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エヴァとニーチェが私たちに教えてくれたこと:||

ありとあらゆることが語り尽くされているであろう作品を題材にして。私は、何かユニークなことを書けるのだろうか。

わからないが、書いてみることにする。

人間は己を乗り超えなくてはならないとニーチェは言った。「逃げちゃダメだ」とシンジは言った。

超人……自分の情熱の混沌を整理し、自分というキャラクターにスタイルを与え、創造的になった人。人生の恐ろしさを知りながらも、恨むことなく人生を肯定する人。

古今東西の神話を研究した米国の学者が、複数の物語に、1つの共通点を発見した。「英雄の旅」と呼ばれる物語構造だ。

『エヴァンゲリオン』シリーズは、この古くから存在する構造(パターン)の、極めて優れた現代表現である。

岡田氏が庵野氏のことをジョージ・ルーカスのタイプだと。ずっとエヴァをやったらいいとすすめた、という話を読んだことがある。

以前に書いた関連回。『スター・ウォーズ』シリーズがどうやってできたか。気になったら後で読んで。


「英雄の旅」の基本的な構成

①日常

②冒険への誘い
主人公は、強引に冒険に誘われることが多い。

③冒険の拒絶
主人公は、冒険に不安や恐怖を感じがち。

④賢者との出会い
『スター・ウォーズ』だとヨーダにあたる。

カヲルはこれとはまた違う存在かと。シンジは、ルーク・スカイウォーカーと比べて、7ヶ月かけてエヴァとシンクロしたレイと比べて、へたれか。彼には、肉体的にも精神的にも、準備期間が全くなかったことがわかる。『エヴァンゲリオン』の「英雄」の心が長期定まらなかった/自信がもてなかったのには、こういった要因もある。

⑤第一関門
ポイント・オブ・ノーリターンでもある。

⑥仲間と敵もしくは試練
仲間と協力して、敵や試練に立ち向かう。敵や試練に立ち向かう過程で、仲間との関係性が深まる。

⑦最大の危機
これを必ず乗り越えねばならない。

⑪復活
最大の危機の中で死にかけた主人公が、息を吹き返したりする。

シンジ「綾波が消えた帰り道、加持さんに教えてもらった土の匂いがしたんだ。ミサトさんが背負ってるもの、半分ひき受けるよ」この加持と土の匂いについては、後で掘り下げたい。

⑫報酬
主人公が得る報酬には、さまざまな種類がある。

⑬帰還
主人公は日常に戻る。

冒険を経た主人公が大きく変化していることは、言うまでもない。


文化も歴史も違う国々の数々の神話に、このような同様のスタイルが見られたのだ。

個人的には、このことをあまり不思議に感じない。これは本当に、神話やアニメだけの話なのだろうか。

困難に直面した時、人々は、代表して立ち上がってくれるような人を望むのではないか。

1人で立ち向かうなど、不満や恐怖を感じて当たり前。

先人の教えがあれば有益だろう。サポーターがいれば心強いだろう。

成功報酬をほっするのは自然なことだ。しかし、仲間との絆や成長した自分が、それに値することもあり得る。


ニーチェは言った。「神は死んだ」と。

「我々が神を殺したのだ。お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ。

だが、どうしてそんなことができたのだ?

地球を太陽からきり離すようなことをどうしてやってしまったのか?我々はどっちへ動いているのか?我々は無限の虚無の中をさ迷っていくのではないか?寒くなってきたのではないか?絶えず夜が、ますます暗い夜がやってくるのではないか?真昼間から提灯をつけなければならないのではないか?神を埋葬する墓掘り人たちの騒ぎは未だ聞こえてこないか?神の腐る匂いが未だしてこないか?

