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西山俊彦 『キリスト教は どんな救いを約束しているのか 愛の福音が 真価を発揮するための 一石』 : 神聖喜劇 —— カトリック界の東堂太郎

書評:西山俊彦『キリスト教はどんな救いを約束しているのか 愛の福音が真価を発揮するための一石』(文芸社)

すごい本である。十年に一冊どころではない。まずはそう断言しておこう。

その証拠の一つとして挙げられるのが、本書が自費出版系の文芸社からの出版という事実である。「なんだ、自費出版か」と思った人もいるだろうが、事実の意味するところは、その逆である。

著者は、カトリックの学者として立派な肩書きを持ち、平和運動家としての実績もあり、これまでキリスト教系の出版社から何冊もの著作を刊行している人である。
しかし、著者の誠実な論理性と剛直な精神は、カトリック界の保身的組織防衛主義に発する欺瞞への呵責のない批判としてあらわれ、その結果、近年その著書の刊行が困難を極めた結果、キリスト教界とはしがらみのない文芸社が、中身本位で著者に手を差し伸べ、本書の刊行がなったのだ。

つまり本書は、カトリック界が世間に知られたくない事実を、明晰な文章によって赤裸々かつ論理的に語った「内部批判」の書なのだ。
昔ならば、著者はカトリック教界から破門され、本書は「焚書」にされ、証拠隠滅の憂き目にあっただろう。そんな重要貴重な本なのである。

『本書主題の提起展開は、直接的には、宗教集団、世界最大のそれの信憑性を問うものである。』(P462)

著者は、敬虔なキリスト教信者として、カトリック教会が正しく機能しているのか否かを検証し、誤っているところは謙虚に正すべきだと、当たり前の主張をしているにすぎない。
しかし、カトリック教会の誤りがその「教義」にまで至り、その教義を認めなければ「破門」にするとまで規定されている現実があるために、教義を厳格に思考すべき神学者ですら、その誤りを公然と指摘することは出来ないのだ。
それこそ、自身の信仰に、理路整然とした正統性と自負を持たないかぎり、世俗的評価や栄達を棄てる覚悟がないかぎり、カトリック信者としては「死刑よりも恐ろしい破門」の脅しには抗えないのである。

しかし、本書の著者は、カトリックの公式見解の一つである「刷新と現代化」の正統的立場から、それを実践しようとしない、組織防衛第一の保守主義による欺瞞的な世俗迎合主義を、真正面から論理的に批判する。だから、カトリック界は、教職を退き一司祭として「正論」を投げかけてくる著者を公然と処分することが出来ず、徹底的に無視することで抹殺しようとしている。
これが本書成立の背景である。

私は、本書で初めて著者西山俊彦を知った。そして、その論理的かつ剛直な精神に、私が「心の師」と仰ぐ小説家大西巨人に通ずるものを感じ、その奮闘に、大西の代表作『神聖喜劇』の主人公である陸軍二等兵・東堂太郎のそれを重ねて読んだ。

東堂太郎は「軍隊」の中で、その理不尽・不条理に対し、博覧強記と論理性をもって抵抗する。
先の戦争における日本の「軍隊」の現場が、いかに歪んだ権威主義と精神主義の「特殊空間」の様相を態していたとしても、そこには厳然と「軍規」が存在し「理想」や「あるべき姿」が各種の文書となっていた。藤堂太郎は、そうしたものに通じ、それを根拠に「軍隊」の歪みに敢然と抵抗したのである。

戦後の軍隊小説としては、野間宏の『真空地帯』という名作がある。『真空地帯』では、「軍隊」は人間を非人間へとスポイルしてしまう特殊空間としての「真空地帯」として描かれる。つまり「軍隊」は「世間(軍隊の外の世間一般)」とは本質的にちがった特殊空間であったと主張されているのであるが、大西巨人はこれに異を唱えた(『真空地帯』論争)。軍隊もまた「世間」の一部であり延長でしかなく、本質的な違いはない。むしろ、「軍隊」は「世間」に伏在している問題性を剥き出しにしてみせる場所であり、その意味で「軍隊」の問題を描くことは、世間一般の、そして人間一般の問題を描くことに他ならないと主張し、その実証作として、埴谷雄高の『死霊』と並び称される、戦後文学の巨峰『神聖喜劇』を、20年の歳月を費やして完成させたのである。

さて、本書『キリスト教はどんな救いを約束しているのか』の著者西山俊彦を東堂太郎に擬するならば、東堂太郎の「軍隊」は西山にとっての何にあたるのか? 無論それは「カトリック教会」である。
「カトリック教会」は、ローマ教皇(法王)を頂点とする位階制をもった、権威主義的な縦割り組織であり、その意味でも「軍隊」に似ていると言えよう。どちらも「抗命」を絶対に許さず、刑罰をもってそれに報いる、法権力組織である。そうした意味でも「カトリック教会」は、「宗教的特殊空間」であるよりは、「世俗的権威主義組織」に極めて近いし、それは教義的にも当然なのである。
どういうことかと言えば、人間は「すべて例外なく原罪を帯びている」というのがキリスト教の根本教義なのだから、ローマ教皇であろうが、大司教であろうが、高名な神学者であろうが、彼らもまた「原罪」を帯びており、そのために「誤り」も犯す。そして、そんな「人間」たちによる組織である以上、歴史も証明しているとおり、「カトリック教会」もまた多くの「通俗的な誤り」を犯すのである。

しかし、そのカトリック教会が、近代にいたって「教皇無謬論」などというものを「教義」化してしまった。
ローマ教皇が、教皇として世界の信者に発する教義的決定の指導は、聖霊の導きによって「誤ることがない(絶対に正しい)」というのを「カトリックの正統教義」として決めてしまい、これに従わない者は「破門」するとしたのである。

本書の著者が、本書において中心的に取り上げるのは、この「教皇無謬論」の問題であり、「教皇無謬論」を後ろ盾として、近代において教義化された「聖母マリアの無原罪の御宿り」と「聖母マリアの(肉体をともなった)被昇天」説である。
キリスト教に興味を持つ(私のような)非クリスチャンだけではなく、非カトリックのキリスト教徒の多くが、首を傾げるこれらの教義が、カトリックにおいてどのように正当化されているのか、そしてその正当化がいかに非論理的で裏づけの無い根拠薄弱なものであるのか、言い変えれば「信憑性」のない「自慰的」規定であるのかを、著者はカトリックの教義に準じて、理路整然と論証していく。
そして、それに対してカトリック教会は、ただ傲慢かつ不誠実な「無視」で応じている。これが「(現代)カトリック教会の隠された現実」のひとつなのだ。

著者西山俊彦の奮闘は、まさに「神聖喜劇」である。
彼は現代における「神の道化師」なのであろう。


初出:2017年3月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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