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石川明人 『キリスト教と日本人 宣教史から 信仰の本質を問う』 : 信仰ゆえの懐疑と 妄信ゆえの頽落

書評:石川明人『キリスト教と日本人 宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書)

本書の眼目は「信仰とは何か」という、極めて本質的な問いだ。しかし、だからこそ、この問いの意味を、まともに理解できる日本人は、ごく少数だろう。

なぜなら、信仰を持たない日本人は、そもそも「信仰とは何か」などという問いを、真剣に自身に問うたことがないし、信仰を持っている者でも、その9割がたは「わが仏は尊し」という態度で漫然と自身の宗教宗派に自足しているか、あるいは、もっぱら自身の宗教宗派を正当化することしか考えないからである。

著者が問うているのは「その宗教宗派は、無条件に、何の問題もなく、妄信して済ませられるようなものなのか」という、きわめて真っ当な問いである。
というのも、宗教ほど人殺しを正当化してきたイデオロギーも他にはないのに、いつでもそれは「過去の話」にされてしまい、「本来、わが宗門は、そういうものではない」などと、臆面もない自己正当化をして恥じない類いのものが、ほとんどだからである。

著者は、キリスト教徒(プロテスタント)なのだが、キリスト教が、自己喧伝的に語りがちな、無条件の「愛の宗教」なのか否かを、歴史的に検証して、およそそんなものではないという事実を、みずから暴いて見せる。
これは、非クリスチャンのキリスト教批判者であれば、ごく当たり前にやることだが、キリスト教徒だとこれが出来る人は、めったにいない(特に、カトリックは教義理解に関して上命下達式なので、これが出来ない)。
その点で、著者のキリスト教の歴史的検証は、キリスト教の信者として、勇気のあるものだと評価していい。

しかし、著者の目的は、単なる「歴史的総括」などではない。
著者が「歴史的総括」を行ったのは、まず「信仰の現実の姿」を確認した上で「では、そんな宗教を、何の疑問もなく妄信することが、正しい信仰の姿だといえるのか?」と問うためなのである。(したがって、本書は「日本キリスト教史おまとめ本」などではない)

著者は、本書を誰に読ませたくて書いたのか。それは言うまでもなく、まずは「日本人キリスト教徒」であり、次には「あらゆる宗教宗派の信仰者」ということになろう。
「近親憎悪」とは言わないまでも、キリスト教徒たる著者が、最も不満を感じるのは「身近な同信者」なのである。

著者はキリスト教徒だし、ここは日本だからこそ、まず読んでほしい読者は「日本人キリスト教徒」であり、さらに言えば「キリスト教信者であることに、のほほんと胡座をかいて、信仰について真剣に考えよう(向き合おう)ともしない、日本人クリスチャン」ということになる。ハイデガー風に言えば「日常に頽落している日本人クリスチャン」だと言ってもいいだろう。

本書における著者の問いとは、

「あなたは、自身をクリスチャンだと言い、そう自己規定して、口では『神を信じている』と自信満々に言うけれど、しかし、だからといって宣教史すらまともに学ぼうとはせず、ましてやその歴史の暗部から目を逸らして恥じない、そんな逃げ腰の信仰、教会の公式見解に盲従していればそれで安心満足、という弛緩しきったその信仰に、なにも疑問は感じないのか? 教会における優等生であれば、周囲の同信者に評判さえ良ければ、それが正しい信仰者の姿だと、本気でそんなことを信じているのか? イエスが求めた信仰とは、そんなものだったと思うのか?」

といったふうに、まとめてもいいような、本質的にきわめて辛辣なものなのだ。

『(※ 隠れキリシタンの研究家で、カトリック信者の)宮崎賢太郎は、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』のなかで、一六〜一七世紀の民衆キリシタンのほとんどは、領主の世俗的な目的のためになかば強制的な集団改宗によって生まれたのだから、キリスト教の思想や教えなどはほとんどわかっておらず、「真正なキリスト教徒たりえなかったのはごく自然ななりゆき」だったと述べている(四〇頁)。
 宮崎によれば、「受洗したおおくの人びとが心から回心して、敬虔なキリシタンになったというイメージを抱いている現代人が多いが、それは作りあげられた幻想にすぎない」(八三頁)というのである。
 この指摘は、基本的には正しいと思われる。だが、キリスト教を正確に理解していたかどうかが怪しいのは、かつての日本のキリシタンたちだけではない。
 同じ時代のヨーロッパの民衆キリスト教徒たちは、キリスト教が今よりはるかに大きな影響力をもつ社会に生きていたが、それでも「三位一体」の教義や、四つの福音書のあいだの差異や、パウロの言葉の意味などについて、きちんと理解し、他人にしっかり説明できたとは考えにくい。』(P249〜250)

