての〈悪霊的なるもの〉。その場所に存在する悪は、相対ではなく普遍であり、絶対的な悪なんだ。絶対の悪。
善悪が相対的なるものとして、時と場所によって、それらは転倒し入れ替わる。目に見えて耳に聞こえる現実の現象として発生する。だが、その交替は〈悪霊的なるもの〉が詐術を尽して人々に見せる巧妙な仮面劇の一場面でしかない。「あなたの善は他人の悪であり、他人の善はあなたの悪でしかない。善悪は季節の風景のように移ろうものでしかない。昨日の善は今日の悪であり、今日の悪は明日の善として。さあ、わたしといっしょに善人も悪人も皆殺しに!」善悪の黒白が交じり合う灰色の混沌の人間の世界に君臨する〈悪霊的なるもの〉。わたしたちは絶対悪に翻弄され永遠に殺戮を繰り返す
時と場所を超越する普遍的なる絶対として、悪は実存する。人が受け入れることが最も困難な事柄のひとつだ。信じられないほど多くの人々が受け入れを拒否する。灰色で世界が塗り潰され覆われているからといって、世界に光と闇が存在していないわけではない。光と闇はわたしたちの内部に確実に存在している。静かに手を胸に当ててその鼓動を感じ確かめなければならない
わたしがピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』を観るのは、わたしの内部の檻の中に閉じ込めているはずの〈悪霊的なるもの〉を確認するためなんだ。そして、それに餌を与えてやるためなんだ。凄く凄く危険な。
でも、そうしなければ〈悪霊的なるもの〉は激しく暴れ檻を壊し、わたしの外部に出て行くことになる。それは〈悪霊的なるもの〉が現実へ解き放たれることを意味している。惨劇。現実の中の破壊。わたしはわたしではなくなり、質量と形と色彩を持つ〈悪霊的なるもの〉に変貌して、現実を物理的に論理的に倫理的に破壊する。炎が渦巻き夥しい量の血が氾濫し無数の叫び声の後、わたしは崩壊することになるだろう。〈悪霊的なるもの〉は存在する
だから慎重に檻の中のそれを檻の中で生かすしか術はない。誰であれ。偉大なる者たちの創造が〈悪霊的なるもの〉に向き合う方法をわたしに教えてくれた。ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』もそのひとつだ。
映画の終わりに狂乱の後の静寂の時間として不可解な空白が訪れる。それは絶対の彼岸のようにして、わたしたちの前に横たわる。ここが今現在だと。
わたしは、わたしの内部の檻の中に、絶対の悪〈悪霊的なるもの〉を宿す者なのだ。
わたしたちの内なるそれの声と姿を確認せよ!
/No.4//人の言葉を編纂する。四方田犬彦版・〈約束の言葉〉、あるいは四方田犬彦箴言集・〈塩の結晶の言葉/寸鉄〉
他者の言葉を編纂することは、自己の言葉を自身が書くことと異なることなのだが、他者の場所に存在するひとつの風景の光と影を自己が切り抜き、自身の白地の場所に自分の手で書き写し、そこにもうひとつの風景が作り出されると、それはまるで、自己の中の他者の言葉、あるいは、他者の中の自己の言葉のように見えてしまうのだ。言葉が他者と自己の間を自由自在に飛び交うものだということ。当然のこととして現れるその当然に驚くほかない。
そして、わたし/わたしたちは知ることになる。言葉は、自分事のためにあるのではなく、他人事のためにあるのでもなく、人の事のために、存在するということ。わたし/わたしたちの言葉とは、自己/他者を超える人間の言葉。だから、耳を澄ませ目を凝らさなければならない。人のことばを聴くために
四方田犬彦版〈約束の言葉〉、あるいは四方田犬彦箴言集〈塩の結晶の言葉/寸鉄〉を編纂する。それは単に四方田犬彦の言葉を編纂するということではなく、人間たちの言葉の編纂ということになる。論理的に倫理的に現実的に
わたしたちがこれから読むことになる言葉は、人が人のために人によって書かれた、人が人であるための、約束、誓いの言葉。それは、終わることのない現在進行形のことばとして、わたしたちの中と外に、今この瞬間ここに。
/No.5//忘却について、あるいは、わたしが、わたしの記憶を忘却すること、幸せと不幸せ
/わたしの記憶と、わたしの内側に存在し、わたしがどうしても、考えることのできない部分/
/だが忘れてしまうというのは本当に不幸なことなのだろうか。/
