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稲垣良典 『カトリック入門 日本文化からのアプローチ』 : カトリック保守派の 最悪の部分

書評:稲垣良典『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』(ちくま新書)

党派意識に凝り固まったカトリック信者は論外として、まともに文章が読める人ならば、本書の酷さは一目瞭然である。
具体的に言えば、本書における著者の「誤摩化し」「論理的一貫性の無さ=不誠実性」「偽善的なへりくだりのポーズ=内心の高慢」等々だ。

著者は、トマス・アクィナスの膨大な主書『神学大全』の全訳に貢献した、日本における中世哲学界の「重鎮」ということになり、その点では現在の日本のキリスト教界では大先生ということで、だれも名指しで批判するものはいない。
しかし、本書を読めば、著者の学問的業績や肩書きは別にしても、カトリック信仰を語るカトリックの指導者・理論家の一人としては、とうてい高く評価できるような人物でないことは明らかだ。
それが、カトリック信者でもなければクリスチャンですらない、つまり「(日本の)キリスト教界のしがらみ」に縛られることなく、自由に評価を語れる「客観的第三者」には、容易に見てとれる事実なのである。

本書の問題点としての「カトリック信仰と日本的霊性との薄っぺらな通底視」「歴史的事実の無視と無反省と牽強付会」「偽善的な謙遜に隠された、高慢に発する被害者意識の発露としての怒り」など、著者の物言いは、およそカトリックの理論家が犯す「護教的欺瞞」の典型例だと呼んでいいだろう。
いくつか本文を引用して、実証的に解説していこう。

(1)『ここで「カトリシズムと日本文化」という問題を提起し、日本文化という「場」で育った心を持つ日本人がカトリシズムを受容することを妨げる要因をつきとめようとするに当たって、私は恐らく読者が予想されているであろう事柄に立ち入らない。そうした事柄とは西洋の歴史のなかで「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業とも言うべき堕落や逸脱の数々である。思いつくままにそれらを枚挙すると、(1) 聖書の軽視、(2) 教皇権威の絶対化、(3) 秘跡(サクラメント)の魔術化、(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍、(7) 聖母礼参、等々。』(P13)

まず「はじめに」で、このように予防線を張っている。「カトリシズムと日本文化」の話を議論するのだから、西洋での過去の話は基本的にやめておきます、ということだが、日本人がキリスト教、なかんずくカトリックを受容しない理由の大きな要因は、カトリックによる『(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍』などの「権威主義的かつ暴力主義的な独善(神の名による生殺与奪の独占)」という歴史的事実を知っているからに他ならない。
日本人の心性は、カトリックの教会絶対主義(教皇無謬説など)が象徴する「唯一神の絶対権威主義」には、基本的に馴染まない。山川草木あらゆるものに魂が宿っており、それぞれが小さな「神」として生きているようなアニミズム的世界の「緩さ=寛容さ」に馴れた「日本的霊性」からすれば、カトリック的な「慇懃無礼で問答無用な権威主義」は、とうてい馴染めるものではないのである。

そもそも、上の引用文の言い回しにも、著者のカトリック的「独善」が、よく表れている。
曰く『「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業』。これは「以下に列挙された問題群は、基本的にはカトリックの問題ではなく、アンチキリストの問題でしかないのに、その無理解の故に、一緒くたにされて、着せられた汚名である」という、著者の「無反省」な本音としての「被害者意識」を露呈させている。
著者の独善的な「カトリックは、本質的に間違っていないし、間違ったこともない。ただ、個人が間違うだけだ」という「カトリックの自己正当化」論は、もちろん本書の中に頻出しており、ぜんぶ引用していたら切りがないほどだ。

(2)『カトリシズム、というより近世のカトリック教会が科学の発展を阻害したという、いわゆる「宗教と科学の闘争の歴史」は、現在では「歴史」というよりは反キリスト教的な啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっているので、ここでは問題として取り上げない。』(P56)

著者は何ら具体的な根拠を示すこともなく『啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっている』と書いているが、これは意図的な決めつけによる大嘘であり、「カトリックの歴史」を知らない一般読者や一般信者に向けての、プロパガンダ(政治的宣伝)であり「デマゴギー」に他ならない。
それは、第255代ローマ教皇(在位:1846年6月16日 - 1878年2月7日)ピウス9世の『誤謬表』という、歴史的事実にも明らかである。
『1864年の回勅『クアンタ・クラ』に付属する形で発表された『誤謬表』(シラブス)へと受け継がれていく。これは自然主義や合理主義、自由主義など近代思想・文化を否定する内容で、教皇庁と近代社会との断絶は決定的になった。』(Wikipedia)というもので、当然のことながら、それは近代の申し子である「自然科学」をも否定したものであり、その反動性ゆえに一般的影響力は別にしても、多少なりとも「科学の発展を阻害した」というのは間違いない事実だ。驚くべきことに、これは中世の話ではなく、近代における歴史的事実であり、著者の稲垣は、こんなことなど百も承知で、臆面もなく大嘘をつける「カトリック保守派の最悪の部分」なのである。

