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教皇フランシスコ、 ドミニック・ヴォルトン 『橋をつくるために 現代世界の諸問題をめぐる対話』 : フランシスコによる 〈異端〉との対決

書評:教皇フランシスコ、ドミニック・ヴォルトン『橋をつくるために 現代世界の諸問題をめぐる対話』(新教出版社)

本書は、現ローマ教皇フランシスコの、コミュニケーション問題を専門とするフランス人社会学者ドミニック・ヴォルトンとの対話の記録である。ちなみに、ヴォルトンは、カトリック信者ではなく、無神論者。

本書の特徴は、両者の闊達なやりとりにあると言えるだろう。この対話は、ヴォルトンの方から持ち込まれたものだが、ヴォルトンの忌憚のないツッコミは素晴らしく、何度も何度も「教会はなぜ」とフランシスコに詰め寄るが、フランシスコはそれに対し、じっくりと考えて冷静かつ誠実な返答を返し、時に沈黙で答える。沈黙はときに雄弁であることをフランシスコは知っている。つまり彼には、語るべきではないこともあることを、誤摩化さずにヴォルトンに伝えるのである。

本書のサブタイトルにもあるとおり、対話のテーマは多岐に渡っているが、私が特に注目したのは、フランシスコによる「異端」批判と取れる言葉の、その意味するところである。

フランシスコは言う。

『 教会がその使命を最も良く理解した時代は、ヒューマニズムを尊重した時代です。人間の尊厳を尊重し、それをないがしろにしなかった時代です。ヒューマニズムを損なう二つの非常に重大な危険があって、それらを「異端」と呼ぶことができます。一つはグノーシス主義、大まかに言えばすべては知識であるとする異端で、使徒たちの時代に現れました。もう一つはペラギウス主義、あなたたちフランス人はそのチャンピオンですね。ポール・ロワイヤルやパスカルを考えてみてください。あの偉大なパスカル、精神とヒューマニズムの巨匠であるあのパスカルも、ほとんどペラギウス的世界に生きています。肉体の拒否です。(※ 逆に)ドストエフスキーの作品の中に、ペラギウス主義やグノーシス主義を示すような箇所が、たった一つでも見つけ出せるものならば見つけ出してください。』(P240〜241)

ここで、フランシスコが批判しているのは、『肉体』性を見失った「観念論(精神主義・霊性主義)」であり、だからこそ、現代思想の本場であるフランスをからかってもいるのだ。

フランシスコは、こうした「肉体(民衆・生活・現実)」を見失うこと(軽視し無視すること)で「純粋に霊的たりうる(存在のステータスが上がる)」と思い違いするような「観念論」の誘惑を、「天使性」という言葉を使って批判してもいる。
「天使」とは、この場合「悪しきもの」として批判されているのだが、ここには徹底して「民衆」とともに「低く」あらんとするフランシスコの、人間に分不相応な過度の「天使性」希求の危険性に対する、鋭い嗅覚が見て取れる。

『 民衆には民衆の信心、民衆の神学があります。健全で具体的なもので、家族や仕事を基盤とした価値観に支えられているのです。民衆は、その罪さえ具体的です。反対に、あのイデオロギー的神学(※ マルクス主義の影響を大きく受け、政治的傾向の強かった「解放の神学」)の罪には「天使性」がありすぎます。最も重大な罪は、天使的な要素がたくさんある罪です。それ以外の罪は、天使的な要素がほとんどなくて、とても人間的なのです。おわかりいただけますか? わたしは「天使性」という言葉を使うのが好きです。なぜなら、最悪の罪は傲慢の罪、つまり天使たちの罪だからです。』(P139)

無論、パスカルにしろ、マルクス主義者にしろ、「解放の神学」の司祭たちにしろ、彼らは彼らなりに「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った人たちであることは、アルゼンチン出身で軍政下の自由弾圧を経験したフランシスコも十分に承知していたのだが、それでもその「善意」が、地に足の着かないものとなって「天使」化した時、人は「肉体」を軽んじて「観念」に囚われ、自身を「霊的に高次な人間」だという「傲慢(自己誤認)」に囚われてしまい「堕天使(神の意図に従わぬ者)」と化してしまうのである。一一 例えば、あの「総括殺人の連合赤軍メンバー」のように。

彼らは、「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った、言わば「熾天使」のつもりだったのであろう。だからこそ、「肉体」の弱さに縛られない「革命の戦士」となる覚悟を仲間たちに求め、その「肉体」を限界まで苛んだあげく、「戦士=天使」たりえない「弱い」仲間たちを、次々と殺してしまったのだ。
彼らの過ちが、どこにあったのかは、フランシスコの言葉に明白だろう。彼らは「肉体」を蔑視して「天使」になろうとしたのだが、それは「人間という肉体的存在」を見下す「傲慢(自己誤認)」にとらわれたということにほかならず、彼らは知らずに「堕天使」となっていたのである。