/No.6//記憶について、あるいは、記憶から、歴史へ、歴史は人を幸福にするのか/わたしの眼前にぶら下がっている、解答を得ることない問い/
/記憶について/「見たものは見たものだ。」
/記憶するというのは闘いなのだ。/ すべてを想い出すことが必要なのだ。/
/抗わなければならない。忘却に対して、全身全霊をもって/
//怒り、その神聖なるもの、怒り、その正しきもの// /怒りを侮辱し怨恨を擁護する、邪悪なるものたちの憎しみの魔都 踏み潰された、怒りの無数の破片の中、氾濫する憎悪//
/抑圧された怒りが、怨恨へ転化する。//遍在する怨恨 / 怨恨を基軸とする現代の中で、怒りが憎悪として回帰する。//
/怨恨の虜となることを免れるための、聡明さとしての怒り/ / リア王、透明なる狂気を生き延びるために//
/怒りを滅却しても怨恨の誘惑に打ち勝つ方法、歴史という観念//歴史は人を幸福にするのか、それとも、さらなる苦悶の中へか/
/心臓の右半分はつねに記憶を、心臓の左半分は真逆の忘却を/
//歴史の存在の意味、それはいまだに解答を得ることなく、 わたしの眼前に、ぶら下がっている。//
/No.7//読むことについて、あるいは、悪徳、罰せられることなき/
/書物はそれを手に取るたびにまったく異なった相貌を見せる。 読もうとするこちら側がそのたびごとに違った人間になっているからである。/
/次々とわたしの記憶を吸収し膨らんでいく書物、その記憶の層を捲りあげていく歓び/
/書物の海を漂流する。/
/No.8//書くことについて、あるいは、救済のために、ただひたすら自分一人の/
/〈わたし〉にとり憑いて離れない問題を、終わりにして、 新しい場所へ、自由の場所へ、と移行するためのエクリチュール/
/救済としての書くこと/自分「一人がため」に/
/No.9//音楽について、あるいは、「好むと好まざるにかかわらず、暴力的な陶酔へと誘っていく何ものか」
/バッハとヴィヴァルディ/
/長い間、午前中はバッハを流しながら食事をしたり、小さな雑事を片付けたりしていた。それをヴィヴァルディに切り替えた。/
/音楽について/事件としての音楽/
/音楽は容易に人を道徳的倒錯へと導いていく。あるいは、彼らが歌うとき、わたしは歌わない。彼らが戯れに笑いあうとき、わたしは笑わない。/
/音楽を根拠づけている感傷性、あるいは、世界の悲惨の表象に対する純粋な音の結晶体/クセナキス/
/No.10//犬について、あるいは、「犬はわたしのダルマにして他者なのだ。」
/今度こそわたしは傍らにいて、犬の最期を看取ることにしよう。予行演習ではない。わたしの死の傍らに誰かがいるという保証は、どこにもないのだから。/
/犬について/「犬はわたしのダルマにして他者なのだ。」
/No.11//信仰について、あるいは、赦すことのできない者を、赦すこと、その極限の可能性
祈り、信仰、あるいは、世の中には二種類の人間しか存在しない/
/神聖なる怪物たち/ 信仰と懐疑の両極を見つめてきた者たちの存在/
/許されざることと許されること/神の存在と不在によって/
/無神論/キリスト教の影、分身として/
/仏とは人間によって到達が可能な生の階梯であり、超越的存在ではない。仏教とはすでに高度に洗練された無神論の体系である。/
/時が到来すれば、神はおのずからわたしの前に顕現するだろう。
/神とは、証明によって存在が示されるものではない。体験されるべき何ものかである。体験が欠落している限り、知性、理性では到達することができない。/
/われわれの眼前にある自然が今、このように存在しているということ自体が神である。/スピノザ/
/信仰、人の生の苦痛に意味を与えてくれるそれ、しかし、無際限の欲求/
/いかなる自力をもってしても動かしようのない現実/自分の意志と情熱の無力を徹底してわたしに教えるもの/こと/
/悪は実在する。自分の外側に存在している脅威として、そして、悪はそれを認識する者の内側にも存在する。//それをどのように解決すればよいのか。/悪の救済としての赦し/
/赦すことのできない者を、人はいかにすれば、赦すことができるのか。赦し乞われたからといって、ただちに赦しを与えることができない事態が転がっている。/
