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#26 音楽史㉑【1980年代】デジタル革命

クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。

これまでの記事↓

(序章)
#01「良い音楽」とは?
#02 音楽のジャンルってなに?
#03 ここまでのまとめと補足(歴史とはなにか)
#04 これから「音楽史」をじっくり書いていきます。
#05 クラシック音楽史のあらすじと、ポピュラー史につなげるヒント


(音楽史)
#06 音楽史① 古代
#07 音楽史② 中世1
#08 音楽史③ 中世2
#09 音楽史④ 15世紀(ルネサンス前編)
#10 音楽史⑤ 16世紀(ルネサンス後編)
#11 音楽史⑥ 17世紀 - バロック
#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック
#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
#14 音楽史⑨ 【19世紀初頭】ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期
#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
#16 音楽史⑪【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
#17 音楽史⑫【19世紀後半】 普仏戦争と南北戦争を経て分岐点へ
#18 音楽史⑬【19世紀末~20世紀初頭】世紀転換期の音楽
#19 音楽史⑭【第一次世界大戦~第二次世界大戦】実験と混沌「戦間期の音楽」
#20 音楽史⑮【1940年代】音楽産業の再編成-入れ替わった音楽の「主役」
#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ
#22 音楽史⑰ 【1950年代末~60年代初頭】ティーン・ポップの時代
#23 音楽史⑱ 【1960年代中期】ビートルズがやってきた!ブリティッシュ・インヴェイジョンのインパクト
#24 音楽史⑲ 【1960年代後半】カオス!渦巻く社会運動とカウンターカルチャー
#25 音楽史⑳ 【1970年代】交錯する方向性 ~"複雑化"と"洗練"、"反発"と"原点回帰"
〈今回〉#26 音楽史㉑【1980年代】デジタル革命


1980年代のわかりやすい特徴として、今回は「デジタル」をタイトルにしました。

一般にわかりやすい対比として、「自然/機械」「アコースティック/エレクトリック」という対立軸は思い浮かべられやすいと思いますが、注意すべき点として、「デジタル」についてはそこが境界線ではありません

楽器で言いますと、エレキギターやエレキベース、エレクトリックピアノ、モーグシンセサイザーなどが登場している地点で既に、電流や回路を用いた、いわゆる「電化サウンド」にはなっているのですが、これらはまだ「デジタル」ではありません。1970年代に半導体技術が進歩したことにより、「0と1」の数字を用いた計算、コンピューター処理が機械でなされるようになりました。これが「デジタル化」です。それまでの「0と1」ではない、連続的な電気信号は「アナログ」といいます。モーグシンセサイザーも「アナログシンセサイザー」であり、現在ではデジタルシンセに比べて「温かみのある音」と称されています。

1980年代の音楽は、デジタルサウンドによって一気にサウンドが塗り替えられた時代だといってよいでしょう。



◉機器の発達


◆シンセの発達とリズムマシンの誕生

60年代に誕生したモーグシンセサイザーは、70年代に入ると一般に認知されるようになり、つづいてヤマハやオーバーハイムといったメーカーからシンセが発売されていました。初期ではモノフォニック(一度に単音しか発音しない)だったものがポリフォニック(複数の音が発音する)へと発展。さらに、音色を保存できるメモリー機能が付加されたところから、まずデジタル制御との融合が開始しました。

信号を自動で制御する「シーケンサー」の機能も、アナログの段階からすでにシンセのモジュールのひとつとして存在していたのですが、70年代後半に入ると、こちらもデジタル・シーケンサーとなります。これによって、演奏情報が数値化したのでした。音を鳴らすために、音程やリズムをすべて数値で入力するようになり、この作業が「打ち込み」と言われるようになります。

さらに、シンセサイザーやシーケンサーの機能から分化する形でリズムボックスという打楽器音を鳴らせる機材が登場しました。これは、あらかじめ決められたプリセットを選ぶだけのものでしたが、こちらがシーケンスのプログラムが可能になると、リズムマシンと呼ばれて区別されるようになります。リズムマシンの発展は、日本のメーカーRolandによって主導されていき、世界のクラブミュージックの進化に大きな影響を与えました。

はじめてマイクロコンピュータを内蔵してプログラミング対応になったリズムマシンは、1978年のRoland「CR-78」でした。ここから、各機種の特徴的な音色が現在まで残る、代表的なリズムマシンが続々と誕生します。

【80年代初頭に発売された代表的なリズムマシン】

Roland 「TR-808」(1980年)
Oberheim 「DMX」(1980年)
Linn Electronics 「Linn Drum」(1982年)
Roland 「TR-909」(1983年)
Roland 「TR-707」(1984年)

機械的なプログラミングによる、こうした規則的なビートの誕生は、特にハウスやテクノといったジャンルの発展に大きく貢献しました。もちろん、主要なポピュラー音楽にも広く取り入れられるようになりました。


◆MIDIの誕生とデジタルシンセの時代へ

このようなリズムマシンだけでなく、先述したとおりシンセサイザーの演奏情報も数値化され、打ち込みによる自動演奏が試行錯誤されていった中で、1982年に「MIDI規格」が制定されました。これは、いつ音が始まり、どの高さでどの音量で、いつ音が消えるか、という演奏情報の規格です。この共通の規格が決められたことにより、異なる楽器間での演奏情報のやり取りが可能になったのです。

MIDIの送受信によって自動演奏が可能となり、MIDIをプログラムするMIDIシーケンサーが普及していきます。これによって、従来のハードシーケンサーは衰退していきました。ただ、MIDIを打ち込むためには、当時高価だったコンピューターを使用する必要があるなど、ハードルは高かったようです。ともあれ、ここから生演奏だけではない数値入力の「打ち込みサウンド」の本格的な開始となったのでした。

MIDIの誕生を受けて、1983年にはヤマハがフルデジタル構成のシンセサイザー「DX-7」を発売。MIDIを初搭載した画期的なシンセサイザーとして普及していきました。DX-7では、音色の合成方法として「FM音源方式」が採用され、シンセベルの音など、硬質でキラキラした音色を得意としました。特にきらびやかなエレクトリックピアノのサウンドは、それまでのエレピの主流であったローズピアノやウーリッツァーなどに対して、小型であることも含め、そのシェアを奪うまでのものになります。

フルデジタル構成の利点として「作成した音色データの保存・再現が簡単に可能」「いち早くMIDI端子を装備し、容易に他のデジタル楽器と組み合わせることが可能」というふうに、アナログシンセサイザーから革命的な進化を遂げ、1980年代中盤以降の音楽に幅広く使用されることとなりました。

さらに、こうしたFM音源のデジタル合成方式のシンセだけでなく、PCMシンセというものも登場しました。これは、メモリに波形を記録しておいて、MIDIによって波形をメモリから再生するというもので、現在鍵盤楽器で「キーボード」といえば、ほとんどがこの方式です。PCMシンセは、1980年代初頭にフェアライト社の「フェアライト CMI」や、ニューイングランド・デジタル社の「シンクラヴィア」などで登場しましたが、当時はまだPCMシンセ1台で家が買えてしまうほどの購入コストがかかり、一般層においては実用的ではありませんでした。その後、1988年にKORGの「M1」でようやく実用的になり、シンセサイザーの音源方式の1つとして定着していったのです。

