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カール・ラーナー 『現代に生きるキリスト教』 : 「現世」をも 変えていく力

書評:カール・ラーナー『現代に生きるキリスト教』(エンデルレ書店・1965年刊)

カール・ラーナーと言えば、「第2バチカン公会議」の神学顧問として、同会議を主導したリベラルなカトリック神学者として知られる人である。
「Wikipedia」によると、次のようになる。

カール・ラーナー(Karl Rahner、1904年3月5日 - 1984年3月30日)は、ドイツ出身のカトリック教会の司祭、イエズス会員、20世紀を代表する神学者の一人。宗教的包括主義を唱えた。
人物
フライブルク出身のカール・ラーナーは、1922年、イエズス会入会。1932年、司祭叙階。第2バチカン公会議においてイヴ・コンガールらと共に主導的な役割を果たした。カトリック信仰を現代的な感覚で理解し、つねに人間という視点を保持しながら解釈したことで知られる。また、「無名のキリスト者」という概念を用いて、他宗教信者への神の救いの可能性を示唆し、他宗教信者への一定の理解を示した。1973年ジークムント・フロイト賞受賞。

1984年3月30日、オーストリアのインスブルックで死去した。

主な著作(日本語版のあるもの)
(※ 以下の引用では、訳者、出版社等は省略した)
(1)『現代に生きるキリスト教』1965年
(2)『第二バチカン公会議 あらたな事始め』1966年
(3)『教会聖職の真義について』1967年
(4)『この世界を愛する信仰』1967年
(5)『第二バチカン公会議公文書解説』ヘルベルト・フォルクリムラ共著・1967年
(6)『カトリック司祭の独身制について』粕谷甲一訳・1968年
(7)『現代キリスト教思想叢書 13 (ラーナー,グァルディーニ)』「自由としての恩寵(抄)」収録・1974年
(8)『人間の未来と神学』1975年
(9)『キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論』1981年
(10)『めざめて祈れ』1982年
(11)『あなたの兄弟とは誰か』1985年 』

(Wikipedia「カール・ラーナー」

今回取り上げるのは、もちろん(1)で、翻訳刊行年の1965年とは、1962年から1965年まで開催された「第2バチカン公会議」の終了した年である。

日本でラーナーを注目させることになった「第2バチカン公会議」とは、カトリック教会のリベラル路線を推進した点において、キリスト教史を画する公会議であり、現在、当たり前に書店販売されている「新旧共同訳 聖書」が存在しうるのも、この会議があってればこそ。この公会議で決定されたエキュメニズム(分裂したキリスト教の諸教派を一致させようとする運動)を受けて実現したものの一つなのである。
なお、「新旧共同訳」の「新旧」とは、無論「新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)」という意味。
元を糺せば、プロテスタントとは、腐敗堕落した(今で言う)カトリック教会の中に生まれた「(ルターなどに始まる)改革派」であり、これを「教会」(主流派)が「異端」認定して破門したところから生まれたものだ。したがって、エキュメニズムは、当時の「カトリック教会」の誤りを公式に認めるものとして、重大な意味を持つものなのである。

そんなわけで、かつての「教会主流派」たる、今のカトリック教会を理解するためには、「第2バチカン公会議」がどういうものであったのかというのは、最低限の知識として持っていなければならないことなのだが、そんな公会議を、神学(理論)的に支えた代表的な神学者が、カール・ラーナーなのだ。

ちなみに、カトリックにおいても現在当たり前のように行われている、各国語によるミサ(典礼・祭儀)も、この会議での決定を受けたもので、それまでは世界の大多数のカトリック教会では、正統的なものとして「ラテン語典礼」が行われていた。

第2バチカン公会議(だい2バチカンこうかいぎ、ラテン語: Concilium Vaticanum Secundum、1962年-1965年)は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会の公会議である。

この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。』

(Wikipedia「第2バチカン公会議」

そんなわけで、カール・ラーナーは、現代のカトリックを、リベラルな方向へと導いた偉大な神学者なのだが、ラーナーの神学は「哲学的」と評されるだけあって、決して理解しやすいものではない。
私自身、翻訳書としてはラーナーの主著になるであろう(9)『キリスト教とは何か 現代カトリック神学基礎論』(菊判640頁)を読み始めたものの、ほとんど理解不能で、100頁にとどかず挫折したままになっている。

