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#27 音楽史㉒【1990年代】"オルタナティブ" な時代

クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。

これまでの記事↓

(序章)
#01「良い音楽」とは?
#02 音楽のジャンルってなに?
#03 ここまでのまとめと補足(歴史とはなにか)
#04 これから「音楽史」をじっくり書いていきます。
#05 クラシック音楽史のあらすじと、ポピュラー史につなげるヒント


(音楽史)
#06 音楽史① 古代
#07 音楽史② 中世1
#08 音楽史③ 中世2
#09 音楽史④ 15世紀(ルネサンス前編)
#10 音楽史⑤ 16世紀(ルネサンス後編)
#11 音楽史⑥ 17世紀 - バロック
#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック
#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
#14 音楽史⑨ 【19世紀初頭】ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期
#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
#16 音楽史⑪【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
#17 音楽史⑫【19世紀後半】 普仏戦争と南北戦争を経て分岐点へ
#18 音楽史⑬【19世紀末~20世紀初頭】世紀転換期の音楽
#19 音楽史⑭【第一次世界大戦~第二次世界大戦】実験と混沌「戦間期の音楽」
#20 音楽史⑮【1940年代】音楽産業の再編成-入れ替わった音楽の「主役」
#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ
#22 音楽史⑰ 【1950年代末~60年代初頭】ティーン・ポップの時代
#23 音楽史⑱ 【1960年代中期】ビートルズがやってきた!ブリティッシュ・インヴェイジョンのインパクト
#24 音楽史⑲ 【1960年代後半】カオス!渦巻く社会運動とカウンターカルチャー
#25 音楽史⑳ 【1970年代】交錯する方向性 ~"複雑化"と"洗練"、"反発"と"原点回帰"
#26 音楽史㉑【1980年代】デジタル革命
〈今回〉#27 音楽史㉒【1990年代】"オルタナティブ" な時代


今回は、主にロック史において90年代のメイントピックとなるであろう「オルタナティブ」を記事タイトルにしてみましたが、ロック史だけを中心とせず、今までの記事同様に、今回も他のジャンルの視点も平等に触れていきたいと思います。よろしくお願いいたします。



◉ハードディスクRECとDTMの時代へ

前回 80年代の記事では、レコーディングシステムにデジタルMTRが登場したことを取り上げましたが、その後すぐにPCの低価格化・HDの容量増加が始まったことで、ハードディスクレコーディングの時代が到来しました。

1987年、テープレスのレコーディング・システムとして「Sound Designer」「Sound Tools」が登場し、これらを前身として1991年に、プロフェッショナル向けのハードディスク・レコーディングシステムとして「ProTools」が発売されました。ProToolsは現在、音楽制作現場を始め、映画関連や放送局など、音声素材を取り扱う多くの分野において共通するオーディオ・システムとなりました。

一方、電子楽器・鍵盤楽器方面の発展状況に目を向けると、こちらもMIDI信号のプログラミングにPCでの打ち込みが一般的となっていました。一つの楽器で複数の音色やパートを鳴らせる「マルチティンバー音源」が一般化したため、複数の楽器間でMIDI情報のやりとりを行った際に、音色の互換性の問題が発生するなど、データの共有面で困るようになっていたのでした。(ちなみに当時の記憶媒体はフロッピーディスクがメインの時代です。)

そこで、1991年、MIDI信号において音色の番号の並び方をある程度共通させた音色マップや、ピッチベンド・モジュレーション・音色チェンジなどの表現の制御情報・命令までアサインすることのできるコントロールチェンジなどが定められた「GM規格」という統一規格が制定されました。現在のPCMシンセ・キーボードはほぼ、この規格に従っています。

その後、MIDIというデジタルの演奏情報そのものをプログラミングする「MIDIシーケンスソフト(シーケンサー)」と、音声録音・編集を行う「オーディオ編集ソフト(レコーディングシステム)」が、お互いの機能を取り込む形で統合されていき、現在「DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)」と呼ばれるシステムの基礎が完成したのでした。