神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」


彼の死後数年後に、ムンクが描いたニーチェ。

2人が会ったことはないが、ムンクはニーチェの大ファンだった。同じくファンの知人たちと、彼の思想について語りあったりしていたそう。

「私は光なのだ。夜であればいいのに!この身が光を放ち光をめぐらしているということ。これが私の孤独なのだ」

ムンクが特に好んだ一節。

ムンクは、彼の肩から翼が生えているように、背景を描いたといわれている。→ 近めだとそうでもないが。離れて見ると思いきり羽根。

何かを連想しないか。「残酷な天使のテーゼ」だ。


人が、いるかいないかわからない神なりなんなりを想像/創造するのは、なぜか。

答えはいたってシンプル。それらが必要だからだ。

ニヒリズム。nihil はラテン語で虚無。世界が存在することや自分が生きていることには、意味がないという発想。

それは、なぜなのか明確にはわからずとも、人を悲しい気持ちにさせる。

全く悲しくない、という強者もいるだろうが。


ニーチェには、神が、大衆版のプラトン主義に思えた。イデア・超感覚的世界。

タチコマには、神が、数字の0に思えた。

「前にはよくわかんなかった神ってやつの存在も、近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。もしかしたらだけどさ、数字の0に似た概念なんじゃないかなって。要するに、体系を体系たらしめるために要請される、意味の不在を否定するための記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのが0」

私の体験談だが。

宗教学の先生が結婚したというので、私たちはお祝いを述べた。日本人女性だと知り、特に私は、なんだかうれしくなったのを覚えている。「明日妻が亡くなっても悲しくない」突然の言葉に、場は静まり返った。「これが悟りを開くということ。私には悟りは開けないと実感した。さて、授業をはじめよう」

欧米人から聞く仏教の講義は、二重に学びのあるもので。とてもよかった。


あまりにも巨大で根深く複雑な、社会の問題の数々。

私たちは、自らが理解や制御できないものに、安寧を見出すことができない。もしくは、とても難しい。

科学技術の進歩と快楽主義的アプローチの発展の組みあわせは、私たちを互いに孤立させた。そうして、私たちは虚無感を抱くようになった。

安心感を求めた。人のぬくもりを人とのきずなをこころのふれあいを求め続けた。だが、願いは叶わない。想いは報われない。その繰り返し。

そんな私たちの中で、ついに、神が死んだ。


伝統的な宗教ではもはや解決できないーーそんな問題に、『エヴァンゲリオン』シリーズはアプローチした。

しかし。この作品も一切響かないという人は、いくらでも存在する。ある宗教が誰かにとっては全く救いにならないのと、同様に。

みんなが心の安寧を求めている。違うアプローチで。

『エヴァンゲリオン』の主人公 “たち” のこころの様子も、それぞれの神が不在であることの、結果なのであるし。

孤独なティーン・エイジャーたちが、エヴァと呼ばれるバイオ・ロボティック兵器を操縦するという恐怖に、おぼれてゆく。

父親に一目おかれ、良好な関係性をもてるのではないかと期待していたり。

自分の才能を世の中に示せ、認められるのではないかと期待していたり。

「絆だから」と答えたりする。このレイの回答からは、感情希薄な自分でも他者と心を交わせるのではないかと期待していることが、推測される。


言葉少ななタイプが、最もわかりにくい人間であるとは限らない。みなまで語らない分、1つか2つの強い想いが、表情や瞳によく表れる人はいる。このような人の無言や無反応は、そのままストレートに無言や無反応だとは言いがたい。

ミステリアスなどわかりにくいと思われがちだが、むしろ、わかりやすい存在だ。レイ。

たくさんの言葉を実際に発してしまう人の方が、自分でも自分の言葉を聞くのもあり、精神的に混乱していく。そのようなことは大いにあり得る。そういうタイプのたまらない魅力なのだが。

支離滅裂と思われがちだが、葛藤し必死になっている証だ。アスカ。


シンジとアスカ  と  最初の男と最初の女。

元ネタは、監督が知人女性から聞いた体験談だそう。

恋人に首をしめられながらも、男の頬をなでた女。そんな反応をされ、泣き出した男。その女(ひと)は、なぜか、興ざめしたという。

監督はシンジ役の声優に、「はじめて自分で自分を抱きしめてやれた時の泣き」を求めたという。

殺されてもいいと思うほど好きな相手は、この期に及んで、まだ自分自身のことばかり考えているのだとわかった。私はあんたのことばかり考えているのに。……「気持ち悪い」。


アスカはシンジに「あんたが全部わたしのものにならないなら、わたし何もいらない」と言った。All or Nothing.

