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『風立ちぬ』から考える、魔の山にあった2つの選択肢。

「宮崎駿は『ロード・オブ・ザ・リング』がお嫌い」ーーこんな記事が2年前に書かれている。

悪行があり、それを流血によって罰する物語。悪人を罰する過程で、罪のない無数の人々が殺される物語。宮崎監督からしてみれば、ハリウッド映画とは、概ねそんなものであると。

彼が発した実際の表現としては。「アメリカ人は物を撃って爆発させたりするから、さすがにそういう映画をつくる」「敵なら無限に殺してもいい。ロード・オブ・ザ・リングもそうだ」

これがファンタジー?冗談だろ的な言い方も、したらしい。かつては好きだった『インディ・ジョーンズ』も、同様の理由で嫌になってしまったそう。

近年は、海外の記事で、こういうものを頻繁に見かけるようになった。よく読まれているから、多く書かれているのだろう。


今回は、〇〇の話をすると明示しないで書いていこうと思う。ある程度、タイトルで表現してあるし。読み手に解釈の余地を残すような書き方、私はけっこう好きだから。

最後まで、つきあってやってほしい。


第96回アカデミー賞・長編アニメ映画賞。『君たちはどう生きるか』で、ジブリ作品は、21年ぶり2度目のオスカーを受賞した。

同作のその他の受賞

1度目の『千と千尋の神隠し』(ビジュアルから日本文化を大いに感じられる作品)の受賞の時とは、明らかに違う現象が起きている。


本質的な部分で、ジブリが変わったのではない。受けとり手側が変わった。

アニメーションにどこまでを求めるか。断言するが。世界中の人々のそれを変え続けてきたのは、ジブリ以外も含めた、日本のクリエイターたちと数多の作品だ。

私のお気に入り show7tell ネキ。いい人。


単に、継母を受け入れるというよりも。

思春期の少年が、母親が亡くなってから1年以内に、父親と母の妹との間に子どもができていた事実(下世話だが逆算するとそうなる)を受け入れること。

みんなに、それぞれのイニシエーションがあるが。これが、この作品の主人公のイニシエーションである。

イニシエーションとは、グループや社会への参入や受け入れを示す、通過儀礼のことだ。

入門者が、新しい役割に生まれ変わることを意味する場合もある。例)キリスト教の洗礼


ネットで「Initiation」と検索して出てくる画像で、私が気に入っているもの。↓

この義母に、キモイわ〜とかムリだわ〜とか言っているのは、いつまでもこれをむかえずにいる人なんじゃあないの。……大人になれよ。


「行きて帰りし物語」について。

古くからある物語類型の1種で、登場人物の帰還の旅を描いたものなのだが。こう呼ばれるようになった発端は、LotR にある。

J.R.R.トールキン『ホビット〜行きて帰りし物語〜』(『The Hobbit: Or There and Back Again』)。その何十年後の物語という設定で書かれた『指輪物語』。それが映画になった『ロード・オブ・ザ・リング』。

『千と千尋の神隠し』も、行きて帰りし物語だ。

『風立ちぬ』で、カプローニが「行きて帰りし物語だ」と言うと。亡くなった妻が現れ、主人公に「あなた生きて」と言う。

『君たちはどう生きるか』の生きて帰りしパターンについて知りたい人は、「冥府下り」「オルペウス」「ギリシャ神話」などのキーワードで、ググッてみて。

他の物語類型についてふれた、関連回。↓


スティーブ・アルパート氏の著者『Sharing a House with the Never-Ending Man: 15 Years at Studio Ghibli』

1996年から2011年まで、ジブリの社員だった人物だ。ジブリの映画や製品の、国際部門の責任者だった。彼は、広報活動から作品の英訳まで、あらゆることにたずさわっていた。