ここに書かれいているのは、「教義を正しく理解している者こそが、真のキリスト教徒だ」という、バチカンに留学して神学を学んだ、日本人エリートカトリックの宮崎らしい「建前的なキリスト教徒」像に対して、「歴史的事実としてのキリスト教徒」像を対置し、その「現実無視」ぶりを批判するものである同時に、「では、キリスト教徒であることの本質とは何なのか?」という問いでもある。

じっさい「現在の日本人キリスト教徒」も、「三位一体」の教説や「共観福音書」間の異同について、非クリスチャンである私以上にその意味を説明できる者など、そう多くないだろう。そもそも今の日本人クリスチャンには、聖書を通読したことのない者さえ珍しくないというのが、現実の姿なのである。

しかしまた「神学的知識(あるいは聖書学的知識)があれば、優れたキリスト教徒」だなどと言えないのは、宮崎賢太郎の例にも明らかだろう。
ほとんど教義的には無知であっても、その信仰姿勢と生き方において(カトリックでは)「聖人」認定された者がいる反面、学識を鼻にかけた学者信者が「信仰における、最も大切なもの」を見失うなどということは、ごくありふれた人間的事象であって、だれにも思い当たるところだろうと思う。
つまり、当たり前の話なのだが、「真の信仰」とは「知識の有無」などではないのである。

どんな宗教でも、その教義と信仰のあり方を、完全に理解してから入信する者など、皆無だと言って良い。
そもそも「完全な理解」など、入信した後でだって、できる相談ではないのだから、ほとんどの者は、よくわからないなりに入信し、入信してからの学びや実践のなかで、回心や確信を得たり得なかったりするものなのだ。

しかしまた、宗教とは、このように「完全な理解(知解)」を前提とはしないものだからこそ、そんなものは信じられない、それに人生を賭けることなどできないと慎重に考える「理性的な人」がいても、何ら不思議ではないのである。

それでは、宗教とは、いろいろな宗教がある中で、たまたま出会って、素人なりに「良さそうだ」と感じただけで、それに身を投じることができるような、軽率な「博打打ち」しか救えない、そんないい加減なものなのだろうか。
だとすれば、そんなものは「この世界の普遍的真理」としての宗教の名に値しない「趣味的物語」に過ぎないのではないか、ということにもなる。

だからこそ、著者は、本書における過渡的な結論の一部として「信仰とは、妄信のことではない。神の存在や教義に疑いを持っても、それでも神を求める気持ちがあれば、それこそが信仰なのではないか」というところまでは語ってみせる。

無論、無神論者の私からすれば「求めた先に、神がいるという保証など無いんですよ。むしろ、存在しないからこそ、無限の探求も可能になるだけでしょう」と意地悪な追及をするだろう。
しかし、それでも「信じるが故に、疑うことすら怖れない」のが「真の信仰」なのだろうとは、私も思う。

著者の信じるものに、私は同意しないけれども、しかし少なくとも「強信者のふりをして、知ったかぶりでカッコばかりつけている、よくいる二流三流の(俗物)信仰者たち」に比べれば、「信ずるが故に求め、求めるが故に疑い迷い、それでも求めていく」という、著者の考える信仰者像の方が、人間の生き方として、すぐれて崇高であり、信仰者の名に値するものでもあろうと思う。

ただ、著者のような本質的に先鋭な立場というのは、「凡百のぬるま湯信者」たちには、そうとう目障りなものであろうことは想像に難くない。
本書に微妙なケチをつけたがる者(そして、著者の「陰口」を叩く者)というのは、間違いなく「凡百のぬるま湯信者(キリスト教徒)」の類いであろう。そこでは、信仰は、俗物的な保身性すら超克できないのである。

初出:2019年7月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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