そもそも「カトリック神学」というのは、「神の実在」(「実在」という言葉をどう理解するのかは別にして)を大前提とするものなのだから、当たり前に「形而下的」「唯物的」という意味においての「論理的」には、理解することができない。
言い換えれば、「神学」とは「目にも見えなければ、触ることもできないもの(素粒子などとは違い、どんな機器を使っても観測不能なもの、という意味。つまり、実在するという証拠の無いもの)」が「実在する」と信じた上で、それを徹底して考え抜こうとするものなのである。
言い換えれば、「心」や「時間」と同様の、「形而上」の存在のひとつとして「神」を考えるのが「神学」であり、それを「哲学」として厳密に思考しようとするのが、哲学的神学なのだ。

したがって、これが理解しやすいものであるわけがないし、ましてや私のように、「心」や「時間」というものでさえ、「そのように感じられているもの」でしかなく「実在するわけではない」と考える「唯物論者」にとっては、当然のことながら、「神学」の大前提である「神の実在」など実感できるわけもないのだから、そもそも理解できるわけがない、とも言えるだろう。つまり「神学」とは、キリスト教徒以外には、本質的には理解できないものなのである。

ただし、私にラーナーの哲学を理解できる部分があるとしたら、それは、彼らカトリックの側が「旧来のまま」では、もはやその信仰は衰退する一方なのだから、「なぜ、それまで正しいとされてきた神への信仰形式が通用しなくなったのか?」という、当たり前の現実的疑問について、真摯に反省した上で、方向性を改めなければならないという、その危機意識においてであろう。
こうした信仰的な危機は、「数字」にも明らかであり、それまでも否認するのならば、もはやその信仰とは、現実とは無縁な「夢物語」だと断じて良いのである。

したがって、こうした「現実としての信仰の危機」に真摯に向き合い、改革すべき方向性を理論的(神学的)に指し示したのが、カール・ラーナーであり、その点で、「信仰」を同じくしない私でも、ラーナーの示す方向性については、「真っ当に論理的」だと共感しうるのである。

さて、そんなカトリック教会の「改革派」であり、「リベラル派」と呼んでも良いであろうラーナーの、キーワードとなるのが、上の「Wikipedia」でも紹介されている「無名のキリスト者」である。

「無名のキリスト者」とは、「キリスト者とは呼ばれないキリスト者」という意味であり、要は、イエス・キリストの示した方向性をもって生きている者は、異教徒であろうと無神論者であろうと、内実としては「キリスト者」である、という意味だ。
それが「十全なキリスト者ではないといても」という「条件付き」ではあるものの、「十全ではない」のは「洗礼を受けた、正式なキリスト者」だって、同じことなのだから、という意味でもある。

しかし、言うまでもなく、ラーナーのこうした「現代性」が、「保守派=守旧派」からは「異端」だと見られたのは、論をまたない事実である。
だからこそ、「第2バチカン公会議」の後には、「保守派」の巻き返しが始まり、その(既得権益墨守的な態度の)結果、「司祭による信者師弟に対する性的虐待事件」や「バチカン銀行資金洗浄事件」などがついに表面化して、保守派のリーダーのひとりであった前ローマ教皇であるベネディクト16世が異例の生前退位をし、替わって、カトリック教会の改革を掲げる現在のフランシスコが教皇に就任することになる。
つまり、「第2バチカン公会議」の後の一時期をのぞけば、やはり保守派が、長らくカトリック教会を牛耳っていたし、現在のフランスシコ時代にあっても、保守派の抵抗が根強いという事実は、フランシスコの発言などからも容易に窺い知ることのできる事実なのである。

もちろん、「保守派」というのは「権威主義者」であるからこそ、「教皇不可謬説」といったものを正式な教義にもしてしまったくらいなのだが、そのせいで、表立ってフランシスコに異を唱えるようなことはしない。逆に、教皇への恭順を積極的に語ったりもするが、それは彼らの「人間としての本音」ではないのだ。