しかも、こうした「肉体憎悪としての天使主義」は、当然のことながら、容易に「(肉体の象徴たる)民衆」憎悪にも転化する。
人を救うために司祭になった人たちが、いつのまにか民衆を見下し憎悪するようになったりもする。もはや彼らにとって重要なのは、自らの「天使」性であり、「肉体」を持たないが故の「純粋さ(完璧さ)」なのであるが、それはしばしば「伝統主義的保守主義」というかたち(形式主義)となって表れる。
フランシスコが進める「教会改革」とは、まさにこの「天使性」の呪縛から、教会を開放するための戦いであり、フランシスコの言う「グノーシス主義」や「ペラギウス主義」という「異端」は、「教会」の中にあってこそ(「異教」ではなく)「異端」なのである。

『 この霊的な世俗性は、とりわけ、深く関連し合う二つの源泉からわき出てきます。その一つは、主観主義にとらわれた信仰であるグノーシス主義の魅惑です。これは、特定の経験、一連の論証、知解のみに関心をもっています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は自らの理性と感情の内在に閉ざされたままなのです。他の一つは、自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です。この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです。教義と規範の仮定的確信が、自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせます。それによって、福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格づけし、恵みへと導くことにではなく、人を管理することに力を費やします。どちらの場合も、イエス・キリストに対しても他者に対しても、真の関心を払っていません。人間中心的な内在論の表出なのです。このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません。』(P254)

そんなフランシスコに、ヴォルトンは

『 あなたの開かれた人道的姿勢は、カトリック教会内部で反対を引き起していますね。』(P81)

と水を向けるが、フランシスコの「地上主義」は、次のように徹底している。

『 教会が道学者になってしまうと……教会は道徳ではありません、キリスト教は道徳ではありません。道徳は、イエス・キリストとの出会いの結果です。でも、もしもイエス・キリストとの出会いがなければ、その「キリスト教」道徳はなんの価値もありません。』(P225)

『 (※ 困窮者からなる巡礼団の)付き添いの皆さん、わたしは皆さんに感謝したいと思います。皆さんは、抽象論ではなく(※ 貧しい人々と)共に生きることから出発しようとしたジョセフ・ブレジンスキ神父の直感を忠実に受け継ぎ、行動されているからです。抽象論はわたしたちをイデオロギーへと導き、イデオロギーはわたしたちを、神が人となり、わたしたちの一人となってくださったこと(※ つまり、人間が肉体をもつ存在であり、そんな人間を救うために、神は肉体をそなえたイエスとなって、この世に降り立ったこと)を、否定するように仕向けるのです。というのも、貧しい人々と(※ その具体的な)生活を共にすることこそ、わたしたちを変え、回心へと導くからです。』(P249)

『 神学における危険はイデオロギー化することです。』(P261)

『 伝統は、イデオロギーになったとき、伝統ではなくなります。』(P312)

『(※ キリスト教厳格主義派も含めて)厳しさ・硬さの背後には、コミュニケーション能力の欠如があります。わたしにはいつもそう見えました……たとえばコミュニケーションを怖れているあの硬直した司祭たちを見てください、硬直した政治家たちを見てください……あれは原理主義の一つの形です。わたしは硬直した人と出会ったりすると、とくにそれが若者だと、すぐに思うのです。これは病人だと。危険なのは、彼らが安全を保証してくれるもの(※ 例えば、警察や軍隊やカトリック教会のような、権威ある組織の後ろ盾)を求めていることです。』(P372)

常に「人間と向き合い対話すること(かたくなにならないこと)」。さらに、弱き立場に置かれた人、虐げられた人々、貧しい人たちの側、つまり「肉体」的現実の側に立って、「民衆」と共に生きることを、フランシスコは求める。

そこで、ヴォルトンは問う。

『 ところで、「教皇庁の一五の病気」に対する戦いには勝てましたか? 教皇庁だけの病気ではなくて、結局は普遍的な病気ですね。(笑い)』(P321)

フランシスコの言う「教皇庁の一五の病気」とは、「2014年12月22日、バチカンのクレメンス・ホールで、バチカン関係者に対して行われた降誕祭前の挨拶」で語られた、つぎのような15の項目である。