東京・京都・台北に計35年住んだアルパート氏。
日本語と中国語を流暢に話す。

『風立ちぬ』に登場するカストルプというキャラクターのモデルは、このアルパート氏だ。声の吹替えも彼が担当している。


カストルプのモデルは他にもいて、それはリヒャルト・ゲルゾなのではないかーーという説がある。

アルパート氏と見比べ
ゲルゾ氏と見比べ

生まれがロシアで育ちがドイツ。父親がドイツ人で母親がロシア人。

18才で、ドイツ陸軍に志願して従軍。軍事勲章を授与される活躍をしたが。戦傷から、医学的に軍務に不適格と判断された。除隊後、「紛争の無意味さに幻滅した」と大学へ。ハンブルクで Dr. rer. pol.(ドイツの政治学博士号)を取得。ドイツ共産党に入党。

ラムゼイというコードネームを与えられ、複数の国で “情報収集” をするようになった。

(1932年の選挙結果で、ナチ党が第一党・共産党は第4党に。翌年、ヒトラー内閣が成立)

昭和8年~16年に、ソビエト連邦のスパイとして、日本で諜報活動を行ったとされた。治安維持法および国防保安法違反で、死刑判決。日本で処刑された。

日本に滞在していた時の身分証

作中、カストルプは、クレソンのサラダを食べる。一心不乱に食べる。

大量のクレソンだけのサラダで・それにむしゃむしゃと食らいつく彼の姿が、強調されているように見える。

ヒトラーはベジタリアンだったと言われている。クレソンはヒトラーを表し、クレソンを食らうことは、ナチスによる圧政に抵抗することを表すのだと。


カストルプがピアノ演奏し歌うのは、ドイツ映画『会議は踊る』に使われた『ただ一度だけ』という曲だ。

1933年に、退廃芸術であるとして、ヒトラーに上映を禁止された映画。しかし、日本には配給された。10年近くかけて、日本では何度も公開されたという。

だから、軽井沢のホテルで合唱できたのか。日本人の宿泊客も一緒に外国の歌をうたって、すごいねと思っていた(違和感があった)。

内容としては、一言でいってしまうと、女性の玉の輿物語だそうだが。かもし出す雰囲気は、なかなか儚いものがあるらしい。


私は泣いているの?笑っているの?
夢を見ているの?目覚めているの?

みんなが私のことを笑う

これはただ一度だけの出来事
二度と起こらない出来事

もしかしたらただの夢かもしれない
人生はただ一度だけしかない

(歌詞の一部を和訳)

たしかに。人生は、考えようによっては、全て夢かもしれない。

こうでなければならない・ああであってはならない、これをしなければらない・あれをしてはならない……。これは夢なのに。二度と同じ夢は見れないのに。私たちは、自分の本当の願望を押し殺したりして、生きている。

私たちはみんな、立派で滑稽だね。


人生における最高の時は、ただ一度だけ。
それも、つかの間に過ぎ去ってゆくもの。

白い坂道が空まで続いていた
あの子の命はひこうき雲
他の人にはわからない
けれど幸せ

岡田氏による、菜穂子の怖い一面の考察。

彼の分析どおりだとして(私もこの分析はあっていると思う)。私は、そういうところも含め、このヒロインが好きだ。

お絹にはあれで自分にはこれだったら、悔しい。ナイス・キャッチ!と、思い出の言葉を言うなどしてみたのに。二郎、覚えちゃいない。意気消沈していて、心ここに在らずだとしても。私の存在で、そんなこと(自分が考案した機体のテスト飛行でパイロットが死んだこと)すっかり忘れちゃうくらい、「元気」になればいいじゃない。

性的な気持ちになどなれない時がある。結局、男性には、そうやって純粋で真面目なところがある。女には、こういう怖い一面がある。

「他の人にはわからない」よね、菜穂子。岡田氏は見抜いて(わかって)くれるようだけど。そんなできた男は嫌なんだよね、菜穂子(笑)。二郎みたいな男だから、かわいいのだろう。