そんな一例としては、1975年に邦訳の刊行されたラーナーの(8)『人間の未来と神学』の訳者で、現在では、トマス・アクィナスの研究者として知られる、稲垣良典などがいる。日本のトマス研究者は、総じて「保守派」だと見ていい。

ともあれ稲垣は、現在では典型的な保守派なのだが、「第2バチカン公会議」の後の一時期だけは、そうではなかった。この事実は、下のレビューに示したとおりである。
稲垣の場合、リベラルから保守になったのではなく、もともと保守だったものが、「第2バチカン公会議」の後の一時期だけ、リベラルに日和って、その後、当たり前に、地金をのぞかせるようになったと見るべきなのである。

 ○ ○ ○

さて、前置きが長くなってしまったが、これは、最低限これくらいのことは知っておいてもらわないと、ラーナーの神学について説明しても、それが意味することの「重さ」を理解してもらえないからである。
以下では、本書で語られることの中心的な認識の部分に、話を限定して解説したい。

本書に収められているのは、次の小論文と講演記録である。

(1)キリスト教と「新しい人間」
(2)今日における信仰の可能性について
(3)託身の神学について
(4)教会信心について教理神学的傍註
(5)愛のおきてとその他のおきて

さて、本書の、あるいはラーナーの、この時期の基本的な構えを示すものとして、(1)の論文の(前説を除く)冒頭部分「(一)」の章を、まず全文紹介した上で、それに解説を付すことにしよう。

言うまでもなく、これらの収録論文は「第2バチカン公会議」の前、またはその時期に書かれたものであり、公会議を主導したラーナーの構えが示されていると見て良いものである。
以下の訳文では、現在では通常「への」と表記するところを「えの」と表記している)

『 キリスト教は、人間の現世的未来について何らの予言も綱領も明白な処方箋も、もってはいない。キリスト教はもともと、この人間は、現世的未来をもっていないことを知っており、したがって人間は保護もうけずに現世的未来のくらやみの冒険のうちに歩みつづけねばならぬことを、知っている。キリスト教の終末論は、現世的理想郷ではなく、現世的任務も目標も課しはしない。いいかえれば、キリスト信者は、自分の現世生活そのものについて、計画の苦悩や暗中模索の重荷をとりのぞいてくれるような何らの具体的指示をもっていない。信者は本性と福音書との倫理法則をもってはいるが、これらの一般原理は、自分で具体的な至上命令に変えねばならないものであり、これらの原理を倫理的行為という眠ったようにじっとしている素材に適用するばかりではなく、一定の行動えの決定、さまざまな可能性の選択を意味する。つまりいずれもこれらの一般原理から迷わずひきだせるようなものではない。こうして人間が自分と環境とを変え、しかもこの変化自身も予見できない性格、暗中模索のこころみ、歩みの性格をおびているので、奇妙なことに、計画は予見できないものを減らすどころか、それだけ計画の範囲をひろげさせる。そこでキリスト教のかかげる原理には、前代のキリスト教の夢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課することになる。つまり信者と教会とにとっての骨の折れる長い順応過程を、これら原理に求め、とにかくそれを使いこなそうとするわけである。
 予見できない未来えのこの歩みが、キリスト教そのものにとってつまらぬものであり、教会および個人と民族とのキリスト教的生活としてのキリスト教にとって、重要ではないなどというつもりは決してない。真に遂行されたキリスト教は、福音書の使命と、一方ではキリストの恩寵とのその場その場での総合であり、他方では福音を生きぬくべき具体的状話との綜合にほかならない。この状況はいつも新らたな驚くべきものである。だからこそ、現世における信者のキリスト教的任務は、ほんとうにむずかしいもので、あるいはあれよあれよという間に、あるいは苦悩・徒労・失敗のうちに、または新奇なものから身を遠ざけそこなったり、やたりに保守的懐旧の念にかられたり、その反対に全く魅了されてしまったりして、骨を折ってその解決を決めねばならない。こうして信者は、現世的任務のいまひらけんとする未来のまえに、驚きかつ魅了されつつ立ち、この未来を歓迎しその実現する役目を自覚している他のすべての人人と兄弟のように交わりながら、行動と批判とに召しだされている。現世的状況の克服が、任務として課せられ、しかも永遠の生命が時間のうちにも作用するようにすべきだから、この任務は本来キリスト教的なものである。だから、現在の信者が、現世的未来の問題性にあまり注意をはらわず、そんなことは非キリスト教徒に一任しておけばよいくらいに考えているのは、嘆かわしいことといわねばなるまい。
 福音書はこういう企画を提供しもしないし、また提供しようともしないし、また教会も明確な義務的のものとしてこういう企画を宣示すべきではないということは、正しい考えでもあり、また非常に重要な考えでもある。だからといって、どんな未来計画でも、キリスト教の精神と生活、キリスト教の守る人間の本性と両立できるから、信者はその具体的生活において、これらの具体的計画に対して何らの任務も義務も負うものではない、ということには決してならないのである。信者は信者として、教会が教会としてもたざるひとつの任務を、十分にもち得る。そして信者は、これらの未来計画、永続的福音の抽象的計画をとびこえたこの至上命令を、勇敢に明確に心の中に把握しないで、福音書の精神を、これら未来計画、現世的見通しの危険の自衛的批判によって、ただ防衛するにとどまる感がある。
 とにかく信者は信者として、未来はどうなるか、どう見透すべきかという明確な処方箋を、福音書からえることはできない。信者はこの地上では巡礼者として、暗中模索の冒険の旅路をたどるものであり、この地上の未来を計画する他の人々と兄弟の縁を結んでいるものである。自分自身をも計画する者となり、すでに大宇宙機構がかなりはっきりと目指すばかりか、もうそこに向いはじめた場所(精神と自由という名でよばれている)に達しようとする人々の誇りを察知することが十分にできるはずである。』(P12〜16)

