カール・ラーナー 『あなたの兄弟とは誰か』 : 二つのカトリック
書評:カール・ラーナー『あなたの兄弟とは誰か』(中央出版社)
カール・ラーナーといえば、かの「第2バチカン公会議」を理論的に主導した、リベラルな神学者として知られるカトリックだ。本書にも、そうした「寛容さ」が、いかんなく発揮されている。
翻訳が生硬なので、少しわかりにくいかもしれないが、決して難しいことを言っているわけではない。
本書は、「兄弟愛」を演題として与えられた講演を下敷きにしているため、「兄弟愛」という言葉が前に出てくるが、ラーナーにとっては『神への愛と隣人への愛がひとつである』のだから、「兄弟愛」もまた「隣人愛」と別のものではなく、ともに「神への愛」の別形態にすぎない、という話なのだ。
つまり「隣人愛=兄弟愛」とは、「神への愛」を表現するための「手段」や「道具」ではなく、それそのものが即「神への愛」の実現形態であり、それは「全面的な生活実践」そのものであり、極めて過酷な要求に思えるかもしれないが、しかし、それこそが「神への愛」であるからこそ、人は『このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。』ということになる。
で、もちろん『神への愛と隣人への愛がひとつである』のだから、キリスト者の愛の実践としての生活の対象は「すべての人」でなければならない、というのは論を待たない。「神の愛」は、人を分け隔てするようなちっぽけなものではなく、すべてを覆い尽くす広大なものなのである。一一 これが、ラーナーのキリスト教であり、彼の考える「神の愛」とはこういうものなのだ。
しかし、このような考え方は「許しがたい異端である」と考える人たちもいる。
いわゆる「保守派」であり、「正統主義者」などと自称する人たちだ。
無論、ラーナーは、こういう人たちの信仰理解は誤ったものだと批判する。
『信仰をもたない仲間』とは、まだ「キリスト教徒ではない、すべての人びと」であり、すべてを包み込む「神の愛」においては、そうした非クリスチャンもまた「仲間」であり「兄弟」である、ということを意味している。
洗礼を受けたクリスチャンだけが「神の愛」の対象ではないのだし、「兄弟愛」や「隣人愛」の対象であってはならない。だから、イエス・キリストの弟子たるキリスト教徒は『信仰をもたない仲間』に対しても、最大限の「愛」の表現として、その信仰(福音)を語り伝える努力をしなくてはならない。
そしてその行為は「神への愛」において自由なものであるはずなのだから『伝統的な宗教的表現形式を無条件に、また排他的に固執』する必要はないし、それで『教会の信仰の実体をあいまいにしたり、失うという危険がある』などという、ケチな話ではない。「神の愛」とは、もっと強く広大なものなのだ、ということなのである。
したがって、保守主義者が「神への愛(=隣人愛=兄弟愛)」を置去りにしてまで、無闇に固執する「伝統」や「原理原則」というのは、じつのところ『守銭奴が一枚の金貨にしがみつくよう』な態度でしかない。
下の引用文の「殉教者」を「保守主義者」、「正義」を「伝統主義」と読み替えてもらいたい。
「隣人」や「兄弟」よりも、「伝統(主義)」や「原理原則」を重視する保守主義者というのは、結局のところ「神への愛」ではなく「自分への愛」を重視しているのにすぎない。だからこそ、「正統」つまり「正義」ということを、ことさらに強調したがるのである。
保守主義者は、「神への愛」としての「隣人愛」がもたらしてくれる『自分自身から解放されているというあり方の最高の自由』を求めず、ただ「正統である自分という、ケチな自己像」にしがみついているだけなのである。
そして、そういう観点から、私の前の「二人のレビュアー」を見ると、カトリックというものの実態がよくわかる。
一方は、ラーナーと立場を同じくする人であり、つまり「小さい者(凡人)」たらんとする立場である。
そして、もう一方は「伝統」主義者であり「正統」主義者を自認して、「小さき者」たらんとする人を「異端」呼ばわりするような「エヴァンジェリカル」である。
彼らは、世が世なら「異端」を焚刑に処して殺すことこそ「神への愛」だと信じた(振りをした)人たちである。
そして、彼らが真に「伝統」主義者なのであれば、「異端など焚刑にすればよい」と、現代の今この時においても、その信仰において、本気で考えているような人たちでなければならない、ということになる。それこそが「伝統保守」だからだ。
また、事実そんな彼らだからこそ、例えばアメリカの「福音主義者」は、移民を排斥する(見殺しにして平気な)、「隣人愛」の欠片も無い、トランプ大統領の支持基盤にもなれるのである。
私は、キリスト教徒ではないけれど、その立場から見れば、今どき、同信の兄弟を「異端」呼ばわりするようなキリスト教徒というのは、全き「狂信の徒」としか評価のしようがないのだが、クリスチャンの皆さんは、どうお感じなのだろうか。
初出:2019年8月2日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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