DAWによるレコーディングと、テープ時代までとの大きな違いは、録音されたものに対して新たなデータを記録追加する過程で、前のデータを消去しない限りデータが背面に残る「非破壊レコーディング方式」への転換です。音楽に限らず、現在のパソコン上でのあらゆるソフトで [戻る] があるのは当たり前のことですが、テープ録音ではありえなかったことであり、これにより利便性が大幅に向上し、音楽制作手法にも多大な影響を及ぼしました。

さらに、ハードウェアの機材ではなくパソコン内にインストールする形のソフトウェア音源(ソフトシンセ)エフェクターなどが、すべてDAWの拡張機能としてインストールする「プラグイン」として統合コントロールされるようになります。

現在まで老舗のプラグインメーカーとして君臨するwaves audioも1992年に設立され、イコライザーリミッターなど、音楽製品として仕上げるミキシング作業に欠かせないプラグイン製品を次々と発売していきました。特に、音の凹凸を潰して、その分を底上げすることによって、音量の天井が決まっている音声ファイルにおいて聴感上の音量(=音圧)を上げることのできる「マキシマイザー」は、21世紀の音源におけるマスタリングの「音圧競争」の元凶となりました。1994年にwavesから発売された著名なプラグイン「L1 Ultra Maximizer」は、手軽な操作で音圧が簡単に上がることから、音楽制作現場で多用されていったのです。→こちらも参照

また、デジタル化のもう一つの弊害として、mp3圧縮の開発など、音質を下げる方向性での模索が始まってしまったことが挙げられます。これまでは周辺技術の発展は常に、音質向上が目指された発展であったはずですが、コンピューターの段階になると、データを扱う上での重さや容量の問題から、人の耳を誤魔化せる範囲で解像度を劣化させるような方向への進化(退化?)が始まってしまったのです。

パソコンを利用して楽曲制作をおこなう音楽制作手法は「DTM(デスクトップ・ミュージック)」と呼ばれて現在まで定着しています。


◉ロック

80年代のロック界の潮流をおさらいすると、LAメタル・グラムメタルなどのハードロックや、スラッシュメタルなど、大きくHR/HMと括られるダイナミックで派手な志向を持つロックバンドが主流となっていました。大会場でのパフォーマンスによるこういった派手さは、商業主義的であると捉えられがちであり、「スタジアム・ロック」「アリーナ・ロック」「商業ロック」と揶揄する呼ばれ方もされてしまいます。

一方で70年代後半のパンクロックから端を発する、メジャーへのアンチテーゼと実験精神を理念に持ったバンド群も登場し、ポスト・パンクニューウェイヴと呼ばれました。しかし、こちらもアート面との接近や、シンセサイザーの多用、MTVでの成功など、ビジュアル重視の側面や煌びやかなサウンドへと成長していったことで、反商業的な姿勢を支持するロックファンにとっては不満が溜まってしまっていました。

さらにロック以外のジャンルとして、ヒップホップの台頭や新しいR&Bの登場、クラブミュージックの発展など、デジタルサウンドが席巻し、往年のギターロックのスタイルを望むリスナーにとって辟易する状態となっていたのでした。

こういった中で、アンダーグラウンドなシーンでは、不満の受け皿となる別の動きが広がっていきます。ポストパンクとは別の、パンクロックをより狂暴化させたハードコアの誕生や、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのようなミクスチャー・ロックのスタイルの登場などは前回の記事でも紹介しましたが、ここでさらに90年代ロックに直接的につながる流れにも触れていきます。

◆オルタナティブロックの発生

デジタル・サウンドやMTVなどの華やかなサウンドに溢れ、巨大化した音楽シーンの裏側では、全米各地に無数のインディペンデント・レーベルが生まれていました。インディーズの音楽が活性化する基盤となったのが、大学生たちが放送部のように運営する「カレッジ・ラジオ」でした。限定的な地域のみで聴くことのできるコミュニティラジオとして機能し、地元のライブハウスで人気となっていたバンドがとりあげられたことでアンダーグラウンドなバンドシーンが活性化していったのです。