PCMが広く採用されたことによる影響として、各種鍵盤楽器の仕組みの違いが無くなっていった、ということが挙げられます。別々の楽器であったエレクトリックピアノ、電子オルガン、シンセサイザー、デジタルピアノなどは、発音の仕組みとしてすべて同じもの(PCM)になっていき、今ではこれらの呼称の違いは「目的の違いによる鍵盤数や搭載機能の違い」だけとなっています。


◆サンプラーの普及

1960年代に開発された鍵盤型のテープ再生機であるメロトロンがサンプラーのはじまりだとされますが、ビートルズやキングクリムゾンの楽曲で使用されたほかは、あまり普及しませんでした。しかし、80年代に入ると、デジタル技術によるサンプラーが登場し、低価格化も実現。急速に普及していきます。特に日本のAKAI社のMPCなどによって一般化していきました。

ハウスやテクノなどのクラブミュージックのDJにはもちろんのこと、もともとレコードを使用したブレイクビーツの発見によってサンプリングの手法が産声を上げていたヒップホップの分野においても、低価格のサンプラーの普及は歓迎され、ターンテーブルとレコードを使用したDJプレイに加えて、サンプラーの使用による「引用」と「再構築」の可能性が広がり、さらに抜き出した音を楽器音として演奏するパフォーマンスも開発されました。 ドラムマシンとの接続やエフェクトの使用など、新たな手法が開拓されていきました。また、サンプリングの手法が発達するにつれて、単純に楽曲を聴かせる目的のDJの選曲とは別に、再構築に適した、良きグルーヴを持つマイナーな楽曲(リリース当時は正当な評価を受けていなかったものや廃盤になったレアなもの)に価値が見出されるようになり、発掘が進んでいきました。これは「レアグルーヴ」と呼ばれて評価されました。


◆メディアについて

1982年、CD(コンパクトディスク)が登場しました。ここまで記録メディアとして20世紀を通じてポピュラー音楽を支えていたレコードに取って代わるものとして急速に普及し、1986年にはついに、CDの販売数がLPレコードを追い抜いてしまいました。こうして、楽器や創作段階だけでなく、リスナーの受容段階においても音楽のデジタル化が進んだのでした。


◆レコーディング段階のデジタル化

80年代、楽器面など創作段階ではデジタル化が進みましたが、レコーディング面においてはまだ、磁気テープを用いたアナログMTRが主流のままでした。やがて1986年には「DAT(Digital Audio Tape)という規格が定められ、「A/D変換(アナログ⇔デジタル)」を用いて磁気テープにデジタル録音する形のデジタルMTRが一時的に主流となります。しかし、すぐにパーソナルコンピューターの低価格化やハードディスクの容量増加が進んだことによって、90年代のハードディスクレコーディングの時代へと進んでいくことになります。







◉クラブミュージックの始動


◆シカゴハウス

1970年代後半にピークを迎えたディスコミュージックは、クラブ向けの音楽スタイルの基礎を作り上げました。客が踊るのに適したテンポ感と4つ打ちのキックのビートや長尺のブレイクの存在はDJカルチャーの創出に繋がっています。

70年代末、差別的な「ディスコ・デモリッション・ナイト(ディスコが死んだ夜)」が起こったシカゴでしたが、その後、ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズといったDJによる独特な選曲とプレイが「ガラージュ」と呼ばれて人気となっていました。シカゴのナイトクラブ「ウェアハウス」から発祥していったこのような音楽がハウスミュージックとして売られ、最悪の事件からわずか数年で、シカゴは「ディスコをハウス・ミュージックとして蘇らせた街」となり、フランキー・ナックルズはこれを「ディスコの復讐」と呼んだのでした。


1982年、入場料の値上げ問題によりフランキー・ナックルズはウェアハウスを離れます。クラブのオーナーはこれを機に「ウェアハウス」を「ミュージック・ボックス」と改名し、新たにカリフォルニアからロン・ハーディーを後任DJとして招聘しょうへいしました。一方のフランキー・ナックルズも同じシカゴのクラブ「パワープラント」に移籍してDJを続け、ファンたちもそちらを追っていきました。こうして2人のDJの間に競争が生またのです。

彼ら2人のプレイスタイルは、ラリー・レヴァンらの「ガラージュ」の強い影響下にありながらも、リズムマシンを使用したアグレッシブな傾向を持っていきました。ディスコの楽曲が収録されたテープを切り貼りして、シンセサイザーやドラムマシンの音を加えてリミックス/リエディットしたことでハウスへ変化したと言われています。80年代に入り、ディスコソング自体にもサウンドの変化が起こっており、伝統的なディスコトラックでの生バンドやオーケストラに代わってシンセサイザーとドラムマシンが使用されるようになっていました。こうしてエレクトロニックなディスコが積極的にDJでプレイされるようになり、初期のハウスミュージックのプロトタイプとなっていったのです。ナックルズとハーディーの2人の間の競争により「シカゴハウス」がみるみる普及していき、ダンスミュージック界でシカゴという都市が大きな地位を確立していきました。


◆デトロイトテクノ

1980年代中盤、シカゴに隣接する都市でありモータウンなど黒人音楽の伝統を持つデトロイトでも、シカゴとデトロイトを行き来する人々によって「シカゴハウス」が持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてきました。この運動を主導したのは、デリック・メイホアン・アトキンスケビン・サンダーソンといったDJたちです。シカゴハウスに影響を受けながらも、ドイツのクラフトワークなど、ヨーロッパの電子音楽の要素を融合させ、ドラムマシンやシンセサイザーの複雑なリズムを独自の解釈で盛り込んで、シカゴハウスよりもシリアスな音楽を志向していきました。このようなサウンドはシカゴハウスに対して「デトロイトテクノ」と呼ばれました。



◆ヨーロッパへの波及と、アシッドハウス・ムーブメント

ハウスやテクノの人気はイギリスへも波及しました。1987年にイギリスの「マーズ(M/A/R/R/S)」の楽曲「パンプ・アップ・ザ・ボリューム」がヨーロッパで火がつき、全米チャートでも大ヒットとなり、ハウスミュージックが徐々に世界へ認知されていきつつありました。


さて、ハウスの発祥地シカゴでは、DJ ピエール、スパンキー、ハーブJの3人からなるシカゴハウスのグループ「Phuture(フューチャー)」は、安価で出回っていた古いアナログベースシンセのRoland「TB-303」を用いて音楽制作をしていたところ、ツマミをランダムに動かすことによって偶然、LSDの幻覚作用を思わせるようなサウンドが産み出されました。TB-303のフィルターとレゾナンスを使い、それまで聴いたことがなかった独特のベースサウンドを12分間に渡って演奏し、1987年「Acid Tracks」という曲名でリリースされました。

