見出し画像

ヒューム 『自然宗教をめぐる対話』 : 困難な時代の 〈知的抵抗〉

書評:ヒューム『自然宗教をめぐる対話』(岩波文庫)

『 ヒュームは、無神論者・不信心者であるという風評によって、二度にわたって大学への就職の機会を棒に振っている。聖職者からの激しい個人攻撃も経験した。一八世紀のヨーロッパは啓蒙(文化)の時代と呼ばれているが、異端的とみなした人物や思想にはけっして寛容ではなく、社会的制裁は苛烈であった。』
(訳者「解説」より、P244)

つまり、ヒュームが生きた時代には、ニュートンなどの(今で言う)「科学者」であっても、まともな人間であれば、「有神論者」であり「キリスト教信者」であるのは、当然のことであった。したがって、ヒュームもまた「有神論者」であり「キリスト教信者」であったのだが、それをなかなか信じてはもらえなかった。

そもそも、この時代の「啓蒙」と「信仰」は、けっして矛盾するものではなかった。なぜならば、「有神論者」であり「キリスト教信者」であることが「当たり前」であった当時における「啓蒙」とは、「信仰を否定するもの」ではなく、「信仰の正しさを証す、叡智の光」であった(そうでなければならなかった)からである。

そして、そんな時代にあって、なぜヒュームが「無神論者・不信心者であるという風評」を立てられたのかと言えば、それは彼が「懐疑論者」であったからだ。つまり、今で言う「妄信=根拠不十分なままの無条件的信憑」を否定したからである。

しかしまた、今でなら「妄信」とされたことが、当時にあっては「論理的正当性をもった行為(としての信仰)」だと理解されていた。つまり、「啓蒙」と必ずしも矛盾しない態度だと理解されていた。
当時の人々が信をおいた「人間知性における論理性」とは、そういうものだったのであり、ヒュームが問題にしたのは、そうした「当時の論理性」が、けっして十分な根拠を持つものではないという、「人間知性の限界」に関する懐疑だったのである。

ヒューム自身は、自分を「敬虔なキリスト教徒」であり、敬虔であるからこそ「神の実在」や「信仰」について、どこまでも問いを立てて追及し、(現時点で)わからないものはわからないとするべきだ、というふうに考えたのだけれど、当時の知識人の多くは、そういう態度を「信仰心の薄さ」であったり「不信仰の正当化」でしかないと考えた。ヒュームのことを「あんなことを言っているけれど、本当は無神論者なんだろう。ただ、保身のために、ああいう言い方をしてるだけで、あいつの考え方自体は、完全に無神論者のものだ」という評価を下しがちだったのである。

こうした「評価」は、かならずしも間違いではないだろう。時代が「無神論」にもっと寛容であったならば、ヒュームも無神論者になっていたかもしれない。
しかしながら、当時の彼が、「有神論」を信じようとしていた人であったこともまた、事実なのである。

そして、こんなヒュームによって書かれ、生前にはついに刊行できなかった「自然宗教(教典などの特別な啓示によらず、自然世界そのものから神の実在を読みとる信仰)」をめぐる「対話篇」が、本書である。

本書では、正統派信仰者のデメア、懐疑主義のフィロ、自然宗教の信者クレアンティスの3人が、正しい信仰や神の実在についての議論をくりひろげるが、著者のヒュームが、自身の意見を韜晦しているため、途中までは、ヒュームの本音がきわめて窺いにくいものとなっている。
3人の対話者は、お互いの「信じ方=信仰姿勢」の問題点をさかんに批判し合うのだけれども、結局は3人とも「有神論者」であり「キリスト教信者」なので、そのやりとりには隔靴掻痒の感が否めない。「そこまで言うのなら、神なんて実在しないと言っちゃえよ」とツッコミを入れたくなるような陳述も少なくなく、それでも、ああでもないこうでもないといった議論が延々とつづいたあとに、突然、フィロがまとまった本音を語りだして、これがおおよそヒュームの考え方に近いのだなということが、読者にもやっとうかがえる、といったような構成になっている(もっとも、最後の最後で、3人の対話を描写していた人物が「いちばん説得力があったのはクレアンティスだった」と付け加えて、また煙に巻いたりするのだが)。

結局のところ、ヒュームは「人間知性」というものへの「懐疑」の必要性(=人間知性の限界認識の必要性)を語り、「人間知性」に依拠した「信仰」は、結局のところ完璧なものではあり得ないと自覚すべきだ、というかたちで、「信仰」を擁護しているとも、批判しているとも言える、微妙な立ち位置に立っている。
彼自身としては、それはあくまでも「誠実な信仰態度」だったのであろうと思うし、そこは信じても良いと思うのだが、しかし、彼がこうした立場を選ばなければならなかったのは、やはり「時代の制約」だとしか、私には思えない。その意味で、やはり「宗教」の罪深さというのは、否定し難いものなのである。

初出:2020年1月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文