『1 自分を(…)必要不可欠な者だと感じる病気。自分自身を批判することなく、自分自身を改善しようとしない教皇庁は、障害をもつ からだです。(以下略)
2 (マルタに由来する)「マルタイズム」という病気、働きすぎの病気、仕事にのめり込む人たちの病気です。(…)必要な休息を怠るため、ストレスや不安にさらされます。(以下略)
3 心と精神が「石のようになる」病気。石のような心をもつ人たちの病気、(…)道を行くうちに、心の平穏、活力、大胆さを失い、書類に埋もれ「書類作成機」になってしまい、「神の人」ではなくなってしまった人たちの病気です。(…)
4 計画過剰病、機能主義という病気。(中略)すべてをよく準備することは必要ですが、聖霊の自由を妨げて自分の思うように動かそうとしたり閉じ込めたりする誘惑には決して陥ってはなりません。(…)
5 協調不全という病気。(以下略)
6 「霊的アルツハイマー」病。あるいは(…)主と共に歩んできた自分の歴史、わたしたちの「初めのころの愛」(ヨハネの黙示録2・4)を忘れる病気です。(以下略)
7 対抗心と虚栄心という病気。見た目、服の色、勲章が人生の最重要目的になってしまうときに見られる病気です。(…)
8 実存的統合失調症という病気。二重生活を送る人の病気です。(…)司牧上の奉仕活動を放棄して、お役所的な仕事しかしなくなり、そうやって現実との接触や人々との具体的なかかわりを失っている人が、しばしばかかる病気です。(…)
9 悪口、不平、陰口という病気。(以下略)
10 リーダーを神のように崇める病気。上司のご機嫌をとる人たちがかかる病気です。(…)この人たちは、出世主義、日和見主義の犠牲者です。(以下略)
11 他人に対する無関心という病気。一人ひとりが自分のことしか考えず、人間関係における誠実さや温かさを失ってしまうときにかかる病気です。(…)嫉妬から、あるいは策略から、人が転ぶのを見ると喜び、その人を助け起こすことも励ますこともない、そういう病気です。
12 暗い顔という病気。気難しくてとっつきにくい人たちのことです。この人たちは、自分が重々しい人物であると見せつけるため、ことさら憂鬱で謹厳な顔つきをし、他人に対しては一一とくに目下に対しては一一頑固で厳格で傲慢な態度をとるのです。(…)
13 ため込み病。使徒が心の中の実存的空白を埋めようとして、必要もないのに、ただ安心感を得るためだけに、ものをため込む病気です。(…)
14 閉鎖的サークル病(※ セクト主義)。グループへの帰属意識が強くなって、「(※ 教会という)からだ」への帰属よりも、そして状況によってはキリスト自身への帰属よりも、(※ グループへの帰属が)優先される病気です。(…)
15 世俗的な利益を求める病気、露出症という病気。使徒が奉仕の務めを権力に変え、さらに自分の権力を世俗的な利益を得るため、あるいはより大きな権力を得るために、利用する病気です。(…)』(P330〜333)
 (※ 「(…)」は原文のものである)

カトリックの中央で、ローマ教皇によって、このような「基本的」な指導がなされていることに、私たちは、事の重大さとともに、希望をも見いださなくてはならないだろう。
フランシスコは、「改革への抵抗」について、こう語る。

『 (…)改革は、まず第一に、地上を旅する教会の生きる力のしるしです。(…)生きているからこそ改革されねばならない教会の生きる力のしるしです。(…)改革が実際に効果をもたらすのは、それが「新しい」人々によってだけではなく、「新しくされた」人々によって行われたとき、ただそのときだけなのです。
 改革の過程においては、困難に出会うのが普通であり、またそれは健全なことでさえあります。困難は、さまざまなタイプの抵抗によって現れます。あからさまな抵抗(…)、隠された抵抗、悪意ある抵抗など(…)。この最後のタイプの抵抗は(…)しばしば、伝統や外見や形式上の問題をよりどころににした、告発の形をとります。(…)
 反発がないのは死んでいることのしるしです! ですから、抵抗は(…)必要であり、耳を傾けるべきもの、歓迎され、奨励されるべきものです。なぜならそれは、からだが生きているしるしだからです。』(P334〜335)

見てのとおり、フランシスコは一歩も退かない。
フランシスコの「反発抵抗、大歓迎」というこの言葉を、世俗の言葉に言い変えるならば、「喧嘩(コミュニケーション)上等」ということにでもなるだろうか。
ヴォルトンが、

『あなたの話を聞き、あなたを見て、その自由闊達さ、憤激ぶりを観察していると、わかります、あなたは怒っています。つまりわたしは、あなたのことを怒っている人だと感じるのです。怒っていて、体制に順応しない人です。』(P357)

と言うとおり、フランシスコは今も、虐げられた人たちの側に立って、温顔とユーモアの下で怒号をあげている「とても人間的な人」なのではないだろうか。


初出:2019年11月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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