そんなアスカは、身勝手な人類補完計画と同レベルなのだろうか。

本質に先立っていた実存が本質をつかむことはある。

サルトルは、「人間は、こうならねばならないと決められないまま、この世に存在する。自己の本質を自由につくりあげていく存在である。その自由は、孤独の中で不安に耐えながら、自己の現実を選びとっていくしかない自由である」とした。


どこまでいっても他者は他者でしかないという、諦め。けれども消えない渇望。I Need You.

ニーチェは、「永劫回帰」を肯定せよと説いた。 

人生で何度同じことが起ころうが、たとえ同じ人生を繰り返すことになろうが、もう一度歩んでもよいと思えるような。そんな人生を生きよ、と。

私の世界一好きな歌手は宇多田ヒカルだ。貼ったのは、「One Last Kiss」のMADで一番好きなもの。

ニーチェにも聞かせてあげたかった。私の言いたいことが歌になっている、と喜んでくれたことだろう。


アイは「LOVE」と「I」と「i」……アガペーとイドと虚数なのだろう。


人類補完計画。

ゼーレの行動は「裏死海文書」にもとづいたものだった。「裏死海文書」には、使徒が襲来することや人類補完計画のやり方が、記されていた。

インパクトを発生させる。人々に個を捨てさせる。人類の魂をひとつにする。人類は完全単一生命体へと進化する。

死海文書:1946年に、死海の北西にある遺跡から発掘された(羊飼いが洞窟で古い巻物の入った壷を発見した)、972の写本群の総称。旧約聖書のことなどが書かれている。

人類補完計画を実行するために。組織ゼーレ(ドイツ語で魂)は、機関ネルフ(ドイツ語で神経)を使い、神の代わりを演じた。

キリストさながら、世界の罪をぬぐい去ってくれると?何が人類の悦びであるか、代表して決めてくれると?

ニーチェが『悦ばしき知識』で語った悦びとは違う。これはちょうど、彼が「超人」に対して「末人」と呼んだものだ。


ミサト「私は、神の力をも克服する人間の知恵と意思を信じます」

リツコ「私たちは、神に屈した補完計画による絶望のリセットではなく、希望のコンティニューを選びます」

ゲンドウ「人の思いでは何も変わらんさ」

ミサト・リツコとゲンドウのセリフは、対照的なものとなっている。

この輪から泣く泣く立ち去らねばならない者の多すぎる社会への、1つの救出作戦のつもり。Salvation のつもりなのは、わかるのだが。


だけどいつか気付くでしょう その背中には
遥か未来めざすための羽根があること
残酷な天使のテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
この宇宙を抱いて輝く 少年よ神話になれ

本作は、手さぐり状態で進められた・途中でさまざまな変更があった、といわれているが。(「このあたりで彼らは追加の勉強をしたようだ」海外のキリスト教徒から、このような感想がたしかにある)

最初のOP曲がこれであったことは、シリーズの核心は、はじめから強くかたまっていて・おわりまで貫かれたことを表している。


人間の経験とは、集団的なものではなく、個人的で利己的なものだ。

外(ほか)からの受容があって、やっと、自分を愛することができる。しかし、同じ理由で、他者を愛することができない。

私たちは傷つきやすいという話だ。

『エヴァンゲリオン』に「ハリネズミ(ヤマアラシ)のジレンマ」のアイディアが採用されていることは、よく知られている。

カヲルにはそんなものはない。ためらうことなくシンジに近づいた。

当初、カヲルは、猫のような存在/常に猫をつれている少年として、考案されていたそうだ。


キリスト教的な道徳、大いなる目的のために個を犠牲にすることから、シンジを解除しようとした。そんなカヲルが、結局は、自らを犠牲にしてシンジを含めた人類を守った。

彼の場合。自身の補完を行わず、人類の補完を行ったということになる。人類をいわば諦めたゼーレとは異なり、人類に望みを託した形だ。

「ピアノの連弾も音階の会話さ。やってみなよ」「いいね。いいよ。君との音」

「人間はさみしさを永遠になくすことはできない。ただ、忘れることができるから人は生きていけるのさ」

「今度こそ、君だけは幸せにしてみせるよ」

カヲルの楽譜上に無数に書かれていたであろう、D. C.(da capo)のことを思う。


私の 紗綾 は 当麻紗綾 から。

瀬文焚流(セブミタケル)は Save Me Take Loop. からなのではないか、と話題になったことがあるそう。

この輪廻から私を救って。うーん、どうだろう。自らそれを選択した当麻が言うだろうか。もしくは、彼や仲間と本物の愛をもてたことにより、彼女の孤独のループが終焉したーーということなのかもしれない。

