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ドニ・ド・ルージュモン 『愛について エロスとアガペ』 : アガペという党派的〈 情熱=フィクション〉

書評:ドニ・ド・ルージュモン『愛について エロスとアガペ』(平凡社ライブラリー)

本書は、典型的なカトリック的「護教書」であり、しばしば言われる「キリスト教の偽善性」が、とてもよく表れた作品である。したがって、キリスト教の「欺瞞性」というものを知りたければ、本書を読むとよい。

クリスチャンには、自身の信仰を正当化してくれる理論書として、ありがたいものと映るのだろうが、クリスチャンでない者にとっては、その理論の度しがたいほどの自己中心性と手前味噌が明らかなので、ぜひとも非クリスチャンに読んでほしい一冊だ。
キリスト教がなぜ、多くの「害悪」を、人間の歴史のなかで垂れ流してきたのか、そのひとつの答えがここにある。

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キリスト教が、その秘蹟の一つと数える「結婚」。本書は、それを否定する「情熱」(的な恋愛)について、「トリスタンとイズー」の悲恋物語の分析から筆を起こす。そして、この分析はなかなか面白いのだが、その後が、いかにもカトリック的に牽強付会で、いただけない。説得力がない。

著者は、博識の人であり、文芸評論家としてもかなり有能(器用)な人なのだが、いかんせんキリスト教徒であり、その信仰の枠内でしか物事を見る気のない盲信者なので、結局のところ本書は、世間的な「愛」のかたちを貶め、キリスト教的な「愛」を最高のものとして賛美するために書かれた「護教書」に止まるものとなってしまった。
つまり、前述のとおり、キリスト教徒が読めば、無条件に優れた本だということにもなろうが、そうでない者には、その手前味噌さが、かなり鼻につくしろものなのである。

本書では「情熱」的な愛を、「トリスタンとイズー」や「ロミオとジュリエット」に代表される、困難の苦しみを伴うがゆえに燃え上がる「情熱としての愛」として捉え、それが所詮は、自己中心的な、自分のための、相手のためでも何でもない、燃え上がる「感情」であり、「エロス(快楽を惹起する、生の燃焼)」としての自己愛だと、否定的に捉える。

それに対して「キリスト教の愛」は、自分のための愛ではなく、他者のための愛であり、だからこそ「敵を愛せ」(マタイ福音書)ということにもなる、と主張する。
つまり、相手が愛するに値するもの、「私の価値観」に合致するものだから愛する、という自己中心的な愛ではなく、神を愛し、それに従う者として、自分個人の価値観などとは関係なしに、つまり謙遜に「他者」を愛するのが「キリスト教の愛」だと言うのである。

また、「情熱」的な愛は、他者そのものを愛さず、他者を偶像化し、その偶像を愛するがゆえに無制約で観念的だが、キリスト教の愛は、神であるキリストが受肉し、人間としてへり下ることによって、人間を救済する愛であるがゆえに、肉体を軽んじて、観念に舞い上がるようなものではない、地に足のついた「愛」だとされる。

そして著者は、「トリスタンとイズー」などの「騎士道物語」に見られる「宮廷的恋愛」としての「情熱」的な愛というものの出自を、キリスト教の異端であるカタリ派に見出す。

その当否はひとまず置くとして、このアイデアはなかなか面白いと思うし、あながちこじつけだけでもないだろうと評価することも出来よう。
だが、そのカタリ派的な信仰姿勢の影響を受けた、キリスト教神秘主義の有名人(聖人聖女)たちの「情熱」的な愛の表現を、「キリストを介してのものであるが故に」ということで、ただの「情熱」的な愛(カタリ派的な情熱)とは「中身が違う」と救済してしまうあたりに、党派的宗教信者の、ご都合主義的に自己正当化的な、限界を見ないわけにはいかない。
これほど頭の良い人でも、信仰が絡めば、自身の「ひいき目」を客観視することができないのだなと、あらためて思い知らされ、ため息をつかされるのだ。

なぜ、著者はここまでして「情熱」的なるもの、言い変えれば「過剰なもの」を否定しなければならなかったのであろう。
間違いなくそれは、キリスト教をその精神的基盤として構築された西欧世界が、その「情熱」的な熱狂によって、多くの「悪」、例えば「帝国主義的侵略戦争」や「民族浄化」などといったことを、現に為してきたからである。
つまり、著者は、普通に考えられている「キリスト教」から、その「不都合な部分」を切り捨てて、キリスト教の「無謬性」を守ろうと画策したのである。

一般には「キリスト教」の内に含まれるものとして考えられているものであろうと、それがキリスト教の無謬性に不都合なものなのであれば、理屈(難癖)を付けてでも、それを切り捨てればいい。
では、その「不都合な部分」とは何かと言えば、それが「情熱」なのだ。

教会の「正統教義」では、神とは人間を超絶した存在であり、人間にはとうてい知り得ないもの、ということになっている。したがって「神とつながるには、現世における仲保者である教会を通さなければならない」という、権威独占的な決まりとなっているのだ。
ところが、神秘主義者たちは、その個人的な「神への愛」において、神との「霊的な合一」を目指した。それはたしかに「純粋な信仰心」に発するものなのではあるが、しかし、その過剰性は、教会の権威にとってはつねに「危険なもの」とみなされ、正統教会の監視とコントロールの下においてのみ、その存在を許容されてきたのである。

