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石川明人 『宗教を「信じる」とは どういうことか』 : 耳をくすぐる 「悪魔の囁き」

書評:石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』(ちくまプリマー新書)

本書著者については、以前に1冊読んでおり、レビューも書いている。

4年前(2019年)に刊行された『キリスト教と日本人 宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書)のことで、そちらについては、きわめて肯定的な評価を与えたのが、残念ながら今回は、まったく評価できなかった。

わかりやすく言えば、著者は「信仰の罠」に囲い込まれて、かつての「先鋭さ」を失い、完全に「堕落」してしまっているのだ。

しかしながら、表面的には、かつての「先鋭さ」を残してはいる。
だがそれは、所詮「形骸」でしかなく、中身がない。

完全に「鋭さ」を失った「鈍(なまくら)刀」だからこそ、「耳に痛いこと」を言っているようでいて、同信者からは容易に「好意的な評価」のもらえる、「いっけん薬に見えて、じつは毒」といった内容になってしまっている

そして、この事実は、本書の「Amazonカスタマーレビュー」に、一目瞭然なのだ。

本書は、信仰を突き詰めること(求道すること)が出来ずに、おめおめと「中途半端な信仰」を生きているクリスチャンたちに対し、「悩んでいるあなた。中途半端なあなた。でも、それでいいんだよ」という「信仰的良心のアリバイ(言い訳)」を提供してくれる、そんなお易くも便利な「空手形の書」になってしまっている。

そうした意味で本書は、「宗教信仰」というものが、いかに「老獪な欺瞞」であるかを、作者自身が身をもって(興味深い「症例」として)教えてくれているのだ。

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本書の手口は、詐欺師のそれに酷似している。
どんな手口かと言うと、

あんなきれいごとの建前なんか、とても信じられませんよね。私だって、信じられません。人間、そんなもんじゃないというのは、正直な人間にならば、わかりきった話ですよ。だから、そんなきれいごとに大真面目にかかずらわる必要なんてなくて、もっと、手近なことから楽しくやればいいんですよ。それも、いや、それこそが人間の信仰なんです」

というような「手口」だ。
わかりやすく言えば、「詐欺への警戒をうながす警察官になりすます詐欺(欺瞞を批判する欺瞞)」という「二重の欺瞞」である。

なお、ここでの『あんなきれいごとの建前』というのは、無論、キリスト教の掲げる「愛の宗教」だとか「救済の宗教」だとかいった、(少数例外的個人を除いて)現実的実践のまったく伴っていない「キリスト教的な理想」のことである。

信仰者というのは、おおむね「真面目」ではあるのだが、基本的には「(権威に)すがりたい人」たちだから、「理想」に憧れつつも、それを「実践」できないでいるし、そんな自分に「後ろめたさ」を感じてもいる。

また、そんな「自己不信」を抱えているからこそ、「この信仰は絶対だ。私はそう確信している」などと、現実的根拠を持たない「断言」を口にして、自他を説得しようと試みるのだが、その結果、他者からは「あいつらは、きれいごとの建前ばっかりで、ぜんぜん実践が伴っていないじゃないか」という批判を招くことにもなる。

しかし、教会へ行けば「きれいごと」が語られて、十全な実践はできなくとも、そっちの方向を目指して頑張れというような趣旨のことを、キリスト教らしく「やんわり」と指示されるものだから、多くの信徒というのは「自分は、しっかりした信仰を持っていない、ダメな信者だ」という「負い目」を、なかば無意識的にではあれ、持ってしまっている。

そこへ、本書著者のように、「教会の現実」「信者の現実」「信仰の現実」を遠慮なく指摘し、その上で「信仰なんてそんなものですよ、実際のところ」と恐れげもなく言い、「だから、信仰なんて、実態のない虚妄なんだから、勇気を持って捨ててしまいなさい」とは言わず、むしろそれとは真逆に「まあ、信仰とひと口に言っても、人それぞれに色々あるというのが実際なんだから、あなたもそう堅苦しく考えずに、肩の力を抜いて自分らしくやればいいんです。私もそうやって信仰を続けてますし、むしろそうした態度の方が、正直なのですよ」なんていう一見「ものわかりが良く、優しいげな言葉」をかけてくれるのだから、「ぬるい信仰」に生きているたいがいの信者たちは、そんな言葉に心からホッとして、自身の「現状追認」を行い、問題意識や当然の(実践や思考)努力を、安心して「放棄してしまう」のだ。

 ○ ○ ○

本書のタイトルは『宗教を「信じる」とはどういうことか』というものだが、これは「その答えを示してあげますよ」ということではない。
そんなことを、本当にやってしまったら、著者は、自身のキリスト教信仰を捨てることになってしまうからだ。

つまり、本書でなされているのは、前述のとおり、次のようなことである。

「ひと口に〝信じる〟と言っても、それは色々であって、むしろ『これこそが〝信じる〟ということであり、それ以外は、信じているなどとはとうてい呼びがたいものだ』、なーんてことではないんですよ。だから、あなたはあなたなりの信じ方でいいんです」