このトラックを受け取ったロン・ハーディは大変気に入り、一晩で4回プレイするなどしてパワープッシュしていきました。こうしてシカゴハウスのオーディエンスに理解され、ハウスの新たなサブジャンル、アシッドハウスが誕生したのでした。

このようなサウンドが、スペインのイビサ島でのDJでもプレイされ、さらにそこから持ち帰られ、ハウスミュージックが流行し始めていたイギリスまで飛び火しました。瞬く間にイギリス全土に飛び火し、アシッドハウスやデトロイトテクノをユニークに解釈したUKハウスシーンが形成されたのでした。

さて、アシッドとはLSDの意味です。ひたすら連続するうねるような電子音のサイケデリックサウンドと違法ドラッグの相性は抜群であり、休むことなく踊る人々を続出させることになりました。LSDのほかにも、通称エクスタシーと呼ばれるMDMAなどの多幸系のドラッグも蔓延しており、これがダンス音楽と結びついたのです。高熱や脱水を起こし死亡したり、それに対処しようと水を摂り過ぎて低ナトリウム血症で死亡したりするケースも引き起こしてしまいました。

1980年代後半のヨーロッパは経済的にそれほど良い状態とは言えず、閉塞的な状況を反映してか、イギリスでは野外で酒やドラッグを摂取しながら、アシッドハウスやテクノの音楽で一晩中踊りあかす大規模な音楽イベントが行われるようになり、ロンドンのジャマイカ系移民のスラングでパーティーを意味する「レイヴ」と呼ばれるようになりました。知らない人間同士が抱き合い肩を組んで巨大なスピーカーから大音量で流れる無名のDJの掛ける未知の音楽に狂乱し踊り明かすという、以前のイギリスでは考えられないような生活スタイルを生み出し、この動きはすぐにヨーロッパ大陸中に広がりました。フランスやベルギー、ドイツなどでも同種のレイヴが開催されるなど、巨大なムーブメントへと爆発的に成長していったのです。多くの若者を惹きつけたこの動きを、1960年代後半のヒッピームーブメントになぞらえてセカンド・サマー・オブ・ラブと呼ばれるようになりました。

こうした中で、イギリススコットランドの電子音楽バンド「シェイメン」の楽曲などがヒットしました。



◆ディープハウス

アシッドハウスなどの刺激的なハウスが流行した裏で、もうひとつのサブジャンルも派生しました。ブラックミュージックを意識し、派手過ぎるような音色を避けて、緩やかに展開していく内省的な曲構成が特徴で、ディープハウスと呼ばれました。ラリー・ハードによるプロジェクト、Mr.フィンガーズの楽曲「ミステリー・オブ・ラブ」がこのジャンルの始まりだとされますが、アシッドハウス以降、90年代にさまざまなスタイルのハウスミュージックが展開する中で、80年代のオーソドックスなハウスがいつしか「ディープハウス」と分類されるようになった、という捉え方もあります。





◉レゲエの新潮流


◆ダンスホールレゲエの始動/ラバダブ

70年代、ボブ・マーリーらによってジャマイカに花開いたルーツレゲエは、海外公演の増加によるジャマイカ国内の支持の低下や、失政による政治・経済の混乱で、硬派なメッセージへの失望感が広がったために、徐々に下火になっていきました。さらに、1981年にボブ・マーリーが死去し、失速が決定的となったのでした。

こうした中で、かつてのラスタファリズム色を薄れさせ、「スラックネス」と呼ばれる下ネタを中心とした歌詞や「ガントーク」と呼ばれる自分の銃や力を誇示する歌詞を流行させました。ここから、従来のルーツレゲエと異なる「ダンスホールレゲエ」の始まりとされます。主なアーティストとしては、イエローマンらDJがこの動きを推し進めました。

イエローマンは、ワン・ウェイ物とよばれる「アルバムすべての曲が同じリディム」という形式の作品を多く出すことによって、リディムそのものを聴衆に認識させていきました。この時期のアーティストは、基本的にレコーディングよりもラバダブという、サウンドシステムでの即興セッションに活動の重点を置いており、そうした中でイエローマンをはじめシャバ・ランクスニコディマスブジュ・バントンバウンティ・キラーが影響力を持っていきました。


◆コンピュータライズド革命/ラガマフィン

さて、こうした中で、当時普及し始めたデジタル楽器によるリディムの制作も進んでいっていたのですが、1985年のキング・ジャミーのプロデュースによる、ウェイン・スミス「アンダ・ミ・スレン・テン(Under Me Sleng Teng)」が大ヒットしたことにより、デジタルサウンドのインパクトを起こしました。リー・ペリーやキング・タビーといった1970年代から活躍するエンジニア達もこぞって打ち込みの技法を導入、ここからレゲエ界は急速にドラムマシンやシンセサイザーを取り入れてエレクトリック・ミュージック化していくことになります。この音楽的革新を「コンピュータライズド」「コンピューター・リディム」といいます。スティーリィ&クリーヴィーボビー・デジタル・ディクソンスライ&ロビーなどがコンピュータライズドのリディムトラックを大量生産し、ニンジャマンシャバ・ランクススーパーキャットバウンティ・キラービーニ・マンなど多くのDJによるヒット曲を生んでいきました。

ダンスホールレゲエは、ドラムマシンの導入と聴衆のニーズにこたえる形で曲のテンポも徐々に上昇し、それまでのレゲエとは全く異なる音楽と進化していったのでした。ここからしばらく人気となった打ち込みによる高速のダンスホールレゲエは特にラガ(ラガマフィン)と称されます。シンガーたちはわざとキーを外して歌うというアウト・オブ・キー唱法を確立し、大きな人気を博しました。



◉ヒップホップ


◆80年代前半: オールドスクール・ヒップホップの伝播

ニューヨーク・ブロンクス地区のブロック・パーティにて、クール・ハークなどブレイクビーツをプレイするDJの出現とともに始まったヒップホップですが、初期はまだブロンクスの中だけで発展していたカルチャーでした。1970年中頃から後半にかけて、貧困な黒人の若者達が公園に集まっては、DJが回すレコードの中でダンスやラップ、グラフティー・アートを楽しんでいたのです。

そんな中で突如、ブロンクスからではなく、ニュージャージー出身の3人組ユニット「シュガー・ヒル・ギャング」が、1979年「ラッパーズ・ディライト」というラップの楽曲をリリースします。

これは、ソウルシンガーのシルヴィア・ロビンソンという女性が、NYのヒップホップ文化に目を付け、商業的な成功を目論んで結成させたものでした。当時、ディスコブームがピークを迎え、下火に差し掛かってきた頃であり、次にブレイクさせたい音楽として彼女はヒップホップに注目したのです。

ロビンソンは早速、ブロンクスのラッパーをスカウトしに出向きましたが、ブロンクスの若者たちにとって、既存のファンクやディスコ音源を使ったパーティの文化であったヒップホップを楽曲作品としてリリースする発想は無く、実現しませんでした。