引用文中に『前代のキリスト教の夢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課することになる。』とあるとおり、ここに書かれているのは、これまでの当たり前なキリスト教徒(クリスチャン)にとってさえ『驚くべき任務』を示しているのだが、当然のことながらそれは、ラーナー個人が課するものではなく、もともとキリスト教がもっていたものに他ならないのだと語っている。
しかしこれは、「保守派」からすれば、「それまでには無かった、新たな聖書解釈」として「異端」だということになるだろうし、神学には詳しくない一般信者にとっても、耳慣れない、驚くべきことを語っているということにもなる。『前代のキリスト教』が語っていたような「洗礼を受けて、教会の指導どおりの敬虔な生活さえしていれば、(それ以外の、非信仰者たちとは違って)あなたたちだけは、天国に行けますよ」ということにはならないと、そうラーナーは語っているのである。そんなものでは、現代においては、まったく不十分であると。

(※ この「ヴィガノ・ノート」は、匿名ゆえに、とてもわかりやすい「カトリック保守派」である。内実は「宗教ネトウヨだと、容易にご理解いただけよう)

そんなわけで、ラーナーがここで語っていることは、カトリック信者が読んでも、すぐには理解できないような話である。
カトリック信者が、これまでは「カトリック信仰とは、こういうものだ」と思い、非信者の私たちも「カトリック信仰とは、おおよそそういうものだ」と思っていたようなこととは、かなりかけ離れたことがここでは語られているので、カトリック信者を含めて、多くの人には、この文章をすっと理解することができない。「まさか」そんなことを言うとは思わないからだ。
したがって、ここからはしばらく、上の文章を区切って、少し詳しく解説していこう。

(a)『キリスト教は、人間の現世的未来について何らの予言も綱領も明白な処方箋も、もってはいない。キリスト教はもともと、この人間は、現世的未来をもっていないことを知っており、したがって人間は保護もうけずに現世的未来のくらやみの冒険のうちに歩みつづけねばならぬことを、知っている。キリスト教の終末論は、現世的理想郷ではなく、現世的任務も目標も課しはしない。いいかえれば、キリスト信者は、自分の現世生活そのものについて、計画の苦悩や暗中模索の重荷をとりのぞいてくれるような何らの具体的指示をもっていない。』

