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塩野七生 『十字軍物語』 : 歴史と〈人間の真実〉

書評:塩野七生『十字軍物語』(新潮文庫)

本書は、キリスト教史を学ぶ者に最適の、面白くてタメになる副教材だ。なぜなら、「不都合な歴史」としてキリスト教会が囲い込みたがる「十字軍」の歴史を、そうした思惑から自由な視点で、のびのびと描いた作品だからである。

塩野七生を、本作で始めて読んだ。
私はもともと小説読みだが、歴史小説、時代小説、企業小説、ファンタジーだけは、触手が動かなかった。
言い換えれば、それ以外なら、純文学、実験小説のたぐいから、ミステリ、SF、ラノベまかでひと通り読んでおり、文芸評論などもそれなりに読んでいる。
要は、文学趣味の人間ではあるが、前記の四ジャンルには興味が持てず、歴史小説的と呼んでいいであろう作風の塩野七生は、これまで読んだことがなかったのだ。

今回、塩野七生を読んだのは、近年、趣味でキリスト教を研究しているからである。

キリスト教とひと口に言っても、2000年余の歴史があり(旧約聖書にからんで、前身のユダヤ教まで含めると、当然さらに長くなる)、地域も世界的な広がりがあり、教義や神学と言っても、教派分裂を重ねているから、決して一色ではない。また、研究対象をキリスト教を総体とするか、我が国のキリスト教に絞るかといった問題もあって、専門の学者や神父牧師にしたところで、それらすべてを踏まえている人は皆無と言ってよく、それほど大きなテーマなのだ。
だが、そんなキリスト教の歴史の中でも、決して無視できないテーマの一つが「十字軍」なのである。

しかし、十字軍は八度、二百年間にもわたるものであり「攻めた、取った、取り返された」といったことの応酬に関する学術的記録は、時代小説や戦記読み物にすら退屈に感じる人間には、いささか単調で面白みに欠け、さっぱり頭に残らないものだった。

そこで、面白いと世評の高い塩野七生の本なら、まして十字軍の「物語」と題している本ならば、十字軍の歴史を面白く、頭に残るかたちで読ませてくれるのではないかと期待して、読んでみたのである。
そして、結果は期待どおりであった。

しかし、塩野七生の他の著作はいざ知らず、『十字軍物語』に関して言えば、これは「歴史研究書」ではなく「歴史小説」の範疇に類するものであろう。
それは、研究書をかじっている者として見ても、小説読みとして見ても明らかなことだ。

塩野七生のウィキペディアによると、塩野の著作を「歴史書」として読む人がおり、それが一部に問題視されていると知り、呆れつつも、一方でさもありなんとも思った。
なにしろ世の中には、イエスが復活したとか、ロンギヌスの槍や聖杯には奇跡の力が宿っているとか、日本の天皇家は天孫降臨の神の末裔だとか、神武天皇は実在したなんて「物語や神話(フィクション)」を本気で信じている人がいるのだから、よく書けた歴史小説、例えば山岡荘八の『徳川家康』なんかを歴史書として読む人が大勢いても、なんら不思議ではない。

まして、塩野七生の『十字軍物語』は、そうした歴史小説ような書かれ方はしていない。
例えば、登場人物のセリフが「」書きで書かれることはなく、文献からの引用か、著者によると代弁「○○は、きっとこう言いたかったことだろう」的な書き方をして、生な「セリフ」を作ってはいないからである。
しかし、これは「フィクションにおける形式」の問題であって、フィクションか、非フィクションとしての歴史研究書かを決定する要素にはならない。それを決めるのは、資料的裏付けの扱いであり、それを決定する著者の意志なのだ。

研究書というものは、あくまでも、究明した「事実」を報告するものであって、自分の「解釈」を開陳するためのものではない。新しい事実を発見して初めて、新しいオリジナリティのある学説を唱えられるのであって、新しい事実の発見なしの、新しい解釈だけでは、それは「歴史評論」の類にしかならないのである。