そんなときロビンソンは、クラブの警備員をしていたニュージャージーの若者が、ブロンクスのユニット「コールド・クラッシュ・ブラザーズ」のラップの真似をしているのを見つけます。そこで、彼とその友人をつかまえてそれをレコーディングさせたのでした。シルヴィア・ロビンソンは、夫のジョー・ロビンソンとともに、ヒップホップ専門レーベル<シュガーヒルレコーズ>を設立し、ユニットはシュガー・ヒル・ギャングと名付けられ、「ラッパーズ・ディライト」が発売されたのでした。

ただこの楽曲は、ディスコの最後のヒット曲といわれているシック「Good Times」という曲のトラック(カラオケバージョン)に、コールド・クラッシュ・ブラザーズの歌詞そのままのラップを乗せただけなのでした。盗作の塊であるこの楽曲が、あろうことかアメリカで大ヒットしてしまいます。幅広い層にヒップホップ を知らしめ、ヒップホップ・ミュージックを初めて商業的に成功させた楽曲となりました。当時ブロンクスでヒップホップに親しんでいた若者は、突然現れた無名のよそ者が自分たちのパクリをヒットさせてしまったことに対し、皮肉に思い、拒否反応を示します。

ただ、それまではヒップホップは既存の音楽をサンプリングして楽しむパフォーマンス文化であり、それをレコードにすることなんて不可能だと思われていたので、ここからヒップホップ楽曲のリリースの門戸が開かれた形となったのでした。ヒップホップ文化が世間に知られたことで、ストリートで有名だったDJやラッパーたちにとって、本場の実力を見せ付けるチャンスの到来となったのです。こうして多くのラッパーたちが次々とレコードをリリースしはじめ、ヒップホップが音楽レコード作品として世に放たれる時代を迎えます。

最初期の3大DJのうち、クールハークは目立ったアクションをとりませんでしたが、グランドマスター・フラッシュやアフリカン・バンバータはヒット作をリリースしていきました。加えて、トリーチャラス・スリースーパー・ウルフカーティス・ブロウなどがこの時期に音源をリリースしたオールドスクールヒップホップの代表的なアーティストです。



◆80年代後半: ゴールデンエイジの開始(ミドルスクール)

80年代中盤にオールドスクール・ヒップホップが飽きられたころ、ランDMC、UTFO、LLクールJ、フーディニといった新しい世代のラップ・アーティストが登場しました。これらは日本ではミドルスクールと呼ばれますが、世界的にはこの呼び方は一般的ではないそうです。一般には、ここから90年代初頭までをまとめてゴールデンエイジ・ヒップホップと呼び、オールドスクールに続くヒップホップの全盛期とされています。ランDMCは、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」にてコラボレーションしたことで、ロックとヒップホップの融合の先駆けにもなりました。


チャックDによる1987年にデビューのグループのパブリック・エネミーや、ブギ・ダウン・プロダクションズ、クール・モー・ディーXクランらは過激な政治的なメッセージをラップに乗せ、新しい潮流をつくりました。サウンド的にも、オールドスクール時代のソウルやファンク色がそのまま残るサウンドから脱し、スクラッチやサンプラー、リズムマシンが多用されるなど、ヒップホップ独自のサウンドカラーとなっていきました。





◉ブラックコンテンポラリーとポップス


◆ブラックコンテンポラリー

ここまで黒人音楽の系譜を振り返ってみると、ブルースがレイス・ミュージックと呼ばれた時代からやがてリズム&ブルースとなり、それが白人音楽と融合してロックンロールへと分化した後も、黒人サイドの音楽としてはソウル・ミュージックやファンクとして引き継がれ、70年代後半にはディスコの爆発的人気から凋落へと向かったところまででした。

「ブラックミュージック」というと、「南部発祥」「泥臭いブルース」「ルーツミュージック」などといった表象を身にまとい、「ブルース」はギターをかき鳴らすデルタブルースやシカゴブルースを、「ソウル」としてもオーティス・レディングなどの南部のサザンソウルを、「ファンク」もジェームズ・ブラウンなどグルーヴをひたすら追求したサウンドを「黒人らしさ」「価値」としてきた側面があります。80年代、このような黒人的ソウル・ファンクから直接連なる流れとしては、上記に書いたハウスミュージックやヒップホップなど、サブカルチャー的な側面にそれが引き継がれていったといえます。

しかし、ブラックミュージックの系譜をもう一度よく振り返ってみると、「ブルース」も原始的ブルースだけでなくシティブルースやジャンプブルースといったポップなサウンドを携えて成長してきたし、ソウルも最初期はゴスペルやドゥワップの要素を持ったポップなリズムアンドブルースの系譜の中に誕生しています。その後モータウンの誕生からノーザンソウルはポップサウンドを牽引する存在になりましたし、フィリーソウルやディスコもエンターテイメント的な側面で成長したジャンルでしょう。

このような洗練性の側面を無視し、ひたすら「南部っぽい泥臭さ」のようなイメージだけが黒人音楽の価値として語られているのは、白人から見て「黒人音楽へのステレオタイプ的な“黒人性”の憧れ・期待や押し付け」があったのではないかということもいえますし、黒人聴衆や黒人アーティスト達自身も、白人からの差別や抑圧に対して、黒人としてまとまるにあたってのアイデンティティとして、「黒人っぽさ」のイメージが大切にされていったということもいえそうです。

通常、ブラックミュージック史を追うと、ソウル → ファンクと進んだ次の段階としてヒップホップが配置され、現在に至るように描かれます。一方で、ポピュラー音楽史の主流であるロック史の視点からは、それら自体がオマケのような位置づけとなってしまい、詳細には語られません。

しかし、【初期ジャズやシティブルース → ドゥーワップやジャンプブルース → ノーザンソウル → ディスコ 】というように、20世紀のポップミュージックを牽引してきた洗練的なブラックミュージックの系譜も存在し、その流れを引き継いで、80年代においても「ポップス」としての黒人音楽のヒット曲が多数存在していたはずです。それらを認識することも音楽史上で重要な部分の一つではないでしょうか。ところがそういった部分は、「泥臭い黒人性」を軸にした物語では見えづらくなってしまいがちです。

特定のジャンルに存在する音楽観に沿った「ある視点」から描かれた音楽史は、他の重要な系譜を隠してしまう、という構図は、このnoteシリーズにおいてクラシック史やジャズ史などでもこれまで散々指摘してきてますが、それと同じ構図がまた繰り返されている、ということがご理解いただけるかと思います。そしてそれが「ジャンルの分断」に繋がってしまうというのが僕の主張であることも、もう一度ここに記しておきます。

各ジャンル史において、語る側が音楽知識に詳しすぎる故か、ジャンル愛が強すぎる故なのか、大衆を一番魅了しているはずのポップミュージックがいつの時代も「商業的」として歴史記述上では一番存在を消されがちなのです。たとえ商業音楽がどんなに「悪」だとしても、その「良し悪し」はさておいて、ひとまずヒットした音楽は音楽史としてきちんと言及・配置されるべきでしょう。