そのままである。
「キリスト教は、この現実世界の未来については、何もビジョンをもっていないから、こうすれば明るい未来が開けますよなどという予言や綱領や処方箋を示すことはできない。したがって、洗礼を受けたカトリック信者であったとしても、この現世においては、何ら特別扱いはされず、なんの保証も与えられていない。つまり、幸せに生きて、幸せに死ねるという保証など、神は与えてくれていない。
キリスト教の終末論、つまりキリスト教の示す、最後はこうなりますという未来図とは、現世の先に天国が待っていますよといった話ではなく、現世とは隔絶した場所、現世の終わりの後の話であり、現世の未来ではないのだ。だから、天国へ行くための、現世における任務や目標が示されるわけではないし、おのずと、そうした暗中模索の苦しみを取り除いてくれるような、具体的な指示などしてくれないし、持ってもいない。」一一と、こういう話である。

これは実に驚くべきではないか。「キリスト教」というくらいだから、何か(現世的にも)良いことを「教えてくれる」ものだと思いがちだし、教えてくれるとしたら、それは究極の幸せたる「天国入りのための(現世における)方法」だと、普通はそう思うだろう。実際、キリスト教では、今も昔もそう思われているし、私たち非信者も、おおよそそんなことなのだと思っているのだが、ラーナーはそれを否定しているのだ。
要は、キリスト教とは、現世を超えたところのビジョンを語り、そこへと至れるように頑張りなさいとは言っても、そのための現世的な方法については、何も示していないというのだ。もちろん、最低限のことは示すけれども、それだけでは全然不十分だと言うのである。

だから、「保守派」が反発したり、それまでの信者が「話が違うじゃないか」と怒り出すのもわからない話ではないのだが、それでもラーナーは、キリスト教の考え方からすれば、これまでの考え方の方が「現世的利益」に目の眩んだ、誤った理解だったのだと言う。
そんな、主体性もない、思考停止の従順さで、福音の示したものを実現できるはずなどないし、現にそうなってしまっているではないかと、そういうことであろう。

(b)『信者は本性と福音書との倫理法則をもってはいるが、これらの一般原理は、自分で具体的な至上命令に変えねばならないものであり、これらの原理を倫理的行為という眠ったようにじっとしている素材に適用するばかりではなく、一定の行動えの決定、さまざまな可能性の選択を意味する。つまりいずれもこれらの一般原理から迷わずひきだせるようなものではない。』

「キリスト教信者は、その人間的な本性としての善性や、福音書の説く倫理法則はもっているけれども、それはあくまでも、キリスト教徒における一般原則論であって、信者個々がなすべきことを説明したものではない。つまり、信者個々は、そうした原則論を、自分の生きる現実において、具体的にどのように反映させ展開させていくのかを、自分の頭を使って考え、自分の体を使って実践しなければならない。したがって、言われたことだけを墨守しているような態度は間違いで、ひとつの問題にどう対応するかの答は、人それぞれにおいて、さまざまな選択とその可能性に開かれているため、万人に通用する正解などというものは存在しないのだ。」

(c)『こうして人間が自分と環境とを変え、しかもこの変化自身も予見できない性格、暗中模索のこころみ、歩みの性格をおびているので、奇妙なことに、計画は予見できないものを減らすどころか、それだけ計画の範囲をひろげさせる。そこでキリスト教のかかげる原理には、前代のキリスト教の夢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課することになる。つまり信者と教会とにとっての骨の折れる長い順応過程を、これら原理に求め、とにかくそれを使いこなそうとするわけである。』

「このようにして、キリスト教徒は、個々が最善を尽くして、この現実に対して最善の働きかけをしていくわけだが、だからと言って、単純に、それでこの世がだんだんと良くなり、整理されてわかりやすくなるというほど単純な話ではなく、むしろ、いろいろ働きかけるからこそ、事態は複雑多岐に変化してゆき、これまでの単純な対応では済まなくなって、キリスト教徒の苦労や苦悩も単純なものではなくなるわけだ。それでもキリスト教徒は、この現世の中で、その人間的善性と福音の指針にしたがって、新たな技術などに対しても、それを使いこなそうとしないわけにはいかないのだ。」

(例えば、「原子力」あるいは「遺伝子操作」について、聖書は正解を与えてはくれないが、だからと言って、クリスチャンは関与しなくても良いということにはならない。)

