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ジョン・ヒック 『宗教の哲学』 : 〈誠実な信仰〉の悲劇

書評:ジョン・ヒック『宗教の哲学』(ちくま学芸文庫)

私は「無神論者」の立場から、「宗教」というものに興味を持っている。
平たく言えば「あんなものを本気で信じられるのが不思議だ」ということであり、それも「ふた昔も前の無知文盲の庶民」が妄信したというのならばともかく、近代以降、現代にいたる知識階層においてすら、本気で「宗教」を信じ、なんとかそれを正当化しようと、その知恵をしぼっているというのが、端的に不思議でならないのだ。

そして、そんな「人間の不思議」としての「宗教」という問題を考えるために、私は、そうしたものの代表として「キリスト教」を研究しているのだが、キリスト教書を読んでいると、本書の著者ジョン・ヒックとその「宗教多元主義」についての言及を、しばしば目にすることになる。ところがそれは、おおむね、にべもなく否定的なものであることが多いのだ。
なにがそんなに、キリスト教徒の神経を逆撫でするのかと言えば、それは無論、ヒックの「宗教多元主義」が「キリスト教の唯一性・特権性」を否定しているからである。

ヒックの「宗教多元主義」とは、簡単に言えば「神は存在するけれども、それはキリスト教の神とかイスラム教の神とか仏教の神とかいった、まったく別物に見える神々の、どれか一つだけが実在しており、あとは誤認虚妄でしかない、ということではない。同じ神を、世界のいくつかの地方の人たちが体験し、それを自身の置かれた歴史的地域的文化的な特殊文脈において形象化した結果、一見したところ全く違ったように見える神の像が描かれ、それぞれに宗教化されたのだ。だから、我々は、その二次的で表面的な差異に惑わされることなく、その奥に実在する原型としての神とつながる努力をしなければならない。そうすれば、我々は神の違いをめぐって、神の教えに反するような諍いを起こすこともなくなるだろうし、それこそが神の意志であるはずだ」というようなことである。

ヒックは、キリスト教徒であり、神学者である。そんな彼が、「宗教学者」として、自らの信仰(キリスト教)を、最初に研究対象としたのは、ごく自然なことで、なにも珍しい話ではない。
同様に、多くの信仰者宗教学者は、自らの信仰を正当化するために、宗教研究を始めた。と言うか、自分の信仰は絶対的に正しいのだから、絶対に好ましい研究結果しか出ないという前提で、わが信仰たる「キリスト教」の研究を「神学」として始めたのが「宗教学」の始まりなのである。

しかし、近代に入って、キリスト教神学者ではない者や、キリスト教の信者でない者までが、宗教学に加わってくると、キリスト教にとっては「何かと不都合な研究成果」も出てきた。
これは、キリスト教信者ではない者にとっては、いわば「分かりきった話」なのだが、絶対に不都合な事実など出てこないと信じていた人たち(信者兼研究者)には、たいへん困った事態であり、さて、そこでどうしたか。そう、その多くは、研究成果を、自身の信仰に都合の良いように、ねじ曲げて解釈したのである。これが「護教的」と呼ばれる研究態度なのだ。

しかしまあ、人間は弱いものだから、自分たちに不都合な事実が出てきたら、そこから目を逸らしたいし、無かったことにしたくもなるだろう。じっさい、キリスト教神学者の多くは、「宗教学」を含めたすべての近代的諸学問の成果について、自身の信仰を守るために(という自己正当化において)、そのような態度を採ったのだが、ヒックはそれをしなかったのである。

端的に言えば、ヒックは自らの信じた「神」と、キリスト教の正統神学の語る「神」とを、区別したのである。
世界にいろいろな宗教があり、いろんな神がある以上、狭い西欧世界の中だけで特権的な地位を得て自足していたキリスト教の教義は、グローバルな時代に、そのままのかたちで生き残ることは出来ない。宗教相互に教義的矛盾がある以上、真実とは「どれか一つが正しくて、後はすべて虚妄」と考えるか、ヒックのように「すべては、一つの神の解釈の違いでしかない」とするかの、二つに一つでしかないのだ。