70年代後半から80年代に、マイルドに洗練されていったメロディアスで甘いサウンドが特徴のポップスは、「ブラック・コンテンポラリー」と呼ばれました。1970年代に活躍していた多くの黒人シンガー、ミュージシャンがこの波に乗ってヒットを放ち、1980年代においてはブラック・コンテンポラリーがポップミュージックの主流となるほど隆盛を誇ったのでした。主に西海岸系のスタジオ・ミュージシャンを起用したタイトな演奏や、シンセサイザーやリズムマシンを多用した都会的な音作り、甘いバラードを特徴とするスタイルが築き上げられました。もちろん、彼らのルーツとなるソウル、ファンク、ディスコの要素も引き継がれています。

特にリズムマシンを強調したスタイルについては、1982年のマーヴィン・ゲイのヒット曲『Sexual Healing』が決定的な影響を残し、多くのシンガーがその音作りに追随したといいます。

特にルーサー・ヴァンドロスがこういったサウンドの第一人者とされ、多くのアーティストが追随しました。

【この分野に位置づけられたポップスアーティスト】

フレディ・ジャクソン
ライオネル・リッチー
グレン・ジョーンズ
メリッサ・モーガン
マーク・サダーン
レオン・ブライアント
アニタ・ベイカー
レイ・パーカー・ジュニア

カシーフ
イブリン・キング 
など



◆ポップスターやシンガーの大成功

80年代の黒人アーティストによるポップスは、大人で都会的なバラード的な側面が典型的なイメージとして認識されてしまった結果「ブラック・コンテンポラリー」と括られたと言えますが、黒人アーティストたちはソウル・ファンク・ディスコから連続した流れを持つ音楽としてヒット作を放出していったといえます。バラードはその一側面であり、バラードだけではなく多彩なサウンドを放ったアーティストも存在し、そういった中から、特にポピュラー音楽界で大成功を収めていったポップスターが登場します。

70年代はモータウンでジャクソン5として活躍したマイケル・ジャクソンは、70年代末にソロ活動を始めました。そしてクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え、1982年12月にモンスター・アルバム『スリラー』を発表します。収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられ、「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定されています。また、本作の発表に付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなりました。その基盤となったのがMTVでした。

MTVとは、1981年8月1日に開局したアメリカのケーブルチャンネルで、24時間ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネルとして誕生したものです。マイケル・ジャクソンはストーリー仕立てのビデオを作成し、ミュージック・ビデオを「映像作品」として発展させました。MTVの影響力は絶大で、ここから、ヒットのためにミュージックビデオの重要性が高まったのです。マイケル・ジャクソンのビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなったのでした。

マイケル・ジャクソンと同い年であり、同じくこの時代に活躍したのがプリンスです。多くの楽器を自分で演奏し、音楽業界へ多大な功績を残しました。また、ミュージックビデオなどを活用してセクシーなイメージを前面に打ち出す戦略で話題を集めながら世界的な成功を収めました。

また、驚異的な歌唱力で世界を魅了した女性シンガーらの台頭も無視できません。70年代のファンクバンド「ルーファス」を経て80年代にソロ活動を開始したチャカ・カーンや、85年にデビューしたホイットニー・ヒューストンらが挙げられます。



◆打ち込みポップス/ニュージャック・スウィング・ムーブメント

このように、ブラック・コンテンポラリー、ソウル、ファンクが中心になっていた黒人音楽界ですが、その裏でラップやヒップホップが台頭し、音楽評論家や音楽ファンを中心に話題になっていたのを受けて、打ち込みビートを取り入れた新しいスタイルが模索され始めます。ジャム&ルイスによるプロデュースによって、マイケル・ジャクソンの妹のジャネット・ジャクソンSOSバンドシェレールアレクサンダー・オニールなどが成功し、新しいポップスの形が示されつつありました。

こうした中で、音楽プロデューサーのテディー・ライリーベイビーフェイスが中心となり、ヒップホップ的手法をファンクやソウルに組み合わせた、新たなポップミュージックのスタイルが創造されていったのでした。1987年、テディー・ライリーのプロデュースによる、キース・スウェット「I Want Her」がヒットし、サウンドの斬新さにより、音楽評論家やリスナーたちの注目を集めました。テディー・ライリーによるこの新しい音楽ジャンルは“ニュージャック・スウィング”と名付けられ、1980年代後半から1990年代前半にかけてソウルチャートを中心に大量の追随者や模倣を生み出しながら流行となっていきました。初期は「プログレッシブR&B」などと一部で呼ばれていたりもしたようです。

ガイボビー・ブラウンジョニー・ギルキャリン・ホワイト、ザ・ウィスパーズらをはじめとして、流行の最盛期にはソウルの大御所ミュージシャンから白人ミュージシャンまでがニュージャックスウィングの楽曲を発表するほどのブームとなりました。

このように、ブラック・コンテンポラリーからディスコ・ポップ、ニュージャックスウィングなどといった多様な方向性を含む洗練した黒人音楽が、往年のソウルと分離する形で新たに「R&B(コンテンポラリーR&B)と呼ばれるようになりました。

R&Bとはもともと「リズムアンドブルース」の略称であり、1940年代末~1960年代のR&Bサウンドをよく知る層からは違和感を覚える呼称ですが、従来の「リズム&ブルース」とコンテンポラリーな「R&B」を区別して表記することで何となく棲み分けができるのではないかと思います。



◉AOR・AC・ソフトロックなど

ブラック・コンテンポラリーと同じような方向性の、大人向けの洗練された傾向として、ロックミュージックサイドの潮流となっていたのがAORです。これは「アルバム・オリエンテッド・ロック(Album-Oriented Rock)」、もしくは「アダルト・オリエンテッド・ロック(Adult-Oriented Rock)」の略語で、欧米では「シングルチャートを意識したものではなく、アルバム全体としての完成度を重視したスタイル」の意味で「Album-Oriented Rock」の語が使用され、日本では「大人向けのロック」「アダルト志向のロック」の意味で「アダルト・オリエンテッド・ロック」として紹介されたものです。アダルト・コンテンポラリー(AC)とも呼ばれ、定義的にはソフトロックとも重複しています。1970年代後半から1980年代にかけてヒットが多発しました。

70年代にスティーリー・ダンボズ・スキャッグスフリートウッド・マックらによって潮流がつくられ、ボビー・コールドウェルビリー・ジョエルバーブラ・ストライサンドニール・ダイアモンドクリストファー・クロスTOTOルパート・ホルムズシカゴなどが代表例とされています。80年代のサウンドはブラック・コンテンポラリーと同じくシンセサイザーの音色が時代を反映しているサウンドと言えます。




◉ポストパンクからニューウェイヴの時代へ


◆ポストパンク/ニューウェイヴ

70年代後半に一大ムーブメントとなったパンクロック。特にイギリスのロンドンパンクによる「アマチュア性を持った原点回帰によって、新世代のロックが既存のロックに反抗する」という動きが次第に、同時にファンク、レゲエ、テクノなどの新しい音楽を取り入れるという方向の動きへと展開していくことになります。70年代末~80年代にかけて、このような音楽的実験に貪欲に取り組んだイギリスのインディペンデントなロック音楽の一部に対して「ポストパンク」というジャンル名で呼ばれました。同時に、ディスコ、電子音楽などの影響によるポストパンク周辺の音楽を「ニューウェイヴ」というジャンル名でも呼ばれるようになり、80年代アメリカへの進出に成功しました。ポストパンクやニューウェイヴは、今では1970年代後半から1980年代という特定の時期の音楽を指す言葉となっています。

