書評:教皇フランシスコ、ドミニック・ヴォルトン『橋をつくるために 現代世界の諸問題をめぐる対話』(新教出版社)
本書は、現ローマ教皇フランシスコの、コミュニケーション問題を専門とするフランス人社会学者ドミニック・ヴォルトンとの対話の記録である。ちなみに、ヴォルトンは、カトリック信者ではなく、無神論者。
本書の特徴は、両者の闊達なやりとりにあると言えるだろう。この対話は、ヴォルトンの方から持ち込まれたものだが、ヴォルトンの忌憚のないツッコミは素晴らしく、何度も何度も「教会はなぜ」とフランシスコに詰め寄るが、フランシスコはそれに対し、じっくりと考えて冷静かつ誠実な返答を返し、時に沈黙で答える。沈黙はときに雄弁であることをフランシスコは知っている。つまり彼には、語るべきではないこともあることを、誤摩化さずにヴォルトンに伝えるのである。
本書のサブタイトルにもあるとおり、対話のテーマは多岐に渡っているが、私が特に注目したのは、フランシスコによる「異端」批判と取れる言葉の、その意味するところである。
フランシスコは言う。
ここで、フランシスコが批判しているのは、『肉体』性を見失った「観念論(精神主義・霊性主義)」であり、だからこそ、現代思想の本場であるフランスをからかってもいるのだ。
フランシスコは、こうした「肉体(民衆・生活・現実)」を見失うこと(軽視し無視すること)で「純粋に霊的たりうる(存在のステータスが上がる)」と思い違いするような「観念論」の誘惑を、「天使性」という言葉を使って批判してもいる。
「天使」とは、この場合「悪しきもの」として批判されているのだが、ここには徹底して「民衆」とともに「低く」あらんとするフランシスコの、人間に分不相応な過度の「天使性」希求の危険性に対する、鋭い嗅覚が見て取れる。
無論、パスカルにしろ、マルクス主義者にしろ、「解放の神学」の司祭たちにしろ、彼らは彼らなりに「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った人たちであることは、アルゼンチン出身で軍政下の自由弾圧を経験したフランシスコも十分に承知していたのだが、それでもその「善意」が、地に足の着かないものとなって「天使」化した時、人は「肉体」を軽んじて「観念」に囚われ、自身を「霊的に高次な人間」だという「傲慢(自己誤認)」に囚われてしまい「堕天使(神の意図に従わぬ者)」と化してしまうのである。一一 例えば、あの「総括殺人の連合赤軍メンバー」のように。
彼らは、「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った、言わば「熾天使」のつもりだったのであろう。だからこそ、「肉体」の弱さに縛られない「革命の戦士」となる覚悟を仲間たちに求め、その「肉体」を限界まで苛んだあげく、「戦士=天使」たりえない「弱い」仲間たちを、次々と殺してしまったのだ。
彼らの過ちが、どこにあったのかは、フランシスコの言葉に明白だろう。彼らは「肉体」を蔑視して「天使」になろうとしたのだが、それは「人間という肉体的存在」を見下す「傲慢(自己誤認)」にとらわれたということにほかならず、彼らは知らずに「堕天使」となっていたのである。
しかも、こうした「肉体憎悪としての天使主義」は、当然のことながら、容易に「(肉体の象徴たる)民衆」憎悪にも転化する。
人を救うために司祭になった人たちが、いつのまにか民衆を見下し憎悪するようになったりもする。もはや彼らにとって重要なのは、自らの「天使」性であり、「肉体」を持たないが故の「純粋さ(完璧さ)」なのであるが、それはしばしば「伝統主義的保守主義」というかたち(形式主義)となって表れる。
フランシスコが進める「教会改革」とは、まさにこの「天使性」の呪縛から、教会を開放するための戦いであり、フランシスコの言う「グノーシス主義」や「ペラギウス主義」という「異端」は、「教会」の中にあってこそ(「異教」ではなく)「異端」なのである。
そんなフランシスコに、ヴォルトンは
と水を向けるが、フランシスコの「地上主義」は、次のように徹底している。
常に「人間と向き合い対話すること(かたくなにならないこと)」。さらに、弱き立場に置かれた人、虐げられた人々、貧しい人たちの側、つまり「肉体」的現実の側に立って、「民衆」と共に生きることを、フランシスコは求める。
そこで、ヴォルトンは問う。
フランシスコの言う「教皇庁の一五の病気」とは、「2014年12月22日、バチカンのクレメンス・ホールで、バチカン関係者に対して行われた降誕祭前の挨拶」で語られた、つぎのような15の項目である。
カトリックの中央で、ローマ教皇によって、このような「基本的」な指導がなされていることに、私たちは、事の重大さとともに、希望をも見いださなくてはならないだろう。
フランシスコは、「改革への抵抗」について、こう語る。
見てのとおり、フランシスコは一歩も退かない。
フランシスコの「反発抵抗、大歓迎」というこの言葉を、世俗の言葉に言い変えるならば、「喧嘩(コミュニケーション)上等」ということにでもなるだろうか。
ヴォルトンが、
と言うとおり、フランシスコは今も、虐げられた人たちの側に立って、温顔とユーモアの下で怒号をあげている「とても人間的な人」なのではないだろうか。
初出:2019年11月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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