もちろん、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、仏教徒など、それぞれの「本音」は、前者の「うちだけが正しい」であるが、今の時代にそんなことを、責任のある立場の者が公言することなどできないので、多くの信仰者とその代表たちは「本音と建前」を使い分けることで、自身の「個別信仰」をそのまま温存しようとしているのである。

しかし、このような態度が、きわめて偽善的だというのは、言うまでもないことだろう。
本気で、誠実に「現実」と向き合うのならば、「多様な、宗教=多様な、世界の真相提示」という「矛盾」に対しては、
(1)徹底的に自宗派の主張の唯一正当性を語って、他宗教をすべて論破否定するか、
(2)ヒックのように、すべての宗教の本質は一つであり、そこを追及すべきだとするか、
(3)宗教はすべて虚妄だとするか、
の三択しかないのである。

つまり、
(1)は、「日蓮的折伏主義あるいは異端審問的独善正統主義」、
(2)は、ヒックの「宗教多元主義」、
(3)は、「無神論」
ということになるのだが、前述のとおり「現在のメジャーな宗派」は、本音は別にして、建前的には(1)を選べず、(1)と(2)の間で曖昧に誤摩化しながら、自身の固有信仰の延命をはかっている。
(1)と(2)は、「自身の信仰に対する態度」が大きく違うとは言え、「信仰を持っている」いう点では同じだから、その点で「世間の目」を誤摩化せはする。だが、どうしたって(3)とだけは折合えない。

しかし、(1)と(2)の間で、その「根本的な態度の違い」を曖昧に誤摩化しながら延命をはかっている「現在のメジャーな宗派」の代表である「キリスト教」にとっても、感情の上では、(3)よりも、(2)の方が「目障り」なのだ。なぜならそこには「近親憎悪」の感情が働くからである。

(3)の「無神論」は、たしかに「敵対的な存在」ではあるけれども、ある意味でまったく異質な存在であり、いわば「相手にしなくてよい、無視すべき敵」だと考えることもできる。だが、(2)のヒックのような立場は、なまじ「身内」であり、そこから自分たちの信仰に「反省」と「修正」を要求してくるから、鬱陶しくてしかたがないのだ。
そのため、キリスト教徒の多くは、ヒックの「宗教多元主義」に言及するときは、本音では「あれは異端派だ。地獄に堕ちろ」と思いながらも、いまどきそんなことも言えないから「あんな中途半端な折衷案は、信仰の名に値しない」といった、ことさらに見下した物言いで、にべもなくあしらっては、「正統」派ぶって見せるのである。

このように、「誠実な神信者」としてのヒックは、その「誠実な信仰」のゆえに、大変に損な立場に置かれている。
ホームベースである「キリスト教」からは「他宗教に日和見した折衷主義の異端者」扱いにされ、「無神論」者からは「見苦しく宗教の延命をはかるエセ学者」扱いにされて、両者の挟撃に遭っているからだ。

しかしながら、「宗教」を「完全に肯定もしなければ否定もしない」という、多くの「一般の人たち」にとってなら、ヒックの態度は「中庸」なものとして、肯定的に見ることもできるだろう。ヒックは、そのような「宗教」と一線をひいた人には、たいへん馴染みやすく、押しつけがましさのない「宗教」理論家だとも言えるのである。

もちろん、私は「無神論」者だから、ヒックの「信仰」に対する態度には「不徹底」だという不満はあるものの、しかし、多くの「キリスト教徒」の無反省かつ欺瞞的な態度に比べれば、彼は彼なりに彼の信仰を誠実の貫いたのだと評価できるし、その「人としての誠実さ」をこそ、私は高く評価したいと考えるのである。

初出:2020年1月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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