当時の音楽評論家にとって「ポストパンク」は、それまでの旧態依然としたロックの否定を出発点としているため、レゲエ、ファンク、フリー・ジャズ、アラブやインド、アフリカなどの民族音楽を取り入れるなどの音楽的チャレンジに取り組んだバンドが特徴とされていましたが、一般的には単に新しいサウンドの印象として全体的に「ニューウェイヴ」と呼ばれました。シンセポップやノイズミュージックもこの分野に括られることもあり、非常に定義が曖昧なジャンルですが、「初期衝動だけだったパンクが、技術的に上達し、アートなどの美意識を高めていったバンド」が音楽評論家によって定義づけられ、この潮流のイメージを作っていったと言えば良いでしょうか。音楽内容的に範囲が多岐に渡っているため、ジャンルとしては捉えづらいですが、単なる時代区分として集合的に捉えるべきでしょう。

まずセックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドンが結成した、パブリック・イメージ・リミテッドや、ザ・ポップ・グループが「ポストパンク」として評価され、さらにトーキングヘッズジョイ・ディヴィジョンギャング・オブ・フォーマガジンスージー&ザバンシーズ、ワイヤー、ザ・キュアーザ・フォールらもポストパンクの潮流に位置付けられます。

「ニューウェイヴ」はXTCスクイーズといったバンドを紹介するための語として使われ始めたそうです。さらにダイアー・ストレイツポリス、エルヴィス・コステロ、ゲイリー・ニューマンらのUKアーティストがアメリカでチャートインするようになっていきました。アメリカのバンドではディーヴォカーズ、The B-52's などもニューウェイヴのバンドとして人気となりました。

やがて、イギリスのバンド勢はアダム&ジ・アンツデュラン・デュランヴィサージカルチャー・クラブなどが80年代前半にニューウェイブの派生ジャンルとして「ニューロマンティック」として認知され、アメリカのチャートの上位を多数占めるようになったり、MTVで放映されるようになりました。これが「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と形容されました。

70年代にイギリスにおいてミュージックビデオは既に重要な商材になっていた一方で、アメリカでは聴衆の断片化やディスコ音楽への反動など、いろいろな事情を抱えていたためにあまり発展していませんでした。そのため、MTVの開局時にはイギリスのアーティストによる豊富なミュージックビデオを流されることになった、という背景もあったようです。バグルス「ラジオ・スターの悲劇」は、アメリカでMTVが最初に放送したビデオで、その楽曲の内容も、映像時代の到来を反映するような象徴的なものとなりました。代表的なアーティストには他に、ヒューマン・リーグABCバウ・ワウ・ワウジャパン、デペッシュ・モードなどがいます。ジョイ・ディヴィジョンを前身として、よりエレクトロ・テクノへと接近したニュー・オーダーというバンドも登場しました。


このように、多様な方向性の中でも特にニューウェイヴの中心的ムーブメントとなっていた電子的サウンドはシンセポップまたはエレクトロポップなどと呼ばれました。シンセサイザーやシーケンサーなどの電子楽器を中心に据えたバンド音楽で、クラフトワークの影響を受けながら、より流麗で親しみやすいメロディを押し出して時代を席巻しました。ロックと電子音楽の中庸とも言える形態です。日本ではこれを「テクノポップ」や略して「テクノ」などと呼びますが、上述したクラブミュージックのジャンルとしてのテクノとは別の概念になるので注意が必要です。この分野では、ノルウェーの「a-ha」や、日本からは坂本龍一らによる「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」も世界で成功しました。

「ラスト・クリスマス」でおなじみのイギリスのポップデュオ「ワム!」もこの時期活躍しました。位置付けが難しいものの「ポップ~AOR/AC~ニューウェイヴ」などの分野とされました。



◆女性シンガーたちの活躍

シンガーソングライターも、従来のソフトロックの路線だけでなく、ニューウェイヴやシンセポップ・ロックのサウンドで活躍した人々が登場しました。

マイケル・ジャクソンが「キング・オブ・ポップ」と呼ばれましたが、同じように「クイーン・オブ・ポップ」と呼ばれたのがマドンナです。当初はマリリン・モンローに続くセックスシンボルのイメージを強く出していましたが、次第に歌手として多様な世界観を見せて多くの成功を収めました。

シンディー・ローパーは、デビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなりました。

カイリー・ミノーグデビー・ギブソンもこの時期に登場した重要な女性ポップ・シンガーです。



◆パンクから派生し、後のバンドに影響を与えた様々なスタイルの発生

この時期に活動したイギリスのロックバンド「ザ・スミス」もUKインディーとしてポストパンク的に位置付けられるでしょう。ただ、イギリス国外では当時はあまりヒットせず、イギリス国内の若者のみのヒットでした。ところが、彼らはこの後90年代に台頭してくるロックバンドたちに多大な影響を与えました。このことから、今日では80年代イギリスの最も重要なロックバンドのひとつとして認知されています。

ニューウェイヴ的ではありませんが、パンクから発展した唯一無二の立ち位置として、ニューヨークのバンド「ビースティ・ボーイズ」にも触れておきます。パンクバンドとして活動を開始した彼らですが、1984年頃からヒップホップに完全移行し、ヒップホップグループとして認知され成功しました。「ヒップホップとロックの融合」「ラップ・バンド」という分野の開拓者となりました。


1980年デビューのアイルランドのバンドである「U2」は、ポストパンク・ニューウェーブの時代には異質の存在とされたバンドでしたが、その後90年代にかけて世界的なアーティストへと成長していきました。


また、アンダーグラウンドなシーンではハードコア・パンクというジャンルが誕生していました。パンクロックからさらに暴力性や攻撃性を強調したラウドで荒々しいサウンドが特徴のジャンルで、1980年代においては情報量の少なさやマイナー・レーベルのレコードの流通の悪さが顕著な極めてマイナーなシーンではありましたが、この分野も後のロックに大きな影響を与えることになります。ブラッグ・フラッグバッド・ブレインズがこの時期のバンドとして挙げられます。



◉HR/HM


◆NWOBHM

70年代前半に勢いのあった従来のハードロックやプログレッシブロックは、70年代後半のパンクの登場やその後の80年代のポストパンク・ニューウェイヴなどからは「オールド・ウェイヴ」「ダイナソー・ロック(恐竜のような大仰で化石化したロック)」と攻撃されてしまいました。イギリスのハードロックシーンはかつての勢いを失っていきましたが、しかしアンダーグラウンドシーンでは様々なバンドが、一部ではパンクのビートの性急感をも取り入れながら、新しい時代のハードロックを模索するようになっていました。「NWOBHM(ニューウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)」という「新しいHR/HM」を更新していくムーヴメントが起きました。アイアン・メイデンデフ・レパード、サクソンらがこの動きを牽引し、ハードロックシーン・メタルシーンが活性化していくことになります。


