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C.S.ルイス 『悪魔の手紙』 : ルイスの悪魔堕ち(憑き)、 あるいは 自己賛美とルサンチマン

書評:C.S.ルイス『悪魔の手紙』(平凡社ライブラリー)

本書のカスタマーレビューの中では、「Amazon カスタマー」(※ 現在は「すずすけ」)氏の『「乾杯の辞」にルイス自身の偶像崇拝が垣間見える』が際立って優れており、その指摘には大筋において共感同意する。これは凡百のクリスチャン読者には書き得ない、本質的な批評だ。

その上で、非クリスチャンである私がつけ加えられることは、「乾杯の辞」に表れたルイスの問題点は、果たしてルイス個人の『偶像崇拝』の問題なのか、という疑問だ。
言い変えれば、これはキリスト教そのものの問題点が、ルイスという優れた護教的作家においても「乾杯の辞」という形で、思わず露出してしまっただけではないのか、という疑いである。

「悪魔の手紙」本編の方は、悪魔の口を借りて語ることにより、嫌味なくキリスト教を賛美する「護教的作品」になり得ている。
自分の口では憚られる「自慢話」も、敵の口を借りて反語的に語ることで、嫌味な自慢話には聞こえなくなってしまうからだ。
まさに、魅力的な悪役(悪魔)の活躍こそが、主人公(神)の輝きを、より引き立てるのである。

もちろん、このような手法を使えば誰にでも「(キリスト教的)自己賛美」が出来るなどということではない。こうした手法が十二分に成功したのは、ルイスの「人間の弱さ(の現実)」に対する鋭過ぎるまでの洞察があったればこそである。

しかし、そんなルイスをもってしても、現実のだらしない人間たち(主に庶民)とその社会を目の当たりにすると、本音では、口を極めて貶したくもなる。
だが、弱者をこそ愛し救おうとする、というキリスト教の建前があっては、自身のそうしたルサンチマンを剥き出しで解放するわけにもいかない。
そこで「そういう汚れ役は、私にお任せあれ」と登場したのが、ルイスの旧友であった、悪魔スクルーテイプだった。

彼は言う。「私は悪魔としての自論を展開しながら、貴方の代弁者としてお役に立てます。なにしろ悪魔は、本質的な悪でなどなく、所詮は貴方の神の仕事を、究極的にはお助けする、哀れな存在でしかないのですから」。

この甘言に乗って、ルイスは「乾杯の辞」を書いてしまった。
そして、慧眼なクリスチャンからは「これはちょっとマズいな」ということになってしまった。
だから、この問題は、ルイス個人の問題として処理されねばならない。いくらルイスが著名人であり、利用価値の高い護教家であろうと、彼とて人間であれば(ローマ教皇でもないのに)「不可謬性」など持ちあわせるわけもないのだから、彼の「大衆憎悪」は、彼個人の問題であるとして処理されねばならないのだ。

そして、こうした問題処理の仕方は、ローマ教会、カトリックの歴史のなかで、伝統的にくり返されてきたことであって、何も目新しいことではない(かの天使博士トマスですら、一部の見解に間違いがあったと非難された)。
仮にローマ教会自体が、ルイスと同様の「反近代主義」や「反民主主義(階級社会擁護)」のかたちで大衆(社会)憎悪を表明してきた事実があるとしても、ルイス個人の問題まで教会が引き受けるわけにはいかない。なにしろ教会は「不可謬」だからである。

しかし、こうした世俗的自己正当化のドタバタ芝居を見て、腹を抱えて笑っているのは、他でもないスクルーテイプだというのは、もはや指摘するまでもなかろう。


初出:2017年6月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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