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カール・ラーナー 『あなたの兄弟とは誰か』 : 二つのカトリック

書評:カール・ラーナー『あなたの兄弟とは誰か』(中央出版社)

カール・ラーナーといえば、かの「第2バチカン公会議」を理論的に主導した、リベラルな神学者として知られるカトリックだ。本書にも、そうした「寛容さ」が、いかんなく発揮されている。

『 神への愛と隣人への愛がひとつであることが本当に理解されるならば、そのとき隣人愛は、その局限された、制御しうる成果という点で個別的な要求というその位置から、全面的な生活実践の地位に移っていく。全面的な生活実践においては、私たちは全体として全面的に要求されているのであり、また過大な要求をされているのであるが、しかしながら、このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。その際私たちが、隣人愛と兄弟愛とを、根本においては同じことを意味している二つの語として解するならば、また人の心をその最大の課題から免除してくれるような客観的行為の要請としての兄弟愛という語が、隣人愛という語よりも誤解されることが少ないという理由から、兄弟愛という語のほうを好んでそう言うならば、そのときは、神への愛と必然的にひとつになった兄弟愛という語によって、人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている、と冷静に言うことができよう。』(P49〜50)

翻訳が生硬なので、少しわかりにくいかもしれないが、決して難しいことを言っているわけではない。

本書は、「兄弟愛」を演題として与えられた講演を下敷きにしているため、「兄弟愛」という言葉が前に出てくるが、ラーナーにとっては『神への愛と隣人への愛がひとつである』のだから、「兄弟愛」もまた「隣人愛」と別のものではなく、ともに「神への愛」の別形態にすぎない、という話なのだ。
つまり「隣人愛=兄弟愛」とは、「神への愛」を表現するための「手段」や「道具」ではなく、それそのものが即「神への愛」の実現形態であり、それは「全面的な生活実践」そのものであり、極めて過酷な要求に思えるかもしれないが、しかし、それこそが「神への愛」であるからこそ、人は『このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。』ということになる。

で、もちろん『神への愛と隣人への愛がひとつである』のだから、キリスト者の愛の実践としての生活の対象は「すべての人」でなければならない、というのは論を待たない。「神の愛」は、人を分け隔てするようなちっぽけなものではなく、すべてを覆い尽くす広大なものなのである。一一 これが、ラーナーのキリスト教であり、彼の考える「神の愛」とはこういうものなのだ。

しかし、このような考え方は「許しがたい異端である」と考える人たちもいる。
いわゆる「保守派」であり、「正統主義者」などと自称する人たちだ。

無論、ラーナーは、こういう人たちの信仰理解は誤ったものだと批判する。

『信仰をもたない仲間の間で宗教が理解され、受け入れられるという見込みが多少ともあるようなときに、当然私たちは良心的に語るように努めなければならない。これは非常にむずかしいことであって、教会においては十分に訓練されていない。なぜなら教会はあまりにも伝統的な宗教的表現形式を無条件に、また排他的に固執しなければならないと思いこんでおり、そうしないと教会の信仰の実体をあいまいにしたり、失うという危険があるからだと思いこんでいるからなのである。私たちはまた、気むずかしい心の保守反動主義者の自信たっぷりな口調で語ってもならない。このような反動主義者は、神を自分のブルジョワ的な財産の防御のために乱用するという危険のうちにあるのである。』(P88〜89)

『信仰をもたない仲間』とは、まだ「キリスト教徒ではない、すべての人びと」であり、すべてを包み込む「神の愛」においては、そうした非クリスチャンもまた「仲間」であり「兄弟」である、ということを意味している。
洗礼を受けたクリスチャンだけが「神の愛」の対象ではないのだし、「兄弟愛」や「隣人愛」の対象であってはならない。だから、イエス・キリストの弟子たるキリスト教徒は『信仰をもたない仲間』に対しても、最大限の「愛」の表現として、その信仰(福音)を語り伝える努力をしなくてはならない。
そしてその行為は「神への愛」において自由なものであるはずなのだから『伝統的な宗教的表現形式を無条件に、また排他的に固執』する必要はないし、それで『教会の信仰の実体をあいまいにしたり、失うという危険がある』などという、ケチな話ではない。「神の愛」とは、もっと強く広大なものなのだ、ということなのである。

したがって、保守主義者が「神への愛(=隣人愛=兄弟愛)」を置去りにしてまで、無闇に固執する「伝統」や「原理原則」というのは、じつのところ『守銭奴が一枚の金貨にしがみつくよう』な態度でしかない。

下の引用文の「殉教者」を「保守主義者」、「正義」を「伝統主義」と読み替えてもらいたい。

『殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。』
(笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)

「隣人」や「兄弟」よりも、「伝統(主義)」や「原理原則」を重視する保守主義者というのは、結局のところ「神への愛」ではなく「自分への愛」を重視しているのにすぎない。だからこそ、「正統」つまり「正義」ということを、ことさらに強調したがるのである。
保守主義者は、「神への愛」としての「隣人愛」がもたらしてくれる『自分自身から解放されているというあり方の最高の自由』を求めず、ただ「正統である自分という、ケチな自己像」にしがみついているだけなのである。

そして、そういう観点から、私の前の「二人のレビュアー」を見ると、カトリックというものの実態がよくわかる。
一方は、ラーナーと立場を同じくする人であり、つまり「小さい者(凡人)」たらんとする立場である。

『弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
(「ルカによる福音書」より)

そして、もう一方は「伝統」主義者であり「正統」主義者を自認して、「小さき者」たらんとする人を「異端」呼ばわりするような「エヴァンジェリカル」である。

彼らは、世が世なら「異端」を焚刑に処して殺すことこそ「神への愛」だと信じた(振りをした)人たちである。
そして、彼らが真に「伝統」主義者なのであれば、「異端など焚刑にすればよい」と、現代の今この時においても、その信仰において、本気で考えているような人たちでなければならない、ということになる。それこそが「伝統保守」だからだ。
また、事実そんな彼らだからこそ、例えばアメリカの「福音主義者」は、移民を排斥する(見殺しにして平気な)、「隣人愛」の欠片も無い、トランプ大統領の支持基盤にもなれるのである。

私は、キリスト教徒ではないけれど、その立場から見れば、今どき、同信の兄弟を「異端」呼ばわりするようなキリスト教徒というのは、全き「狂信の徒」としか評価のしようがないのだが、クリスチャンの皆さんは、どうお感じなのだろうか。

初出:2019年8月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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