(3)『(※ローマ教会およびローマ教皇(法王)の絶対的権威を主張するカトリックを、キリスト教本来の在り方ではないと見る人たちから)カトリック信者は自分たちの教会を「神の国」「天の国」と同一視し、キリスト自身の神的な生命(いのち)によって生きる「聖なる」キリストの神秘体だと主張しているのか。信者はキリストを頭とする体の部分ではあっても、この世を旅する人間である限り常に悔い改めを必要とする必要とする存在であることを忘れたのか——このような反発を呼び起こし、批判を浴びるのではないか。
 実を言うと、この種の批判は、人々の目に映る現象としてのカトリック教会としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒めではあるが、本質としての教会を理解しえないところから出てくる批判である。』(P272)(※は、引用者補記)

(4)『この絶対的な矛盾とも見える信仰の逆説(パラドックス)がカトリシズムの特徴であり、近代思想に対する知的な挑戦である。』(P274)

この(3)にも、著者の「傲慢(「自分は分かっており、世間が分かっていないだけ」という上から目線)」と「本質的無反省」は明らかだろう。著者は、カトリックとして『常に誠実かつ真剣に受けとめるべき』だとすることを、自ら『誠実かつ真剣に受けとめ』て『戒め』ることなど決してないだろう。
それは(4)の「カトリック的開き直り」の論理にも明らかだ。私はこれを「カトリック的ダブル・スタンダードの詭弁」だと表現しているが、論理的に説明できないことを「逆説」だと強弁あるいは(チェスタトン的)レトリックを駆使して身をかわし、そのあげく『近代思想に対する知的な挑戦である』などと宣う「厚顔」さは、相当なものだと言わざるを得ない。

こんな、稲垣だからこそ「建前と本音」は、こんな具合に、露骨である。

(5)『私は神学者ではなく、まして聖書学者ではないから、これは「信仰の知解」をほそぼそと続けてきた「スコラ哲学者」の胸に浮かんだ思いに過ぎないのかもしれない。』(P184)

(6)『「私は正しく私の時代のキマイラです」と敢えて言い切った彼(※ベルナルドゥス)は、自分は(※信仰的探求者であって)学者ではない、という姿勢を終生貫いたが、そのことは彼が十二世紀に輩出した多くのヒューマニストの中の最も卓越したひとりであり、また神学の歴史の中で画期的な位置を占める神学者であることをいささかも妨げるものではない。』(P247)

要は、ご「自分は神学者でも聖書学者ではないけれども、カトリック神学の中核であるトマス神学の権威であり、その意味で卓越したカトリック思想家のひとりである。それはまた、自分が中世哲学学会の中で画期的な位置を占める学者であることをいささかも妨げるものではない」とおっしゃりたいのである。

本書において、著者である稲垣良典の「鼻持ちならない高慢さ=イエスの説いたへりくだりの、本質的欠如」は、ごく普通の読書家にとっては、容易に読み取れるところである。
しかし、カトリックに所属する「党派的人間」には、それを語れないだけではなく、むしろ「同業者」的な「提灯持ち」評価さえ恥じないでやれるのだ。だが、あるいはこのあたりが「日本的なカトリック性」だと言えるのかも知れない。

ともあれ、こうした「現実的な問題点」を「人々の目に映る現象としてのカトリック者としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒め」としてほしいところだが、まあ多くは期待できないだろう。だが、誰かが指摘しておくことに意味はあろうから、このような批判文を書かせていただいた次第である。

ちなみに、稲垣良典は本書で、岩下壮一チェスタトンベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)などの「カトリック保守派の論客」に対して好意的(かつ党派的)に言及しているが、私(年間読書人)は、稲垣が序文などを書いている岩下壮一の『信仰の遺産』(岩波文庫)『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)や、ベネディクト16世の評伝『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(今野 元・東京大学出版会)などについてもレビューを書いているので、他のキリスト教関連書のレビューと併せてご参照していただだければ幸いである。

『 神と出会う時、わたしたちはあらゆる点でわれわれよりも無限に優越しているものに直面することになる。神をそのようなものとして理解しない限り——したがって、これと比べれば自分は無に等しいと考えない限り——神を知ったことには全然ならない。われわれは、傲慢である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。
 そこから恐ろしい疑問が起こってくる。どこから見ても明らかにプライドによってむしばまれている人びとが、自分は神を信じていると言い、また自分は非常に宗教的な人間だと自認しているのは、いったいどういうわけなのか。そういう人たちは自分の頭ででっち上げた神を拝んでいるのすぎない、とわたしは思う。彼らは、自分がこの空想の産物である神の前にあっては無に等しいことを、理屈では、認めている。だが、腹の中では、「神はわたしの言行を嘉し、わたしがふつうの人たちよりもはるかに立派であることを認めておられる」と、いつも考えているのだ。つまり、彼らは神に1ペニーの空想的謙遜を支払うことによって、同胞に対する1ポンド分の据傲を手に入れているのである。キリストが、わたしについて宣教し、わたしの名によって悪霊を追い出してもなお、世の終わりに、「われなんじらを知らず」と言われる者たちがいるであろう、と語った時、彼の念頭にあったのはそういう人たちではなかったかとわたしは思う。』
  (C.S.ルイス宗教著作集4『キリスト教の精髄』P195〜196)

初出:2017年2月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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