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ジョン・ロック 『キリスト教の合理性』 : 〈理性〉の 時代的制約

書評:ジョン・ロック『キリスト教の合理性』(岩波文庫)

本書は、キリスト教を、合理性の観点から批判したもの、ではない。17世紀後半の著名な哲学者ジョン・ロックが「キリスト教は合理的である(「合-理性」的なものである)」つまり「信仰と理性は矛盾しない」という、自身の信仰的信念の、論証を試みた書である。

そして、結論から言えば、それは成功していない。
本書の正式な書名は『聖書に述べられたキリスト教の合理性』であり、話を「聖書」に限定し、「聖書」に語られていることが「真実」だと前提するならば、キリスト教に合理性を見いだすことも、あるいは可能かも知れないが、しかしそれは、ほとんど論点先取の誤謬である。
というのも、キリスト教徒ならざる、私を含む多くの現代人にとっては、「聖書」の記述自体が、そもそも信用ならざるものであり、一般的な意味での「合理性」についての議論の前提とはならないものだからだ。

しかし、ほぼ同世代のニュートンが、今の分類でいえば「自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者」(Wikipedia)という肩書きを兼ね持っていた時代、つまり「科学と信仰」が未分であり、矛盾するなどとは考えられていなかった時代にあっては、「聖書」に「信仰の合理性」を読み取るという行為も、決して的外れなものだとは思われていなかった。まさに「聖書」は「聖書」であって、その記述は正しく、その「解釈の精確さ」こそが論点となり、ロックが主張したのは「聖書の合理的な解釈」と、それによる「キリスト教信仰の合理性」の証明だったのだと言えよう。

さて、そんなロックの「聖書の合理的な読解による、正しい信仰理解」とは、どのようなものであったのか。
ロックは、それを福音書と使徒行伝を読み解くことによって、「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」だと結論する。
そして、「書簡」などに示された、それ以外の様々な「使徒の教え」は、「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」を前提としての、言わば応用的指導にすぎないので、まずは心から「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」さえ出来れば、それで立派に信仰を持っていることになる(義認される)、というものであった。

つまり、ロックとしては「信仰には、啓示を正しく理解する理性が、絶対に必要」だけれども、言うまでもなく誰もが、十分な教育を受けられる(地位と金と時間がある)わけでもなければ、優れた知性を与えられているわけでもないのだから、そういった人々をも救うことを保証するキリスト教ならば、当然、皆が皆、教義や神学や聖書の詳細を知悉しなくても「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」さえすれば、それで良いのだと「聖書には示されている」という立場なのである。

しかし、「イエスがメシア(キリスト)である」ということの保証が、理性を満足させるかたちで「聖書」のどこに示されているかというと、それは「イエスによる奇跡」が保証し、その事実をもって「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」が出来るのだ、と本書は主張するものになっている。
これは、現代の私たちの視点からの「その奇跡が行われたという記述が信用ならない」という問題ではなく、当時の人たちにとっては「奇跡を行ったことは事実でも、奇跡を行うことが、そのままメシアであることの証拠にはならない(事実、悪魔や魔術師も似たようなことをした)」と考えられてしまう点で、十分な合理性を欠いていたと言えよう。
結局「イエスがメシア(キリスト)である」という結論には誰もが同意しても、その論証が十分に合理的ではないという点で、ロックが強く主張した「信仰と理性は矛盾しない」という、理に勝ち過ぎた「理性主義」の主張は、まだまだ「神秘主義」的(妄信的)な信仰態度(「聖書にそう書いてあるからそうなんだ」)が当たり前であった時代には、「異端」的なものとみなされたりもしたのである。

そして、そんなロックの「解釈学的立場」をよく示しているのが、本書末尾の部分である。

『 英国国教会に反対する宗教団体は、その指導者たちによって、彼らが大変に無学であると非難する普通の国教徒に比べて、信仰上のことがらにおいてはより厳正に教えられ、キリスト教をよりよく理解していると想定されているようであるが、私は、それがどこまで真実であるかどうかをここで決定しようとは思わない。しかし、私は、その指導者たちに、彼らの団体に属する人々の半分が学ぶ余暇を持っておられるかどうかに誠実にお答え下さるようにお願いしたい。いや、それよりお聞きしたいのは、田舎でのあなたがたの集会に来る人たちの一〇分の一が、たとえあなたがたの言うことを学ぶ時間があるとしても、今、本論稿の主題である義認についてあなたがたの間で大変に熱を込めて行われている論争を、はたして理解しているか、あるいは、はたして理解できるのかということである。私は、彼らの指導者たちの何人かと話したことがあるが、その人たちの告白によると、自分たちの間で行われている論争における意見の違いを理解できないとのことであった。にもかかわらず、彼らは、自分たちの主張する諸論点は、(※ 信仰の義認において)非常に重要なものであり、宗教においてきわめて実質的で基本的なものだと考えるので、その結果、彼らは、自分たちの宗教団体を分裂させ、別々に分かれることになってしまうのである。もし神の意図が、学識ある著述家、論争家、あるいはこの世の賢者以外はキリスト教徒になれないとか、救われないということにあったとすれば、宗教は、彼らのために準備されたもの、思弁やごく些末なことがら、曖昧な用語や抽象的な概念に満たされたものになったことであろう。しかし、そのように見込まれた人間、そうした豊かな資質を与えられた人間は、使徒〔パウロ〕が『コリント人への第一の手紙』第一章〔一八節-一九節〕でわれわれに語っているように、福音の単純さに入ることができず、それからむしろ閉めだされている。それは、貧しい者、知識のない者、文字を読めない者に道を譲るためであった。これらは、救済者の約束を聞いてそれを信じ、一人の男が死んだのを見て彼を再び甦らせたイエスこそがその救済者であることを信じ、また、イエスが、世界の終末に当たって再臨し、人々が行ったことに応じてすべての人々に判決を言い渡すことを信じた人々であった。『マタイによる福音書』第一一章五節にあるように、キリストは、貧しい者たちが自分たちに宣教された福音を手にするということを、自分の聖なる任務の職務であるとともに、その任務を示す一つの印としたのである。そして、もしそのように、貧しい者たちが福音を自分たちに宣べ伝えてもらったのであれば、その福音は、間違いなく、貧しい者も理解することができるような平明で、わかりやすいものであった。そして、われわれがすでに見てきたように、キリストと彼の使徒たちとの宣教における福音は、まさしくそうしたものであったのである。』(P360〜362)

「キリスト教の福音は、貧しい人たちのためにこそあったのだから、聖書にもそう書かれており、それに反する解釈は、非合理的であり誤りだ」というロックの主張は、正論ではあろう。
しかし、どのようなテキストも「多様な解釈」を論理的に導きだしてしまうものであり、ましてそれが「矛盾した記述のある諸文書を集めてまとめた書物=聖書」であってみれば、教義的あるいは道義的な問題や人情の問題は別にして、やはり「多様な解釈」は論理的に避けられないし、その事実こそが「(キリスト信仰の)真実」でもある、というのが、私たち後世の者の「理性的な判断」だとせざるを得ないのである。

初出:2019年11月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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