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「飛ばない豚はただの豚」と言った実在の人物たち

今回は、平和や自由を求めて、暴力以外の方法で戦った人たちの話。

2019年に、メリーランド州のボルチモア美術館にて、『モンスターと神話:1930年代と1940年代のシュルレアリスムと戦争』という展示が催された。

サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、パブロ・ピカソ、マーク・ロスコ、ドロテア・タニングなどの作品
が展示された。

リンクを追加した。(2024年2月)


一人一人の写真を貼る。

歴史上の著名人の人生を少しでも、リアルに想像できるように。私たちは生きている。彼ら彼女らも、当たり前だが、生きていたのだから。

パブロ・ピカソ(1881年~1973年)
マックス・エルンスト(1891年~1976年)
アンドレ・マッソン(1896年~1987年)
サルバドール・ダリ(1904年~1989年)
ドロテア・タニング (1910年~2012年)

ちなみに。マックス・エルンストとドロテア・タニングは夫婦だった。

エルンストは4度目の結婚で年は20才離れていたが。

第一次世界大戦(1914年~1918年)
ナチス・ドイツ(1933年~1945年)
第二次世界大戦(1939年~1945年)

ホロコースト関連地図
■は強制収容所、ドクロは絶滅収容所、ダビデ星はゲットー(ユダヤ人が強制的に住まわされた地区)

彼ら彼女らの生きた時代は、こういう時代だった。彼らは経験し、彼女らは目撃した。

それをイメージしやすいように、写真はわざと、老齢になってからのものを避けてみた。


シュルレアリスムの発展は、ダダイズムの直後に起きた。ダダイズムは戦争への反動であった。争いごとへの軽蔑を表現するために、ブラック・ユーモアを使用したもの。

※ダダイズムについても、興味深い話がたくさんあるのだが。長くなるため、また別の機会に。

シュルレアリスムは、いわば、より内向きなもの。人の奥深くにある、暴力(など)の傾向を解明しようとするもの。

世界大戦中に、外部からもたらされた暴力と、経験した内部の苦悩。その両方が描かれた作品。この展示には、そんな作品が集められた。

20世紀の欧米のシュルレアリスム・アーティストは、戦争や暴力や亡命の体験を描くために、怪物や神話上の生き物を用いた。

ヒトラーの台頭・ファシズムの蔓延・戦争の予感・内戦・第一次世界大戦・第二次世界大戦……現実世界の怪物が、芸術作品の怪物を生み出したのだ。

後半で詳しく書く。


『紅の豚』のポルコはお尋ね者だ。反国家非協力罪と退廃思想で、逮捕状が出ているとのこと。

物語の舞台は、第一次世界大戦後のイタリア。ムッソリーニのファシスト党による独裁政権。

手前:ムッソリーニ  奥:ヒトラー
ムッソリーニを出迎える党員たち

ポルコを追う秘密警察のモデルは、さしづめ、反ファシズム監視抑圧機関といったところか。

原作『飛行艇時代』で。ポルコ(マルコ・パゴット中尉)は、自らのことをこう説明する。イタリア海軍退役パイロットで、今はバルカン諸国と契約をしている、空賊狩りの賞金稼ぎ。

当時のイタリアでは、急激なインフレが発生していた。ファシスト政権は、経済の立て直しのために、労働者を管理したがっていた。ポルコは、個人で空賊狩りをやっている。しかも、国外から仕事を請けおっている。


「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねぇよ」
「ファシストになるより豚の方がマシさ」

戦争で、マルコは多くの友人を失った。ジーナは複数回、未亡人になった。祖国のために働くたびに、仲間たちが、次々に命をおとしていった。自分を遺してーー

以下、宮崎駿監督へのインタビュー記事より。

「もういっぱい経験してきた人たち。取り返しのつかないこともいっぱいもっている人たち。(中略)豚も自分の汚れが晴れて、やり直しがきいて、これでまっさらになったなんて思わないですね」