トーマス・マン『魔の山』の主人公、ハンス・カストルプ。

第一次世界大戦前後のドイツ。ヴィルヘルム帝制からヴァイマル共和制へ。

ハンブルク出身の造船技師であるカストルプは、結核をわずらう従兄を見舞うため、スイスのダボスにあるサナトリウムをおとずれる。

ダボス会議のダボスだ。

彼自身にも結核の徴候が出てしまい、滞在を延長することになる。結局、7年間もそこにいた主人公だが。世界大戦が勃発し、戦場へおもむくことに。


当時のダボスのサナトリウムの1つ
『風立ちぬ』の1シーン

結核は、結核菌による慢性感染症だ。吸い込んだ菌が多い場合や免疫が低下している場合に、結核症に進んでしまうらしい。

日本では、大正時代から昭和20年代まで、国民病や亡国病などと呼ばれていた。結核の年間死亡者数は十数万人におよび、その頃の死因の第一位だった。

1944年に、結核治療に劇的な効果を表す薬が開発された。放線菌から生まれたストレプトマイシンだ。追って複数の薬剤が開発され、薬の耐性ができてしまう問題も解決された。


(スイスの)サナトリウムには、世界中から、さまざまな文化的出自をもつ人々がおとずれていた。国際的な雰囲気が漂う一方で、当然、病気によるデカダンスの気配も濃厚だった。

世界のいたる場所で、相対主義化や多元主義化が進んでいた。それぞれの伝統的諸価値は揺らいでいた。

世界大戦がはじまり、カストルプも出征する。これが1つの道。人類が選んだ道。この道が選ばれた瞬間、もう1つの道は消滅した。

カストルプが、雪山で遭難(?)してしまうシーンがある。意識がもうろうとする中、彼は、新しいヒューマニティーの予感に満ちた夢をみる。これが、物語の中盤に(歴史の途中に)ある、もう1つの道。我々の別の可能性だった。


雪中の夢と、戦火の現実。

どうしようもなかったのかもしれない。いつだって、無力な私たちには、何も何も何もできないのかもしれない。

けれども。魔の山(マジック・マウンテン)には、それらの両方が、たしかにあったのだ。

個人的に、真白と真紅のコントラストは好きだ。

輪郭のぼやけた雪というものに、真っ赤な血がパタとおちたら。ああ、打つ手がないーー止めようがないーーというようなイメージがわく。容赦なく染みてゆく。

『風立ちぬ』にも。雪原に、バラバラになった飛行機が燃えながら堕ちてくる描写が、あったかと思う。


戦前から戦後にかけて『魔の山』を執筆していた、トーマス・マン。

第一次大戦中のエッセイにおいては、デモクラシーに対して、否定的な姿勢をあらわにしていた。戦後の講演においては、デモクラシーを肯定するようになっていた。

デモクラシーは、ともすれば、無意味へと帰結する。人という生き物は、ニヒリズムにおちいることがある。


「忘れるに、いいところです。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国つくった、忘れる。国際連盟ぬけた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する、ドイツも破裂する」


宮崎監督と高畑監督は、徳間書店の出資により、1985年にスタジオ・ジブリを設立した。

アルパート氏は、ジブリに入社する前は、日本のディズニーで働いていた。ジブリとディズニーとの間に契約を結ぼうと、徳間書店に出向きプレゼンテーションをする。これを1年半ほど繰り返した後、ようやっと、彼は気づいた。

徳間書店の人たちには、承認の権限がなかったことに。

このことを知り、みかねたのか。鈴木プロデューサーの方から、会いに来てくれたという。

『もののけ姫』が公開された時。サムライが出てくる時代の日本の話で・ハンセン病患者についてとり扱い・何度も人の腕が切り落とされるアニメが、アメリカで受け入れられるだろうか。こう、心配されていたという。

鈴木氏は、ディズニーのおすみつきをもらうことで、宣伝効果を得ようと考えたのだろう。


ジブリがディズニーと契約を結んだ直後、アルパート氏は、ジブリに入社した。

当時のミラマックスの重役が、『もののけ姫』を40分もカットすると言い出し、アルパート氏と激しく衝突。その人のあだ名は、ハーヴェイ・シザーハンズだったそう笑。常習犯だったのだ。

アルパート氏「鈴木さんから、毎回、10個の英題の選択肢が与えられた。My Neigbor Something は、常に選択肢にあった。『千と千尋の神隠し』の英題の候補には、『となりの湯婆婆』があった」。笑笑