/赦せない者を赦すことはできない。しかし彼らを赦さないわけには先に進まない。その矛盾について考える枠組みを作り、矛盾する行為を、実践すること。矛盾の向こう側の極限の行為の可能性/
/絶対に赦すことのできないものが、世界には存在しているのだ。
/信仰からはるか遠いところに留まっている者は、赦すことからも赦されることからも、放逐されたままなのだろうか。/
/No.12//死について、あるいは、未来から、止めどもなく流れ到来する時間の外側へ/ 巡りゆく季節の円環の時間の中で/
/わたしとは時間の内側に生起する現象であり、わたしは死んだときには、時間の外側へと行く。/
/時間は未来から到来するものである。// 時間はまだ存在もしていない未来から止めどもなく流れて来て、一瞬、現在という状態に達し、次の瞬間に消滅してしまう。/
/死から逃れることはできない。だが、死が携えてきた物語を切り替えることはできる。/巡り反復する季節の円環の時間の中で、/
/矛盾に満ちている生が、死という雷の一撃によって、その意味が統合され理解可能なものとなるというわけではない。/
/あとがき/00//少しばかりの、あとがきを/ 自分「一人がため」の、救済として/
四方田犬彦の言葉たちはここまでとする。あらためていうまでもないことだが、編纂された四方田犬彦の言葉たちが描写する風景のかたちと色彩は、わたしにも部分的に理由がある。引用され再構成され短い文が挿入されたそれは、四方田犬彦の「いまだ人生を語らず」とは似ていないのかもしれない。しかし、これは〈四方田犬彦の言葉について書くこと〉のわたしの応答だ。
それでも、少しばかり、あとがきを書きたいと思う。 自分「一人がため」の、救済として、書く。
/あとがき/01//燃焼する言葉について// 別の仕方で//垂直的なるものたちについて/
それがそこに出現する。顔を真上へ上げ覆い尽くすものたちの彼方へ視線を向ける。しかし、昇ろうとした途端に頭部は一瞬身震いし硬直し石化する。静止後、頭部は力なく弱々しく崩壊し身体の上部から流体となり、四方へと流れ落ち平面の地面を濡らす。それでもそこかしこに現れる上へ向かう者たち。地平線の向こう側へでもなく水平線の向こう側でもなく、この場所のこの地点からの飛翔を企てる者たち。なぜ、彼ら彼女ら、あるいは、彼ら彼女らではない者たちがそうするのか? 理由は平面の果てを示すそれらが無限に後退することを知っているからだ。地平線/水平線の向こう側に存在するのは、遠くに地平線/水平線を見渡す見通しの良い場所でしかない。世界の外部へ向かう者たちが、視線を水平ではなく垂直へ向けることは当然の事なのだ
だが、すべてが垂直的なるものとして存在できるわけではない。前後左右を埋め尽くす垂直的ならざるものたちの無惨な残骸たち。わたしたちが日々を暮らす都市は、崩れ落ちた垂直的ならざるものたちの破片で象られている。
人の生、つまり人生とは、水平の言葉の海を航海することであり、「人生を語る」とは航海日記を朗読することを意味することになる。そこには垂直の言葉は存在しない。なぜなら垂直の言葉とは世界の外部に存在する言葉であり、世界の外部で遭遇する言葉であり、世界の外部から飛来する言葉だからだ。航海の中で、時折り、何かしらの誤りとして、あるいは、偶発的な事件として、水平の海に垂直的なるものが落下/上昇してしまうことがある。波立ち小さな混沌が生まれるが、海面を揺り動かすことはない。再び、海は凪ぐ
世界の外部に存在する言葉を求めて、孤独の中、異形の者たちだけが(その者たちを〈知性を持つ者たち〉と言い換えてもいい。)〈知性を持つ者たち〉を異形の者と呼ばざるを得ない、現在の時間の中で、燃焼する垂直の言葉/音楽を読み書き聴き演奏するために、神聖なる怪物として世界を切り裂いた、偉大なる創造者たちの後を追い、白いひかりの螺旋の階梯を昇って行く
あとがき/02/長編小説『すべての鳥を放つ』、あるいは,「抵抗と反撃としてのレクイエム」
長編小説の形式の言葉で語られる四方田犬彦の言葉たち。だがこれは映画でもあり漫画でもあり歌でもある。
「抵抗と反撃として、/それは死者たちに向けた花束であり、生き残った者たちへの警告ではないか/そして、レクイエム」
語りえぬものを語ろうとする、全ての異形の者たちのために、そして、神聖なる怪物へ〈了〉