◆グラムメタル

さらに、わかりやすいサウンドでハードロックの王道を行くヴァン・ヘイレンのヒットを皮切りにモトリー・クルー、クワイエット・ライオット、ラットといったバンドが登場し、グラムロックのように派手なルックスと煌びやかなパフォーマンスを売りにした「グラムメタル」というジャンルで認知されて成功しました。グラムメタルのうち、80年代初頭の西海岸から台頭してきたバンドを日本では「LAメタル」と呼んでいます。しかし、すぐにLA以外からもバンドが登場したため、この日本独自の分類に厳密性はないようです。1980年代中期にはさらにポイズンボン・ジョヴィなどが登場したほか、70年代から活動するベテランバンドも、グラム・メタル風の見た目を取り入れる傾向になるほどのムーブメントとなりました。そして80年代後半、この動きの末期に「真打ち」のように登場したバンドとしてガンズ・アンド・ローゼズスキッド・ロウが現れました。



◆エクストリームメタルなど

一方で、HR/HMのような激しい音楽に共感するものの、グラムメタルのようなダイナミックな華やかさとは違ったサウンドを志向する人々もあらわれます。彼らはイギリスのNWOBHMムーブメントに共感しながら、ハードコアパンクにも影響を受け、テンポの速さ、リフに重きを置いた強烈なサウンドが特徴の「スラッシュ・メタル」というジャンルを開拓し、グラムメタルとは一線を画する存在となりました。メタリカメガデススレイヤーアンスラックスエクソダステスタメントソドムなどのバンドが挙げられます。

スラッシュメタルは次第に、フロリダでのスラッシュメタルの凶暴性を突き詰めたデスメタル、北欧ノルウェーでのデスメタルを否定し反キリスト教のコンセプトを強調したブラックメタルが誕生するなど、地域性とコンセプトによりその都度その都度に細分化していきました。さらに、高速化するメタルの潮流の中で、逆に遅さを強調することによってダウナーでヘヴィーなサウンドを志向するドゥームメタルもうまれ、これら「スラッシュ・メタル」
「デスメタル」「ブラックメタル」「ドゥームメタル」を合わせて「エクストリーム・メタル」とも呼ばれます。

荒々しいサウンドに対する反動としては、ドイツやスウェーデンなどではメロディアスで疾走感のあるパワーメタルというジャンルも生まれました。NWOBHMの影響下にあり、高速で技術的な側面が重視されるため、それらを含めてスピードメタルとも呼ばれました。

さらに、ハードコアパンクからの派生として、デスメタルなどが再び結びつき、グラインドコアというジャンルも生まれます。グラインドコアはそもそも、ハードコアバンドのナパーム・デスの1986~88年ごろの音楽性を指す言葉として登場し、スネアやシンバルを高速で叩くブラストビートを特徴とします。

このように、メタルでは地域性・コンセプト・速度・音色や、アーティストの一時期の音楽性などまでを細かくネーミングしてサブジャンル化していったことで独特の生態系ができあがっていったのでした。



◆その他の動き

このようにLAメタル/グラムメタルやスラッシュメタルなどが栄えた動きの裏で、ロックのトピックとして他にこの時期にはレッド・ホット・チリ・ペッパーズが登場し、90年代にかけて活躍していくことになります。ファンクとハードロックやパンクを混ぜ合わせた「ミクスチャー・ロック」の開拓者として、90年代以降のバンドに多大な影響を与えました。



◉ポストバップ~フュージョンの併存するジャズ


◆「新伝承派」とジャズ史の疑問

さて、次はジャズ史の話に移ります。従来の「ジャズ史」では、70年代に「フュージョン」の登場によりシーンが塗り替えられてしまった暗黒期となり、80年代に「ビバップを志向する若手」の登場により伝統的なモダンジャズへの揺り戻しが起きた、というふうに取り上げられます。その代表的なミュージシャンが、トランペッターのウィントン・マルサリス、そしてその兄でありサックス奏者のブランフォード・マルサリスです。彼らは新伝承派と名付けられました。そして最後に「多様化」などという適当な言葉だけで締めくくられてジャズ史の物語が強制的に終了します。

しかし、このようなジャズ史の単純な「結末」は、2020年代現在の豊かなジャズの状況を鑑みると非常に疑問が残ります。この時期のジャズから現在のジャズまでつながる系譜が存在するはずなのに、関係性がまったく見えてこないのです。さらにジャズではない「フュージョン」の80年代の隆盛を体系的に知ろうとしても、何も見えてきません。このように、典型的なジャズ史には多くの問題点が存在しています。

どうしてこのような語り口なのかというと、つまるところ、70年代~80年代のジャズ評論がフュージョンの登場によって「お手上げ」になってしまい、評論家たちにとって一番耳馴染みの良い、往年のスタイルを演奏する若手の登場だけに飛びついたのではないでしょうか。

もう少しあとの時代のロック史にも言えることですが、「多様化」ほど簡単で無責任な言葉はありません。昔から今まで、いつの時代も多様なサウンドが存在しているのです。それらを整理し、分類し、適切に紹介することで「ジャンル化」され、歴史の体系が確立されてきたのではないでしょうか。それが評論家の重要な仕事だと思います。各ジャンル史において、最新20年ほどの期間が誤魔化されて「多様化しています」というだけの文言で締められたとき、それは「古い耳では評価ができません」「お手上げです」というふうに読めてしまいます。それは、新しくて「悪い」音楽に眉をひそめ、昔ながらの「良い」音楽を大切にしているようであって、実はジャンルの不明瞭化と衰退を招く結果になってしまっているように思えてなりません。このnoteシリーズでは、古代やクラシックからスタートし、2010年代までをきちんと追って2020年代現在まで辿り着くことを目標にしています。ゴールがそろそろ見えてはきましたが、1980年代以降もまだまだ長い期間が残っていますので、頑張りたいと思います。

話がそれてしまいました。ジャズ史の話題に戻ります。前回の記事でも書きましたが、この時期のジャズは、様々なフュージョンサウンドからポストバップのようなアコースティックジャズがグラデーションのように並存していた、と捉えるべきだと考えています。

あらゆる方向性の音楽がフュージョンに括られていますが、まず、70年代のフュージョンにおいて確立したいくつかの方向性を確認すると

・初期フュージョン(クロスオーバー)→ 難解なサウンド
・ハードロック、プログレッシブロックのようなハードな方向性
・BGMのような爽やかな「ギターフュージョン」
・ソウルとの融合(スタジオミュージシャン系のポップな洗練)
・ファンクとの融合(ワンコードのセッションのような方向性)
・アコースティックジャズに近い形態~ラテンとの融合 など

このように、当時に登場したジャズ外のあらゆるジャンルにそれぞれ対応して融合させた方向性があったことがわかります。これらの各スタイルが80年代においてもそれぞれ引き続き演奏されたうえに、さらに80年代に新しく発展したジャンルもフュージョンにおいて取り入れられていったといえます。特に、ヒップホップとの融合と、ブラック・コンテンポラリーやAORといった大人向けのR&B路線が顕著だといえます。