徳間書店が権利を有していたにもかかわらず、アメリカ人は、ナウシカを勝手に編集した。犯人はワールド・ピクチャーズだ。

1985年のこと。『風の戦士たち』とタイトルを変えられ・20分カットされた、風の谷のナウシカもどきが、全米公開された。

誰wライト・セーバーww

ディズニーは、ノーカットで上映すること・決して編集などしないことをジブリに約束した。

それ以来、両者は良好な関係をたもっているーー否。

ディズニーの重役たちが、ジブリ作品をこき下ろしたことがある。宮崎監督は、「『ファンタジア2000』は本当にひどい」と発言することでリベンジ。ちなみに。あるディズニーのスタジオへ行き、スタッフらに直にそう伝えた。笑

鈴木氏が『魔女の宅急便』の英語版を見て。一旦もち帰ってから(宮崎監督にほうれんそうしたのだろう)、却下だと伝えた。ディズニーは、鈴木氏がその場で異を唱えなかったため、OKなのだと思ったと。このことは、法的な問題となってしまった。

約束に反して 、『魔女の宅急便』英語版に、音楽・効果音・セリフが追加される結果に。

ウォルト・ディズニー・カンパニーは、世界的なコングロマリットだ。良くも悪くも、エンターテインメント業界のかなりの部分を所有している。

ジブリはディズニーから離れ、GKIDSと契約。今や、ジブリ作品を削りたいなどと求める人は、誰もいなくなった。


『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』に、このような話がある。

イタリアで航空機製造会社を創業した、カプローニ氏。

彼のひ孫にあたる人が、『紅の豚』を観て、ジブリにカプローニ社の社史を贈った。

そこに、カプローニCa.60 の図面があった。

同社が1921年に製造した、旅客用飛行艇だ。100人の乗客を乗せて大西洋を横断するという、壮大な構想で開発されたもの。

9枚の翼と8個のエンジンがある。明らかに過剰。
これで大西洋をこえるのだと。無理があるだろう。
『風立ちぬ』の1シーン

この冗談のような機体から、うかがい知れることとは、何か。戦争へとつき進む中で、民間の航空機会社が生き残るには、ハッタリが必要。そう、彼は考えたのだろう。

社史には、この飛行艇をつくっている時の、カプロー二氏の写真もあった。宮崎監督が言うには、彼はかなりげっそりとした顔をしていた。無理だとわかりながら、つくっていたのだと。

テスト飛行で、100mだけなら飛べた。2回目の滑走で、壊れた。


漫画版の男性キャラクターたちの見た目は、ブタだ。菜穂子はブタじゃない。


以下、ジブリの公式解説より抜粋(中略あり)。

「堀越二郎は、航空史に残る美しい機体をつくりあげた。三菱A6M1、ゼロ戦である。関東大震災、世界恐慌、失業、貧困と結核、革命とファシズム、言論弾圧と戦争につぐ戦争」

「この作品の題名は、堀辰雄の同名の小説に由来する。大衆文化の開花、モダニズム、ニヒリズム、享楽主義。詩人は、旅に病み、死んでいく時代だった」

「堀越二郎と、同時代に生きた文学者の堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公に」

「自分の夢に、忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたい。夢は狂気をはらむ。その毒も隠してはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある」


堀辰雄による、ポール・ヴァレリーの作品の和訳「風立ちぬ、いざ生きめやも」について。

これは誤訳だと、よく指摘される。

Le vent se lève.
il faut tenter de vivre.

L'air immense ouvre et referme mon livre.
La vague en poudre ose jaillir des rocs.
Envolez-vous, pages tout éblouies.
Rompez, vagues.
Rompez d'eaux réjouies.
Ce toit tranquille où picoraient des focs.

