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ウィリアム・ウッド 『異端の 反三位一体論に答える ― 『エホバの証人』を中心として』 : 無信仰者から見た、 ムラ内論争

書評:ウィリアム・ウッド『異端の反三位一体論に答える ―『エホバの証人』を中心として』(いのちのことば社 )

結論から先に言っておくと、本書は「キリスト教ムラ内用の本」であり、関係者には大層重要な問題を扱った本だが、部外者には「話にならない議論」の書である。

本書の議論の前提となる「三位一体」論を、簡単に説明しておこう。

カトリックやプロテスタント諸派といった、一般的に言って「キリスト教正統派」にあたる人々が信奉している教理に「三位一体論」というのがある。
これは、キリスト教の「神(主)」は「父(エホバ・旧約聖書に描かれた唯一神)と子(イエス・キリスト)と聖霊」という「三つの位格を持っていて、このように違った現れ方をするが、別存在ではなく、一体の存在である」という「神秘的教説」だ。

「聖書」というのは、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書(当然、キリスト教側の呼び名)」と、ユダヤ教の分派であるキリスト教が独自に作った「新約聖書」の二部からなる本で、なんでこんな面倒な構成になっているかと言うと、それはユダヤ教の分派であるキリスト教の側からすると「イエスは、旧約聖書でその出現が予言されていたキリスト(救世主)である」という立場を採っているからだ。
つまり「イエスの生涯」や「パウロのイエス・キリスト論」などを収めた「新約聖書」の正統性を担保するための、古い権威ある書(証拠)としてユダヤ教の聖典が「旧約聖書(古い契約の書)」として、聖書に収録されているのである。
もちろん「旧約聖書」のどこにも「ナザレにイエスという男が現れるが、それがキリストである」とは書かれていない。「こんなふうな感じのキリストが現れるよ」という預言がいくつかなされているだけなのだが、「それがイエスのことだ」と後で主張したのが(ユダヤ教の分派として出発した)キリスト教なのである。

ただ、この主張には、少々問題がある。
と言うのも「旧約聖書」には、「神は、イスラエル民族の守護神である、エホバのみである(神はただ一人であり、それ以外は偶像=偽物の神)」と語られているので、イエスを「神から遣わされた、救世主という名の神の僕(あるいは預言者の一人)」と認めるだけなら良いのだけれど、イエスを「主(わが神)」とまで認めてしまうと、「旧約」の「エホバ=唯一神」論から外れて「二神論」になってしまい、ユダヤ教の教義からすると「イエス・キリストは偶像である」と言うことになってしまう。

さらに「新約聖書」には「聖霊」という、よくわからない「神のはたらき(っぽいもの)」まで登場して、それも「神」だと言われている。

こうなると、ユダヤ教からすれば、イエスを主(神)として「新しい契約」だなどと主張するキリスト教は、単なる「多神教」であり「唯一神信仰に違背する、偶像崇拝の異端だ」と言うことになってしまう。

そこで、キリスト教の側は「いや、我々の信仰は、多神教ではなく、唯一神信仰です。父と子と聖霊は、別々の三つの存在ではなく、旧約聖書の教えるとおりの、一つの神なのです。ただ、三つの位格をもって表れる(人間にはそう見えるだけ)なのです」という、私のような無信仰者には「後づけの強弁」としか言えない理屈を、長い間の正統教義論争を通して練り上げ、最後は「それを信じる者だけが、正統なキリスト教信者である(それ以外は異端だ)」と、教会会議で決めてしまった。
で、その「決まり」に従っているのが、今の「正統派キリスト教諸派」であるカトリック(および東方教会)やプロテスタント諸派なのだ。

このように、「三位一体論」というのは「キリスト教(イエスは主である)は正しい・教会会議で決まったことは正しい」ということを大前提とする「無理のある教説」なのだ。

そして、そういう正統的キリスト教諸派に対し、「神はエホバだけ」であると「旧約聖書」の記述に準じて主張するのが、新顔の「エホバの証人」なのである。

本書は、エホバの証人よる反「三位一体論」(「三位一体論」批判)に反論すると同時に、この批判に動揺するであろう、キリスト教の教義にも歴史にもあまり詳しくない、キリスト教の一般信徒へ向けて書かれた「正統派の三位一体論」の入門書なのだ。

『エホバの証人は、三位一体の教えを、複雑で、わけのわからない教えとして攻撃します。そして、自分たちこそ神を理解し、誰にでも神のことをわかりやすく説明できると言います。しかし、実際に、彼らは偉大なる神を人間レベルに引き降ろして、小さくしているのであって、結局のところ、多くの謎を作り出しているのです。』(本書P142)

キリスト教正統派に比べ、後発のエホバの証人は、歴史がないからこそ、歴史的にでっち上げられた三位一体論の無理を指摘することで、正統派を批判できると考えたわけだ。これは、議論の聞き手を「キリスト教徒以外」にまで広げれば、正しい戦略であろう。
しかし、彼らとて「自身こそ正統的な神のしもべだ」と考えているからこそ、自身の立場の正統性を担保するために、(内部的権威づけとして)「聖書の権威」に頼ろうとする。自身たちの「正しい読み」を示そうとする。だか、そこが弱点に転化してしまう。

と言うのも、「聖書」とは「キリスト教主流派が、自身の正統性を示すために、でっち上げたり、各種文書を取捨選択して、編纂した書物」なのだから、もともと、主流派=正統派の解釈を正当化するように作られている。
だから、「聖書の権威」を認めるという枠内において、それをエホバの証人の立場に引き寄せようとすれば、原理的に無理が生じ、そこを正統派に突かれて反論されてしまうからだ。

つまり、三位一体論だけがおかしいのではない。もともと神だのキリストだのといった超自然なお話そのものに、論理的な無理(原理的非論理性=無前提的決定)があるのだ(事実、キリスト教は「神は人間の知性では、完全には理解できない。三位一体の教説も、信じることが前提となった議論である」と認めている)。
その「根本的な無理」は黙認しておいて、「一部の無理=三位一体論」を批判したところで、所詮つじつまは合わない。もともと、三位一体論とは「つじつま合わせの産物」なのだ。
その結果、デタラメな「聖書的ダブルスタンダード」に開き直る、老獪な正統派の方が「デタラメなりのつじつま合わせ」が出来ているということになってしまう。

事ほど左様に、「三位一体論」をめぐる批判反批判とは、どっちにしろ部外者には、目くそ鼻くそを嗤う、非論理的論争でしかないのだ。

だが、キリスト教の歴史や神学、聖書学などにほとんど馴染みのない(聖書を通読した事のない人も多い)「大半の一般信者」を動揺させないためなら、こういう「部外者」には馬鹿馬鹿しい議論も「内部政治」的には極めて重要なのであり、こうした「政治性」こそが、キリスト教神学の本質だと言っても、あながち過言ではないのである。

ともあれ、本書を誉める人は、キリスト教正統派に所属する人であり、党派的に誉めているに過ぎない。
彼は間違いなく「客観的第三者」ではない。

数少ないであろう一般読者(無信仰の読者)は、自身の立場を明示しないで、信仰書を語る(評価する)論者やレビュアーは、信用しない方がいい。宗教者は「隠し事が多い」のだ。

初出:2017年2月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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