というお話であり、要は「あなたは、あなたのままで良いんです。人間だもの」というわけだ。

しかし、言うまでもないことだが、「キリスト教信仰」というものが、「人それぞれでいい」とか「何でもあり」だというのは、「嘘」である。

「キリスト教信仰」というのは、きわめて厳格な「理想」を信者に課している。
例えば「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」。

一一でも、そんなこと「なかなかできることじゃない」というのも言うまでもないことであり、だから現実には、多くの信者は、そんな「教え」を守っていないし、本書著者も指摘するとおり、すでに、「守らなければならない教え」だと思ってもいない。

しかし、だからと言って、「まあ、あれは理想ですから、自分なりに解釈して、自分なりにやっていけばいいんですよ」なんて考え方が、「キリスト教信仰」として「正しい」と言えるのか?

無論、そんなものが、正しいわけなどないのだ。

「イエスの教え」に「従えない」というのは、原罪を背負った凡夫の「弱さ」ゆえであり、それは、ある意味では仕方のないことだ。
信者たちは、イエスのように「三位一体の神」が肉化した「神人」なんかじゃないんだから、イエスの語る「理想」を、完璧に実践できないのは、むしろ当然であり、だからこそ肝心なのは、「完璧にやれない」としても「少しでもやろう(実践しよう)」と努力すること、要は「そういうものに、私はなりたい」と心から願うこと、つまり、「祈り」なのである。

言い換えれば、「イエスの教え」に「従えない」、つまり「従おうとして、従いきれない(から、次はもう少し頑張ろう)」というのは、正しい「信仰のうち」なのだ。

ところが、本書著者は「従えなくてもいい(のですよ。人間だもの)」と言い、「それ(従わないこと)も、信仰のうちなんだ」というような言い方をしているのだから、こちらは所詮「耳障りの良い、気休めの詭弁」でしかなく、じつのところ、これこそが「悪魔のささやき」というものなのだ。

そして、ここで真に問われるべきなのは、「イエスの教え」に「従おうとして従えない」のだとしたら、それは、「従えない自分」がどこかで間違っているのか、それとも、そもそも「イエスの教え(求め)」の方が間違っている(人間には不可能な要求な)のかという、「根源的な問い」だ。

「宗教信仰」というものは、もともと「ありのままの人間(自然的存在)」を超えたもの(超越的存在)を求めるところにあるものなのだから、「ありのままの人間で良い」などと、するわけがない。
しかし、だからと言って「ありのままの人間」を超えていくことが困難であるというのもまた、自明な事実。
つまり、重要なのは、この「矛盾の自覚」なのだ。

「宗教が宗教たる所以」とは、「この信仰をもてば、それが可能だ(=不可能が可能になる)」と保証するところにある。
だから、信者は、その言葉を信じて、「世俗の人間」以上のものになろうと努力し、その結果として、救われることを求めるのだが、本書著者は、そうした「信仰の原理」を否定して、ただ「無内容に信仰にしがみつくこと」で良しとしているのである。

言い換えれば、「教えに忠実たらん」とすることよりも、「信者という肩書き」に執着し、それを「保ってさえいれば、ひとまず裏切り者になることはない」と、そう考えている。だから、君もあなたも「それでいいんだよ」と言うのだ。

これは、自分一人だけでそんなことを言っていると、当然、真面目でまともな信者から批判されるのは目に見えているから、惰弱な信仰しか持たない者を「仲間として結集する」ことで、その「頭数」をもって「これもありでしょ?」と、そういうことにしたいのである。

だが、繰り返すが、この「なかなかできないよね、でも、それでいいんだよ。人間だもの」というスタンスは、すでにして、「信仰」を否定するものでしかない。

これは、「イエスの教え」を軽んずる「アンチ・キリスト」であり、この「軽んずる」というスタンスは、「イエスの教え」を真っ向から「否定する」よりも、むしろ、イエスの立場から遠いもの。つまり、本書著者の立場とは、悪い意味での「人間主義」なのである(=人間中心主義)。
「神」の前に、「人間」という偶像を立てるという、典型的な「異教」に他ならないのだ。

「信仰」というのは、元来、厳しいものであり、容易なのものではない。誰にでも容易なことであれば、そもそもそんなものには、何の価値もないだろう。

だが、だからこそ、多くの「弱い信者」は、「信仰の内実」ではなく「肩書き=免罪符」に固執する。

「この信仰が真理だからこそ信仰するし、そうでなかったと分かれば、当然その信仰を捨てる」というのではなく、「この信仰が真理であろうとなかろうと(例えば、悪魔崇拝であろうとも)、このコミュニティの中で人間関係を持ってしまったからには、他に出ていくことなんて、怖くてできないから、信じていなくてもここにとどまるしかない」

そんなふうに感じている、「大審問官」ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』)のごとき、本書著者の言葉は、「不信仰者」にとって、思わずすがりつきたくなる、「悪魔のささやき」に他ならない。

しかし、そんな信仰を、「神」は嘉し給わらない(となさらない)のである。

『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

(「ヨハネの黙示録」3:15-16 新共同訳)』


(2023年5月23日)

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