『紅の豚』はまぎれもなく、「中年」を描いた作品だ。 よく、哀愁漂うなどと表現されるが。弱さも負けも知っていることは、強さに他ならない。


マルコがジーナと一緒にならない理由について。

ポルコはお尋ね者で危険だから・ジーナを巻きこみたくないからなど、彼が我慢をしたり諦めたりして、そうしているという説がよく語られるが。

私は、究極的には、それは違うと思っている。

監督が、マルコがなぜ自分に魔法をかけたのかを考える中で、ジーナというキャラクターは生まれたという。

マルコはジーナと、物理的に男女として結ばれたくはないのだ。いろいろなことがあった。マルコにとって、この絵はこれで “完成” なのだ。今さら、実際に男女の仲になる?一部の男性にとって、それは、本懐ではない。

一方、女は現実的だ。男のロマンだかなんだか知らないけれど、私から逃げないでと思う。現実の私に触れて・一緒にリアルな時を生きてと願う。それが、ジーナ(女性)だ。

ポルコは “ひとり” でいたいのだ。ひとりは必ずしも孤独ではない。互いを映しあい、突きぬけるように青くなったり・真っ赤に燃えたりする、空と海。そこを自由に飛べる豚。じゅうぶんどころか極上なのだ。

この飛行艇乗りの人生も夕暮れにさしかかっている。

店にやってくる男たちの好意を受け流しながら(また別の愛し方で愛しながら)、ジーナは、本命の相手を待っている。3年待っても、プライベートな庭へはきてくれない。いくら夜の店に会いにきてくれても、彼女は仕事中だ。

以上、私の主観だが。
男と女とは、夢と現実のことだ。私たちは永遠に、「Someday の男」と「Today の女」だ。

これはこれで美しい絵。1つの愛の形だ。

惚れた男の生き様を見上げるジーナ
残念な結果のはずが、清々しい表情をしている。
本当は政治や経済にも精通しているジーナ
無知であの客層の店のママはできない。
愛する人の身を案じるジーナ
諦めずに何度も立ち上がるよう激励するジーナ

「マルコありがとう。いつも傍にいてくれて
」2人はそもそも共に生きている。


パブロ・ピカソ『ミノタウロマキア』1935年

タイトルは、牛頭人身の怪物ミノトールと、闘牛を意味するタウロマキアをあわせた造語。

ピカソの母国スペインで、内戦が勃発する前年に、描かれた作品。展示会では、「戦争の予感」というセクションに置かれた。

裸の女性と 怯えた馬と 威圧的なミノタウロスは、後の『ゲルニカ』(スペインの民間人が爆撃されたことへの、ピカソの猛烈な抗議)にも似ている。

『ゲルニカ』1937年

亡くなった子どもを抱いて嘆き悲しむ母親・苦しげにいななく馬・床に倒れる兵士・握られた折れた剣と一輪の花・残りの手には聖痕のような傷・世界を照らす電球。

スペイン語の電球は、「爆弾」に発音が近い。それに対して掲げられるランプの灯は、希望の象徴ともいわれている。


マックス・エルンスト 『雨上がりのヨーロッパ Ⅱ』1940~42年

ドイツ人のエルンストは、第一次世界大戦中、塹壕で戦ったことがある。その後は、祖国を否定するような思想や活動をしていると、ナチスに逮捕された。そして逃亡。逃亡先のフランスでは、不法滞在者だった。最終的には米国に亡命。

「雨上がり」は皮肉だろう。まるで、洪水後のような光景。焼けただれたかのようにも見える。特に日本人には、そう見えやすい。

デカルコマニー(移し絵):絵具をおいた紙に別の紙を押しあてる技法。これが、不穏な雰囲気のする流体を生んだ。

右側、機械じかけのような雄牛・裸の女・鳥頭の男などがいるのは、ヨーロッパ側。左側は、そのようではないが、岩だらけだ。アリゾナ州などか。

彼ら彼女らは、当然、アメリカも軍事的に関わっていることを理解していた。自分や家族の命のために、精神に折りあいをつけたのだろう。自分を恥じたか。責めたか。かわいそうに……。後ほど、ダリの話でより詳しく書く。


アンドレ・マッソン『闘牛』1937年

牛や馬がただの牛や馬ではなく、メタファーであることは、もう説明不要だろう。

マッソンには、ユダヤ人の妻子がいた。彼自身、あらゆる “リスト” に載っていたこともあり、亡命を余儀なくされた。序盤に載せた地図の、数多の強制収容所を思い出してほしい。