瀬文さんと当麻のパートナー・シップのあり方が好きだ。


「ヴンダー」。エヴァ初号機のパーツを転用してつくられた、巨大な空中戦艦。ドイツ語で奇跡。英語だとワンダー・ランドのワンダー。

全ての使徒を倒し、インパクトを阻止する目的。新型のエヴァを差し向けてくるゲンドウらと、戦う目的。

AAAヴンダーの AAA は Autonomous Assault Ark の略。自律攻撃型方舟。

未完成なところもある戦艦なのだが。不思議と、頼りなさよりも成長する伸びしろを感じる。

見た目が生物っぽいだけでなく、まるで咆哮のような音を発する。

ミサトは、ヴンダーに対して、「神殺しの力、見極めるだけよ」と言った。また、ネルフの戦艦に対しては、「同じ神殺しの力、厄介ね」と言った。

つまり、いずれも神を殺せる力をもつ。


本作には槍が複数出てくる。

ゲンドウによれば6本であったが、ミサトたちによって1本が追加されたことにより、合計7本に。

最後の1本ガイウスの槍は、ヴンダーを材料にしてつくられた。

エヴァ初号機 → ヴンダー → ガイウスの槍
バトン・リレーのようだ。

ロンギヌスは絶望の槍、カシウスは希望の槍、最終的に使われたガイウスは新生の槍(ありのままの槍という解釈もある)、という設定。

ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(Gaius Cassius Longinus)は、紀元前85年~45年頃に生きた、共和制ローマ末期の政務官である。ブルトゥスらと共にカエサルを暗殺した人物だ。

僭主(暴君や圧制者に近い意味)カエサルを終わらせたことで、彼らの名声は長く残った。後に、最後のローマ人と称されたりした。

一方、カエサルの方を英雄視していたダンテは、というと。『神曲』で、彼らやユダを地獄の最下層に配置した。


ガイウスの槍には、人類の知恵と意志がつまっていた。ミサトらが造り、マリが運び、シンジへと託された。

シンジはガイウスの槍を使って、エヴァンゲリオンのない方向へと、世界の進路をきりかえた。


「父さんは何を望むの?」

「お前が選ばなかった、ATフィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界。他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない、浄化された魂だけの世界。そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」

「父さんは母さんを見送りたかったんだね。それが父さんの願った神殺し」

息子の方を見ようとしない父親に、シンジはかまわず語りかける。

「父さんのことが知りたい。さみしくても、いつも父さんに近づかないようにしていた。嫌われているのが、はっきりするのが怖かったんだ。でも、今は知りたい。父さんのこと」

先に一歩踏み出したのは、息子の方だった。2人の間にATフィールドが出現した。

「まさか、シンジを恐れているのか。この私が」

「僕と同じだったんだ。父さんも」

「ああ、そうだ。ヘッドフォンが外界と私を断ちきってくれる。無関心を装い、他人のノイズから私を守ってくれた。だが、ユイと出会い、私には必要がなくなった」

ゲンドウは、知識とピアノだけが好きな子どもだったと、自身のことをふりかえった。

一方的に得るだけで気づかい無用の、知識。弾けばそのとおりに鳴る裏切りらない、ピアノ。傷つかないでいれるから独りが楽だったと。

演奏を介して他者とつながろうとするカヲルとは、真逆ほど、音楽に対して違うとらえ方をしているのがわかる。

最愛の妻 兼 魂のよりどころ 兼 自分だけの神を失い、孤独な闇をさまよい続けた、1人の男の物語だったのだ。

妻の忘れ形見でもある息子に、関わらずにいる言い訳として(関わっても妻と二度と会えないことを実感するだけ)。「碇司令であること」は(私は重要な仕事で忙しいのだから)、大変都合がよかったのかもしれない。