つまり、キリスト教徒になったから「楽ができる」とか「自分たちだけが救われる」といったことではなく、むしろ福音の示すところを知っていればこそ、その現世における使命は、より多岐にわたって重いものとなっていくことだろう。
だが、その使命をキリスト教信者が担わないで、誰が担うのか、ということだ。福音の指針を知らない者に任せておけるとでも思うのか、ということなのである。

(d)『予見できない未来えのこの歩みが、キリスト教そのものにとってつまらぬものであり、教会および個人と民族とのキリスト教的生活としてのキリスト教にとって、重要ではないなどというつもりは決してない。真に遂行されたキリスト教は、福音書の使命と、一方ではキリストの恩寵とのその場その場での綜合であり、他方では福音を生きぬくべき具体的状話との綜合にほかならない。この状況はいつも新らたな驚くべきものである。だからこそ、現世における信者のキリスト教的任務は、ほんとうにむずかしいもので、あるいはあれよあれよという間に、あるいは苦悩・徒労・失敗のうちに、または新奇なものから身を遠ざけそこなったり、やたりに保守的懐旧の念にかられたり、その反対に全く魅了されてしまったりして、骨を折ってその解決を決めねばならない。こうして信者は、現世的任務のいまひらけんとする未来のまえに、驚きかつ魅了されつつ立ち、この未来を歓迎しその実現する役目を自覚している他のすべての人人と兄弟のように交わりながら、行動と批判とに召しだされている。現世的状況の克服が、任務として課せられ、しかも永遠の生命が時間のうちにも作用するようにすべきだから、この任務は本来キリスト教的なものである。だから、現在の信者が、現世的未来の問題性にあまり注意をはらわず、そんなことは非キリスト教徒に一任しておけばよいくらいに考えているのは、嘆かわしいことといわねばなるまい。』

「こうした、明確なビジョンの示されていない現世的な労苦が、つまらないものだとか、キリスト教信仰とは無関係なものだなどということではない。真のキリスト教とは、もともと、そういう原理と現実的実践との総合にあるものなのだ。だから、現世におけるキリスト教的任務というものは、本当に困難なものであり、失敗や苦労も多い。けれども、われわれカトリック信者は、新しい事態との直面を避けようとしたり、昔は良かった式の現実逃避に陥ったり、またその逆に、新しいものの魅了されてしまったりしながらも、福音の指針を見失うことなく、問題な立ち向かわなければならない。キリスト教信者は、今開かれんとする未来の前で、驚きかつ魅了されながら、こうした未来を開こうと努力している、信者以外の人たちと行動を共にし、忌憚なく語り合わなければならない。なぜなら、未来を開くというのは、もともとはキリスト教的な使命であるからなのだ。しかし、そんなことはキリスト教信仰には関係ないという態度の信者が少なくないのは、何とも嘆かわしいことである。」

キリスト教徒は「宗教屋」ではなく、むしろこの現世の前衛なのだ、だからこそ苦労も多いのだが、それは誇るべき苦労なのだ、といったことであろう。

(e)『福音書はこういう企画を提供しもしないし、また提供しようともしないし、また教会も明確な義務的のものとしてこういう企画を宣示すべきではないということは、正しい考えでもあり、また非常に重要な考えでもある。だからといって、どんな未来計画でも、キリスト教の精神と生活、キリスト教の守る人間の本性と両立できるから、信者はその具体的生活において、これらの具体的計画に対して何らの任務も義務も負うものではない、ということには決してならないのである。信者は信者として、教会が教会としてもたざるひとつの任務を、十分にもち得る。そして信者は、これらの未来計画、永続的福音の抽象的計画をとびこえたこの至上命令を、勇敢に明確に心の中に把握しないで、福音書の精神を、これら未来計画、現世的見通しの危険の自衛的批判によって、ただ防衛するにとどまる感がある。』

「このように、福音書は、信者に対して、具体的な指示を示しているわけではないし、教会が、ああしろこうしろなどというわけでもないというのは、まったく正しいし、重要なことだ。だが、言われていないから、しなくていいということではない。具体的に言われなくても、キリスト者個々や教会が、正しく使命を持つことはできる。だが、少なからぬ信者は、こうした使命を勇気を持って引き受けることをしないで、保身にとどまるところが見られる。」