ヴァレリーの『海辺の墓地』の一部だ。

一陣の風が立つ。
生きることを試みる必要がある。

絶えることなき風は広々と吹きわたり、私の本を開き、また、閉じもする。
波は岩で突然に砕かれ、激しく粉のように舞う。
飛べ、君よ。あらゆる頁(ページ)に目をくらませて。
乱せ、波よ。楽しげに躍る水で砕け。
三角帆のついばむところ。この穏やかな屋根を。


海辺の墓地然としている心象風景に、生きることを決意させるような、強い風が吹き荒れる。

鳥についばまれたような三角帆が、海面に、無数に浮かぶ。そこに外部からの刺激を与えよ、その規則性を乱してみせよ、というメッセージだ。

仏語の picoraient には、ミツバチが蜜を集めるという意味もあるらしい。一般的な概念では、昆虫とは規則性が高い生き物だ。

どちらを採用しても似たようなメッセージになるため、ダブル・ミーニングなのだろう。

ポール・ヴァレリー

少し、虫の話をしよう。

1)環境への適応力がずばぬけている
2)翅(はね)で移動し住む場所を選べる
3)一世代の期間が短く進化のチャンスが多い4)そもそも体が小さい → 少量で済む食事、豊富な生存空間

これらが、昆虫が繁栄に成功した、主な理由である。

昆虫の仲間は、海を除く、地球上のあらゆる場所に生息している。その数、約100万種と言われるが。毎年3000種以上が新種として発表されるため、未知の種を加えた実際の種類数は、500万種とも1000万種とも考えられる。そうなると、全動物種の8割は昆虫類で占められていることに。

この星を「虫の惑星」と呼んでも、過言ではなくなってくる。何が言いたいかというと。ナウシカの世界観は、案外、現実的なものである。

この外殻の硬さなら、理論上、王蟲は海にも住める。

私のことを書いても詮無いため、少しだけ。

私の、自分だけしか知らない・他人と共有しない、精神世界の景色はこうだ。

くもり空の少し寒い海辺。やや風がある。草はベージュ色でカサカサと鳴っている。白い木造の家が建っている。私の私だけの心はそこに住んでいる。バルコニーがある。私は立ったまま海をながめている。


「生きめやも」だと、「生きるのかな。いや、生きないよな」的なニュアンスになる。メイン・メッセージをとりこぼしているようなものであるため、誤訳と呼ばれるのも理解できる。

だが。たった数言しか出さないのでは、詩全体のどこか悲しげな雰囲気は、一切表現できない。そんな状態で「いざ生かむ!」などとしたところで、世界観に矛盾する。よって、これが最適解だと思う。

サナトリウムで死をむかえる若い男女の、残された静謐(せいひつ)な日々。これのどこに、よっしゃ!いっちょ生きてったろ!こんな雰囲気があるというのだ。いくら、死と向きあえているとしても。それはさすがに、違うだろう。

生きめやもでいい。


〆に、『風立ちぬ』の中で、私が一番ささるシーンの話をする。

菜穂子の容態が悪化した、という電報を受信した二郎。
彼は、すぐさま、彼女のもとへ行こうとする。
10分でバスがやってくる。
① 畳や床板の上を走ってすべり、部屋着をぐちゃぐちゃに脱ぎ捨て、急ぐが。
② カバンに、仕事の書類をつめることにした。その行為に時間を費やした。
①と②の間だ。二郎が、大粒の涙をこぼしたのは。

仕事をもっていこう・道中で飛行機の設計をしようと、思いついた瞬間だったのではないか。僕は仕事がしたいんだと、思い知った瞬間だったのではないか。

菜穂子。大好きだ。自分は人に恋をしている。素晴らしい人生だ。仮に、夢を捨てれば菜穂子が助かるとしよう。僕は僕は……どちらを選ぶのだ……。号泣。こうだったのではないか。


大丈夫だよ、二郎。あんたが仕事を選んでも、菜穂子があんたを選んでくれるから、一緒にいれるよ。

時代のせいだろうか。現代では女にはいろいろな選択肢があるから、全てを捨てて男を選ぶなんて “愚行” に、私たちは走らないのだろうか。

男は女の狂気を何だと思っている。愛だよ。
女は男の狂気を何だと思っている。夢だよ。

私にはどうしても、これが、自己重要感がどうこうで説明しきれるもの/その内の相違な気がしない。見当違いなどと言わずに、私に、空想する自由を許してほしい。


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