ミノタウロス=牛頭人身。闘牛=牛と人の闘い。牛と人の両方の要素をもちつつ、戦い続ける。自己の葛藤を表すようでもあり、また、内戦を表すようでもある。

『終わった世界はない』1942年

『約束のネバーランド』のように聞こえるタイトル。気のせいか、絵も似ている。

『約束のネバーランド』

ネバーランド:全てが快適で完璧な架空の場所。現実にはあり得ない場所。

「ネバー・ネバーランド」という言いまわしは、ユートピア的な考え方をする人などに対して、否定的/説教的な意味で使われる。

ところが、実在する。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州は、かつて、「ネバー・ネバー」と呼ばれていた。

砂嵐が吹き荒れる過酷な環境。楽園には程遠い。
手つかずの大自然とはそういうものだ。
開拓(世界を変えること)は容易ではない。

到底無理と思われていた荒地を住めるまでのものにするように。実在する → ネバーランドは自ら創り出すものなのだ。


サルバドール・ダリ『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』1936年

ダリによると、「自己絞殺の錯乱の中で、互いに引き裂きあう巨大な人体が、腕と足の巨大な突出物に分裂する」様子。

サブ・タイトルに「予感」とあるが、この時すでに、スペインの内戦は勃発していた。スペインはダリの母国だ。

シュルレアリスム。超現実とは、オーバー現実ではない。スーパー現実である。嘘のようなむごたらしいことが見学できるが、夢ではない。この世は、日々、ありえないはずのことが起こっている。

『怪物の発明』1936年

ヒトラー率いるドイツ軍がオーストリアを併合する1年前に、オーストリアで描かれたもの。当時の不安が伝わってくる。

炎に包まれるキリン と 水浴びをするケンタウロスに似た人間。

ダリと妻ガラの肖像(奥)。

この構図で夫婦は写真も撮っている。
ほとんど見えないが、暗闇の中に青い動物がいる。

ダリは、「青い犬だけは怪物ではない」と述べた。しかし、今にも消えてしまいそうだ。彼の自己反省を表すと、推測されている。


ドロテア・タニング『誕生日』1942年

これは、タニングの自画像だ。謎の生き物を飼っている。ドアは無限に続いているが、開かれている。かなり派手な上着が着崩され、胸があらわになっている。スカートには枝がからんでいる。きっと、これが、彼女のセクシュアリティーなのだろう。

タニングは、「私がシュルレアリスムの旗を掲げていると言わないでほしい」と表明した。まわりがシュルレアリスムに分類しただけで、彼女は、慣例に挑戦し続けていたのだ。見せようとした扉の向こうは、家庭の内情か。あるいは、自分という女そのものかもしれない。

『憧れのギュスターヴのために』1974年

私は、この絵の雰囲気が好きだ。
深淵から現れる、人魚を連想するような姿。生物学的/カテゴリー的決定性に対する反抗ーーそんなモチーフかもしれない。タイトルにあるとおり、ギュスターヴ・ドレの『オセアニド』のオマージュだそう。

個人的に。タニングの言葉に、一言一句、完全に同意するものがある。これだ。

「私は自分の無意識を育てる必要性を感じたことはありません。当時も今も。それはそこにあります。私の意識的な自己と錬金術的に融合し、私の個性を保証します。それらが噛みあい、連携して、私がどんな人間であるかを作り上げます」


これらは全て、逃避的なアートにあらず。彼ら彼女らは、暴力以外の方法で、現実と向きあっていたのだ。戦争の真っ只中に生きるという、現実と。

一部の管理者側は自由をこのように表現した。

現在、私たちは相も変わらず、独裁者・過激主義・暴力・強制移住などの脅威に満ちた世界に生きている。

そんな世界に対して、私たちはどう生きるか。

演奏者の息づかいが少しだけ、聴こえる。その感じがむしろよかった。どんな作品の向こうにも、必ず人がいる。

〜恋の終わりを恐れるなら、さくらんぼの赤い実を愛してはいけない〜

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