要は、キリスト教信者は「子供」ではなく「神から、その主体性を保証された存在だ」ということであり、であれば、自分で考えて行動するというのも、キリスト教信者として当然のことなのだが、現実はそうなっていないことが多い、という話である。

(f)『とにかく信者は信者として、未来はどうなるか、どう見透すべきかという明確な処方箋を、福音書からえることはできない。信者はこの地上では巡礼者として、暗中模索の冒険の旅路をたどるものであり、この地上の未来を計画する他の人々と兄弟の縁を結んでいるものである。自分自身をも計画する者となり、すでに大宇宙機構がかなりはっきりと目指すばかりか、もうそこに向いはじめた場所(精神と自由という名でよばれている)に達しようとする人々の誇りを察知することが十分にできるはずである。』

「とにかく、キリスト教信者として、未来に関する処方箋を、福音書からそのまま引き出すというようなことはできない。われわれ信者は、この困難多き地上(現世)の巡礼者として、暗中模索の冒険の旅路をたどる存在であり、この地上の未来を担って立とうとする他の人々と兄弟の縁を結んでいる存在なのである。自分自身がいかにいくべきことが正しいのかということをも、自分自身で計画する者となり、すでにこの世界がかなりはっきりと目指して進んでいるばかりか、もうそこに向いはじめた場所(精神と自由という名でよばれている)に達しようとする人々の誇りを察知することが十分にできるはずだし、当然それに貢献することもできるはずである。」

当然のことながら、「翻訳文の意訳」であると考えてほしい。だが、ラーナーが指し示さんとしている方向性は明らかだろう。

従来、カトリック教会では、その指針として「聖書と聖伝ということが言われてきた。
これは「聖書と教会的伝統教義」という意味であり、プロテスタントは、この「聖伝」を、所詮は「人間が作ったもの」、教会が「自己正当化」のために作ったものに過ぎないから、信仰は「聖書のみ」に拠るべきだ、とした。

マルティン・ルター

しかし、カトリック神学者であるラーナーは「聖書は、この現世における具体的な方法を示してくれるわけではない」と言い、ではどうすれば良いかと言えば「福音書の指針に沿って、それぞれが考え行動せよ」と言っているのである。つまりそれが、個々の「聖伝」に当たるわけだ。

ラーナーは本書の中で、キリスト教の教えは発展するものだと明言しているのも、そうしたことからである。そうでなければ、キリスト教信者は、現世を正しく生きることなどできないし、結果として、引きこもりの現実逃避になってしまうが、この信仰は、そんな「死んだ信仰」などではないと、力強く語っているのである。

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もちろん、このように解説した私自身は「無神論者」であり、ラーナーの揺るぎない「確信」は、所詮「幻想」でしかないと思っている。

しかし、例えば、いま私の目の前に、天からイエス・キリストが降りてきて見せてくれれば、その時は信仰を受け入れると明言して良いというのと同じで、人の「確信」というものは、最終的には「それは、あなた個人の幻覚に過ぎないよ」と言っただけで変えられるものではない。
私が、天から降り立つイエスを目の当たりにすれば、いくら周囲の人が否定したところで、私は私の見たものを信じた上で「なぜ、周囲の人には見えなかったのだろう?」とは考えても、単に「私自身が狂ったのだろう」とは思わないはずなのだ。今の私が、宇宙の果てまで確認したわけでもないのに、蓋然性の高さだけで「神はいない」と確信しているように。

(昇天するイエス・キリストの図)

だから、ラーナーの「確信」自体を、私は否定するつもりはない。だが、ラーナー自身も上のように語っているとおりで、彼の「信仰的確信」が正しいのであれば、誰よりも「カトリック教徒」こそが、この現世をも、現実的に救い導くはずであるし、その力を示すはずである。
言い換えれば、それができないのであれば、「ラーナーの確信」の方が間違っており、今の「私の確信」の方が正しかったということになるのだ。

「この現世をも救う」のは、「非信仰的現実主義」か、それともキリスト教的な「福音」なのか。一一これは、結論を、「天国」や「あの世」に先送りして誤魔化すことの許されない、現実的な「勝負」だとも言えるである。


(2024年1月9日)

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