◆スムースジャズ

70年代のフュージョンでも、ジャズに極めて近いスタイルから全くジャズではなくなってしまったようなサウンドまで存在していましたが、同じように、80年代においてジャズから離れていったサウンドとして、特に大人向けで耳心地の良いブラコン路線・AOR路線のものが、80年代後半ごろからフュージョンに代わる言葉として「スムース・ジャズ」と呼ばれました。

フュージョンとの境界線はありませんが、あえて分類するとすれば、グローヴァー・ワシントン・ジュニアケニーGシャカタクステップス・アヘッドジェフ・ローバーザ・リッピントンズ あたりが特にこのようなサウンドに該当するでしょう。

このようなサウンドと同じ括りにされがちながらも、スムースジャズ的というより、どちらかというと70年代のフュージョンから続く「ソウルやファンクのスタイル」を大切にしたフュージョンバンドとしては、スパイロ・ジャイラが挙げられます。

ちなみに、同じくソウル・ファンク路線として登場していたバンド「スタッフ」のドラマーであったスティーヴ・ガッドもソロ活動を始め、同じくセッションドラマーのハーヴィー・メイソンと人気を二分しました。「西のハーヴィー・メイソン、東のスティーヴ・ガッド」などと呼ばれていました。





◆マイルス卒業生たちと80年代フュージョン

ところで、1940年代からジャズの第一線で活躍し続け、新しいサブジャンルを産み続けたマイルス・デイヴィスですが、1975年から1980年の間は健康状態も悪化により、休養期間に入っていました。そして、1981年の復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』ではフュージョン色を強めたサウンドを打ち出してみせました。

バンドメンバーは、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手が起用されましたが、彼らはこの後フュージョン界の重要ミュージシャンとして成長していきました。またしても「マイルスバンド卒業生」による活躍となっていったのです。それが、ベースのマーカス・ミラー、ギターのマイク・スターン、サックスのビル・エヴァンス(※ピアニストとは同姓同名の別人)です。

マーカス・ミラーは、スラップベース(チョッパーベース)の奏法で世界的ベーシストとなりました。また、多様な楽器や打ち込みもこなし、プロデューサー、編曲家としても活躍しました。

マイク・スターンは、マイルスバンドではひずんだロックギターサウンドを演奏していましたが、ソロデビュー後はビバップ的なアプローチを織り交ぜていきました。ジャコ・パストリアスやデイヴィッド・サンボーン、マイケル・ブレッカーらとともに作品をつくり、マイケル・ブレッカーのバンドやステップス・アヘッドにも参加しました。

ビル・エヴァンス(Sax)は、マイルスの他にもハービー・ハンコック、ジョン・マクラフリン、ミック・ジャガー、ランディ・ブレッカーなど数々のミュージシャンと共演して活躍し、1984年にはマハヴィシュヌ・オーケストラの再結成にも合流しています。


ちなみに80年代マイルスはその後、打ち込みトラックを用いたスムースジャズやポップ路線にも接近していきました。アルバム『Tutu』では、全編打ち込み・プロデュースをマーカス・ミラーが行っています。


さて、かつてのマイルス卒業生であり、70年代の活躍から既にフュージョンの最重要プレイヤーとなっていたハービー・ハンコックは、1983年のアルバム『フューチャー・ショック』において、ヒップホップの手法を大胆に導入しました。このアルバムによって、DJスクラッチが一般的に広く認知されることになり、ジャズ界だけでなく、クラブミュージックやヒップホップの発展にも大きな影響を与えたのでした。




◆ジャズの要素を併せ持ったフュージョンサウンド

70年代は主に「リターン・トゥ・フォーエヴァー」として活躍したチック・コリアは、80年代以降はドラマーのデイヴ・ウェックルとベーシストのジョン・パティトゥッチとともに、「チック・コリア・エレクトリック・バンド」「チック・コリア・アコースティック・バンド」を結成し(どちらも同じメンバー)、エレクトリックにもストレートなジャズにも挑戦していきました。圧倒的なテクニックと楽曲で話題を集めました。

ブレッカー・ブラザーズやデイビッド・サンボーンらのホーン奏者らも引き続き活躍を続け、スムースジャズへも影響を与えていたほか、ベーシストのジャコ・パストゥリアスや、ギタリストのパット・メセニーといった、70年代に登場した新星プレイヤーらがそれぞれ活躍を広げていました。

ジャコ・パストゥリアスは80年以降、ソロ活動としては自身のビッグバンドを率いて活躍しました。1981年の2ndソロアルバム『ワード・オブ・マウス』のタイトルから、「ジャコ・パストリアス・バンド」または「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」としてもライヴを行いました。

パット・メセニーは自身の「パット・メセニー・グループ」で、ブラジリアンやジャズの要素を併せ持った独特のフュージョンとして、複雑ながら透明な空気感のあるサウンドを展開しました。


ドミニカ共和国からやってきたミシェル・カミロは、サルサのようなラテンジャズを基調とした超絶技巧によって一躍有名になりました。

ギタリストのジョン・スコフィールドは、ジャズ・フュージョン系のミュージシャンとしてセッションやソロで活躍しました。フュージョン的なギターの音色を奏でながら、音楽内容としてはビバップのようなオーソドックスなアコースティックジャズを演奏して評価されました。

ミシェル・ペトルチアーニフレッド・ハーシュマルグリューミラーケニー・ワーナーといったピアニストたちは、フュージョンの影響下にありながらも、完全にアコースティック路線のジャズミュージシャンとして活動しました。また、サックス奏者のケニー・ギャレットが最重要なポストバップ奏者として登場しました。

(ちなみにケニー・ギャレットやジョン・スコフィールドも、マイルスバンドに参加したマイルス卒業生なのです。)

従来のジャズ史の物語に無理やり当てはめるとすれば、彼らは「新伝承派」と括ることができるのでしょうが、新伝承派という分類が持つ「フュージョンの反動からのビバップへの揺り戻し」という意味合いでの物語で語るにはかなり無理があるでしょう。

60年代後半から脈々と継続していたポストバップの動きとして、また70年代~80年代を通じてフュージョンからアコースティックジャズまでが混合して成長していた中での、一番“ジャズサイド”の動きとして見ることで、実態が捉えやすくなります。そして、このようなサウンドが、現代ジャズの一番直接的なルーツとなっているのです。ここから、オーソドックスなジャズ史では語られない、「コンテンポラリー・ジャズ」と呼ばれる系譜が開始していきます。



◉ロンドンミュージカルの人気

80年代のミュージカルの情勢として取り上げるべきは、ロンドン・ミュージカルがブロードウェイを席巻したことです。『エヴィータ』を皮切りに、『キャッツ』『スターライト・エクスプレス』『ミー・アンド・マイ・ガール』など、ロンドンで上演されたのちにブロードウェイに輸入された作品が大成功します。さらに、『レ・ミゼラブル』が世界各地で大当たりとなりました。そして、『オペラ座の怪人』『ミス・サイゴン』『サンセット大通り』などもすべて大成功となりました。


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