つまり、カトリック的な正統教会というのは、いつでも「原則と例外」に「二股」をかけており、時と場合に応じてその「ダブルスタンダード」を使い分けることにより、その時々の危機をしたたかに乗り越えてきたのだ。
教会の教義が絶対だとして、正統教義への批判は厳しく禁じたものの、個人的な意見を持つことは許す、としてきた。つまり、教会に逆らわないかぎり、どんな存在でも、そのコントロール下においての存在は許し、状況に応じて、そのカード(アッシジのフランチェスコなど、個人的な聖性をもつ聖人たちの庶民的人気)を有効利用してきたのが、カトリックの正統教会なのである。

しかし、教会が、王権(世俗権力)をも従えて、世界を支配した時代はすでに終わり、キリスト教信仰はもっぱら、精神的な価値の基盤を意味するものと考えられるようになってくると、キリスト教世界におけるあらゆる精神的な問題、つまり「悪」もまたキリスト教由来のものと批判されることになるため、そうした「不都合な部分」を、あらためて「異端」と名づけること、つまり本書の場合「それは、じつは異端であるカタリ派由来のものであった」と責任転嫁することで、キリスト教の精神世界における無謬性を「虚構」的に擁護しようとしたのが、本書なのである。

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本書を、キリスト教の立場から書かれた〈愛の文化史〉だと思えば、つまり「一種の仮説」だという風にユルく理解すれば、「作品」としては、なるほどよく出来てはいるだろう。
しかし、著者の「党派的前提」に対する、私たちの「世俗的寛容」を除外して厳格に評価するならば、本書は、信仰というものの度し難さを痛感するための、極めて興味深い教材になるはずだ。

本書における「エロス対アガペ」という図式は、エロスを怖れるクリスチャンの「一人相撲(フィクション)」でしかない。
もともと、人間の中に一体的に備わっているもの(感情)を、「エロス」と「アガペ」という具合に二極に図式化し、「アガペ」というフィクションを、その困難性の故に「稀有のもの」であるとし、自分たちの「専売特許」であるかのように訴える。「エロスは通俗な愛(情熱)。アガペは神聖な愛」だと、ご都合主義的かつ手前味噌に訴えただけなのである。

しかし、それが人間とキリスト教会の現実にそぐわない「フィクション」だからこそ、司祭による「性的な児童虐待」などという「エロス」的な「過剰な情熱」が教会の中で陰微に蔓延し、それを隠蔽しなければならないという「現実」に立ち至りもしたのだ。

本書の、こうした強弁性については、多くの人々によって、すでに再々指摘されてきた。
「騎士道的恋愛」や「宮廷的恋愛」といったエロス的な情熱を、「異端であるカタリ派出自のものであり、文学的なロマンとはその末裔である」とする著者ルージュモンのユニークな指摘は、しかし、実証的な学者たちによって否定批判されてきたのだ。

そして、この露骨なまでの「カトリック的手前味噌による文化史」に、「常識的な批判」を加えたのが、人間のリアルを直視しようとした実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトルであったのは、ごく自然な成り行きであったと言えよう。
サルトルは、本書の、その「度しがたい党派性に基づくが故に、ユニークでもある」点に配慮して、寛容かつ皮肉に、次のように評したそうである。

『何はともあれこの書物の一読をすすめる。ふかい楽しみを味わえること請け合いである。そしてカタリ派が奇跡的にキリスト教徒を皆殺しにした(現実には不幸にしてその逆となったのだが)と仮定して、彼らの宗教が今日まで伝わっていたとしたなら、どういうことになったろうと、そんなことを空想せずにはいられなくなる。カタリ派は誠実な人々の集まりであった』
(本書「訳者あとがき」より、P364〜365)

カタリ派は、キリスト教会の、権力独占ゆえの「世俗的な堕落」を批判した、純粋主義的なキリスト教信者たちだった。
その信仰の純粋さゆえに、堕落した教会権威を批判し、その真っ当なる批判の権威において、教会権威から怖れられ、十字軍を差し向けられて、暴力的に皆殺しにされ、その主張を記した資料を焚やされ、証拠隠滅されて、歴史の闇に葬り去られた人たちであった。

しかしながら、仮にカタリ派が生き残り、キリスト教会が滅んでいたとしても、今の世の中に、そう大きな違いはなかったはずである。
というのも正統教会であれ、異端カタリ派であれ、それが有りもしない「神というフィクション」であり「妄想の体系」に依拠した存在(人間集団)である以上、決していつまでも「純粋な信仰という情熱」を保ちつづけることはことはできず、早晩、現在のカトリック教会のように「ダブルスタンダード」を使い分けて生き残りを図る、ありがちな「人間集団」になったであろうことは、想像に難くないからである。

しかし、事実はどうあれ、事実に興味のない「信仰への情熱」に燃えているキリスト教徒は、本書の描いた「自己正当化のフィクション」に満足すればいいし、それ以外の読者は、本書を、いまどき目にすることの少ない、露骨な「キリスト教的自己正当化の症例」として、じっくりと味わうとよいのではないだろうか。人間とは、斯様に度しがたいものなのかと。

何はともあれこの書物の一読をすすめる。ふかい楽しみを味わえること請け合いである。

初出:2019年9月13日「Amazonレビュー」

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