で、塩野七生作品は、基本的には「歴史評論」と「歴史小説」の中間形態であって、学術的な「歴史書」ではない。
その魅力は、著者・塩野七生の「ユニークな視点」や「闊達な語り口」であって、「歴史的事実の究明とその紹介」ではない。
塩野七生作品は、基本的には「歴史を扱った娯楽読み物」なのである。

もちろん私は「娯楽読み物」と「研究書」のどちらが偉いなどと言っているのではない。
これは序列の問題ではなく、ジャンルの違いであり、書かれた目的の違いなのだ。

したがって、塩野七生の「優れた、面白い、歴史読み物」であり、著者の解釈表現に重きおいた、フィクション性の強い、「小説」的な作品だと理解するのが妥当なのである。

だから、問題は、著者・塩野七生ではなく、塩野作品が歴史を扱っているというだけで、それを歴史的事実を描いたものであると、単純に思い込んでしまう一部読者の方であり、そんな読者の「読書リテラシー」の低さなのである。

例えば、ミステリ(推理小説)読みならば、作者は事実を書くとは限らないとよく知っているし、小説のおける「語り」とは「騙り」でもあることを知っている。SF者ならば「存在しないものを、現在の科学理論を最大限に駆使して、いかにもあるかの如く描く」レトリックの価値や魅力を知っている。
すなわち「小説(フィクション)」の力とは「事実をして語らしめる」ものではなく「作り事でしか語れない真実を語るもの」だということを知っているのである。だから「歴史小説」が「歴史研究書」に劣るというような劣等感を持つ必要などない。両者は「似て非なるもの」なのである。

だからこそ読者は、塩野七生作品を正しく鑑賞すべきであろう。
そこに書かれていることが、どこまで裏付けの取れた歴史的事実であり、どこからが塩野七生「好み」の「解釈」なのか。

そこを見極めた上でなら、フィクションをフィクションとして楽しむのは、大いに知的であり、結構なことなのだ。
それは、ミステリやSFを楽しむのと同じ、知的読書だと言えるだろう。

ただ、歴史好きがしばしば陥る間違いは「歴史読み物」と「歴史研究書」を混同することで、自分がさも「学者」になったような勘違いを、無自覚なまま楽しんでしまう態度である。
こういうのは、ハッキリ言えば、非知的で、傍目にも恥ずかしい。

そして、そのような目さえあれば、娯楽読み物でも「知」とし得るし、逆にそれが無ければ、学術書を読んでも、目が霞む一方なのである。

このように前提した上で、塩野七生のために付言しておけば、彼女のキリスト教に対する評価は、身も蓋もなく正しい。

むしろ、歴史研究書づらをして刊行された、クリスチャンによる歴史書の方こそ、じゅうぶん眉に唾して読むべきであろう。
と言うのも、今に残るキリスト教の歴史とは、不都合な史実を焼き尽くすことで、自己を正統化してきた歴史に他ならないからだ。

例えば、キリスト教史において「異端」とされた側の証言史料がほとんど残っていないのは、後に「正統」を名乗った側が、排除した相手の側の史料を徹底的に焼き捨て、その真実を闇に葬ってきたからに他ならない。

そして、そんな正統キリスト教会の歴史から派生した西欧の諸学には、抜きがたくキリスト教の影響が残っているし、当然、クリスチャンの学者が少なくない。ましてキリスト教史の研究者には、当然現役クリスチャンが多いのである。

つまり、色眼鏡を掛けているのはみんなお互い様であり、偽善的かつ無自覚なクリスチャン学者のキリスト教史より、塩野七生のキリスト教関連史、つまり例えばこの『十字軍物語』の方が、「物語」と付すだけでも、よほど正直謙遜であって、信用にも値するのである。

意図せず史実と違った部分は、おのずとあるだろう。しかし、この『十字軍物語』が、ひとつの「リアルな人間」を描いた歴史物語であることは間違いないのである。

初出:2019年3月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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