前述したが。悟りを開いた者は、妻が死んでも悲しくないのだ。

これまでに悟りを開くことができた者は、ブッダただ1人である。神にでもならない限り、今日パートナーが死んだら悲しいのだ。

ゲンドウは神から程遠い存在だった。彼は大変人間らしい人間だった。それでいい。それがいい。


女の「好き」とはこんなものだ。優しいだとか尊敬できるだとか、嘘ではないにしても、後づけにすぎない。

私に向けてきた笑顔がかわいかった。

男性からしたら、特に、自分は特別な存在だと思っている人からしたら。たったそれだけかとガッカリするかもしれない。たったそれだけだが、たったそれだけで、誰かを強く愛することができる。時に、永遠に。

女とはそういう生き物だ。


小ぶりな手鏡でも後ろのユイもうつっていただろうか。自分には目もくれずユイを見つめていた。と、このような描写がいいのだが。個人的に。

マリ「知恵と意志をもつ人類は、神の手助けなしに、ここまできてるよ。ユイさん」


シンジは神殺しを遂行した。エヴァのない世界 = 新世紀をつくるために/ありのままの大地をとり戻すために。

私に還りなさい 生まれる前に

人生で、ふと、行きすぎたなと感じたら。どこかへ還りなさい。これは大切なことだ。


加持のスイカ畑について。

加持は、ある時から、畑仕事をするようになった。畑を耕すことは、加持にとって、意味のある大切なことだった。

シンジが、こんな時にそんなことをやっているのかと咎めたところ。「こんな時だからだよ。 葛城の胸の中もいいが、やはり死ぬ時はここにいたいからね」と答えた。

遺言(結果的に遺言となる)でも、スイカの話をしたほど。「迷惑ついでに。俺の育てていた花がある。俺の代わりに水をやってくれるとうれしい。場所はシンジ君が知ってる」 

混沌を極めた世界で、加持はスイカを育てた。

明日、使徒の攻撃で台無しになってしまうかもしれないのに。今日、作物に水をやることを選んだ。

エヴァが使徒を捕食する。そんな光景さえ、加持は、スイカ畑からひょうひょうと眺めた。

生前、このスイカ畑をシンジに見せていた。

「シンジ君、俺はここで水をまくことしかできない。だが君には、君にしかできない君にならできることがあるはずだ。誰も君に強要はしない。自分で考え自分で決めろ。自分が今、何をすべきなのか。ま、後悔のないようにな」


以下は、『The Catcher in the Rye』(『ライ麦畑でつかまえて』)の一節だ。

「広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちがみんなで何かのゲームをしているとこが、目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない。誰もって大人はだよ。僕の他にはね。

で、僕は危ない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。子供たちは、走ってる時にどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんな時に僕は、どっかからさっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。

一日中、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたい。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、本当になりたいものといったら、それしかないね」


『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の「:||」。

「||: が表記された位置へ一度だけ戻った後、反復する」という指示の楽譜記号。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』などに「:」が使用されているため、「:||」ではなく「||」と解釈することもできる。

「||」であるならば、終止線である。

26年もの歳月を経て。物語は終わりをむかえた。エンディングの映像は、現実の駅や実在する町並みへとつながっていった。


結局、私は何が言いたかったのか。

たぶん、私なりの「あきらめたらそこで試合終了だよ」を書きたかったのだと思う。

先生にだって、悲しいことがあったんだ。自分を責めたり葛藤したりしながら、あきらめずに歩いてきたんだ。だから、生徒に言えるんだ。


日本のマンガやアニメは、彼らのような天才がとんでもない努力を積み重ねるため、非常に大人向けである。つまり、子供から大人まで楽しめる。シン・エヴァンゲリオンやシン・ウルトラマンは、幅広い世代の交流を生み出した。

ニーチェが彼ら彼女らを見たら。超人!!と呼ぶに違いない。

還暦の時のお写真。すごくいい。

ありがとう、すべてのオタキング。

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