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ベネディクト・セール 『キリスト教会史 100の日付』 : 〈教会〉 とは何か?

書評:ベネディクト・セール『キリスト教会史100の日付』(文庫クセジュ)

『本書は、イエスの磔刑から教皇フランシスコの選出まで、二千年の歴史をたどりながら、「教会とは何か」という問いに、多面的なアプローチを試みる。ローマ・カトリック教会のみならず、プロテスタント教会、正教会、世界中の文化圏の教会を結びつけ、教会のさまざまな相貌を描く。』(カバー背面の内容紹介)

『 この「教会史100の日付」は、「教会とは何か」という問いにたいするさまざまに屈折したアプローチにほかならず、教会をひとつの定義のなかに押しこめるのではなく、「教会」という言葉の普通意味するのとは別の意味、もっと広い意味において教会をとらえることによって、教会のさまざまな相貌を描き出そうとしています。』(著者「はじめに」P5〜6)

「教会とは何か?」一一この問いについての、検討必要な範囲の広さを示そうというのが、本書の狙いだと言って良いだろう。
要は「〈教会〉というものの定義を、客観的に考えるためには、じつはこんなに幅広い検討必要な範囲があって、本書に示した100の日付は、そのごくごく一例に過ぎないのですよ」という意味であり、言い変えれば「キリスト者の大半は、自教派における、ごく限られた意味での〈教会〉というものしか考えていないという事実を、知って欲しい」ということなのである。

つまり、キリスト教徒の多くが理解しているつもりの「教会」とは、じつのところ「自己中心的な教会定義」に過ぎないということなのだ。
しかし、それでは「キリスト教の真の意味や使命」を知ることは出来ないだろうというのが、中世史を専門とする「宗教と文化の歴史研究」学者である著者の、本書における「問い」だと言えるだろう。

「教会とは何か?」一一通常、非キリスト教徒の日本人である私たちは、この問いについて「キリスト教の寺院のことでしょう?」と答えるだろう。要は「キリスト教徒が宗教行事を行う、建物」のことだ。
無論、これも間違いではないのだが、キリスト教そのものを考える上では、「教会」という言葉は、通常「建物」のことは指さない。
例えば「教会は、こう考える」などと言う。もちろん、ここで言う「教会」とは「建物」のことではない。それは「キリスト教会」という「組織」「集団」の「全体」であったり、その「指導者」の「意志」であったり、それが依拠する「教義(聖書や歴史的積重ね)」であったり、その「正統解釈」のことであったりする。

つまり「教会は、こう考える」というのは「キリスト教会は、こう考える」という意味であり、それは当然のごとく「キリスト教(の正統教義に鑑みれば)、こう考える(ことになる)」という意味なのだが、しかし、すでにお気づきの方も多いと思うが、ここでの「意見」は、おのずと「一つ」ではなくなってしまう。なぜなら「教義解釈」は、多様とならざるを得ないからだ。
だからこそ、キリスト教には、多様な「教派」が存在するのであり、そればかりか「個人」レベルにおいても、「教義の意味解釈」における対立が、現にあるのである。

したがって、「教会」は、実際には「一つ」ではない。
本来「一つである神の教えを、体現する信徒集団」として「一つ」であらればならないはずの「教会」は、実際のところ、「建物としての教会」以上に、(まるでレギオンのごとく)「数多く」(しかし、まとまりなく)存在してしまっているのだ。

しかしまた、そうであるにもかかわらず、その教派指導者も含めて、大半のキリスト教徒は「自教派が唯一正しい」と思っているから、教会は「一つ」であり「他は偽物だ」という「自己中心的解釈」に安住している。

彼らキリスト教徒自身はそれでいいのかもしれないが、私たち「非キリスト教徒」などの「傍目」には、それは単に「分裂教会」でしかなく、「分裂すべくもないはずの〈神の教会〉が分裂しているということは、じつのところ、そもそも〈正統なる教会〉というものが、幻想なんじゃないの(「神」も幻想なんでしょう?)」ということになってしまう。

もちろん、こうした「批判」に対しては、「天上の教会と地上の教会」の区別であるとか「旅する教会」といった考え方によって、この「分裂」はやむを得ない「過程」や「試練」として正当化されたりする。
現実の「地上の教会」が、本来の「天上の教会」と一致するのは、すべての人が「福音」に満たされたとき(キリスト教徒になって救われたとき)だから、それまでは「地上の教会」は「罪を抱える人間の集団」という「不完全なもの」として「神の国」の到来を目指さなければならない、その意味では「地上の教会」は困難な地上の道を「神の国」の実現をめざして「旅する教会」なのだ、といった考え方である。
一一こう考えれば、「地上の教会」の惨状にも、ひととおりの説明がつくのだ。
だが、これが「真理」だという保証は、どこにもない。これはあくまでも「自己申告」による、厳しく言えば「自己正当化」の範疇を一歩も出ない立論なのである。

したがって、非キリスト教徒であり、かつ「無神論者」である私としての、ひとまずの客観的な「教会」解釈とは、「天上の教会」は「幻想」であり、「地上の教会」は「共同幻想にとらわれた人たちの集団組織」でしかない、ということになろう。
キリスト教が、好きとか嫌いとかではなく、客観的に見れば、これがいちばん合理的な説明なのである。

しかし、「神」の実在を信じているキリスト教徒ならば、「神」を辱める「教会の分裂=教義解釈の分裂」という「現実」を蔑ろにすることはできないはずだ。
それならば、信者自身によって貶められた「神」の名誉回復のためにも、信者自身が、本書著者の挑戦に応じて、「地上の教会」の現実を直視し、その「意味するところ」に立ち向かうべきであろう。

「教会とは何か」という「問い」とは、「なぜキリスト教会は、このように四分五裂してしまったのか」という「現実的な問い」に向き合うことなのである。

初出:2020年10月10日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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