こうしたシーンから登場した代表的なバンドがR.E.M.ソニック・ユースです。こうしたインディーズのロックが、「メインストリームのロックに対抗するもう一つのロック」という意味でオルタナティブロックと呼ばれるようになりました。80年代後半においては、地域的なインディーズシーンに対して使われていたこの語ですが、90年代初頭にかけてこういったバンドのサウンドがメジャーシーンに躍り出るようになり、新たなロックの主流ジャンルとなったのです。

他に、ピクシーズジェーンズ・アディクションナイン・インチ・ネイルズマリリン・マンソン、といったバンドが登場しています。


◆グランジブーム

オルタナティヴロックに共感したのは、ヒッピームーブメント~ベトナム戦争終結の時代(1960年代後半~1970年代)に産まれた世代であり、彼らは『ジェネレーションX』と分類されます。ジェネレーションXはヒッピー運動の衰退とベトナム戦争の終結による「しらけムード」の中で10代を過ごしました。その後80年代のアメリカのレーガン政権下では富裕層を貧困層の格差が広がっていったこと、親の世代の離婚率の上昇、1989年の冷戦終結とベルリンの壁の崩壊などでの社会不安、不況、軒並み就職難に覆われるなど、将来に希望を持てず、鬱屈とした空気感を纏った若者となっていました。

特にこういった若者たちからカリスマ的に支持されたのが、カート・コバーンがボーカルを務めるニルヴァーナです。1991年のアルバム「ネヴァーマインド」からのファーストシングル「Smells Like Teen Spirit」が大ヒット。内向的でネガティヴな歌詞と攻撃的なサウンドが、当時のX世代が抱えていた苛立ちや閉塞感に共感を呼び、オルタナティヴ・ロックを象徴するサウンドとして世に知らしめた形になりました。

ニルヴァーナを筆頭とするこのようなサウンドがアメリカのシアトルを拠点として台頭し、オルタナティヴロックのサブジャンルとして「グランジ」と呼ばれ、大きなムーブメントとなりました。パール・ジャムサウンドガーデンアリス・イン・チェインズマッドハニーなどがニルヴァーナと並ぶグランジバンドであり、シアトル以外からもダイナソー・ジュニアスマッシング・パンプキンズストーン・テンプル・パイロッツといったのバンドがグランジの潮流として台頭しました。

さて、ニルヴァーナはアルバムのヒットによる急激な成功によって、パブリック・イメージと自身の内面に乖離を感じるようになり、精神的に不安定にさせる要因となってしまいました。グランジの成功によりオルタナティブ・ロックがMTVでも頻繁に流れるようになるなど、かつての攻撃対象に自分たちが身を置くこととなり、パンク精神のズレが生じてしまったのです。そして1994年、カート・コバーンは27歳の若さで拳銃自殺してしまいました。

この悲劇により、90年代前半のアメリカの音楽シーンを席巻したグランジブームは急激に失速していき、オルタナティブ・ロックは次の段階へと進んでいきます。インディーズであるという定義がグランジブームによって崩れたオルタナティヴロックという語は、単に「80年代主流のメタルなどとは異なるバンド群」というニュアンスを持つようになっていたのでした。

ニルヴァーナのドラマーであったデイヴ・グロールは、カート・コバーンの自殺によるニルヴァーナの解散後、フー・ファイターズというバンドをつくり、活動をつづけました。また、ブッシュ、コレクティブ・ソウル、ライブ、クリード、ニッケルバック、パドル・オブ・マッドなどといったオルタナティブロックバンドが登場し、彼らはグランジの後を継ぐ「ポストグランジ」というジャンルだとされました。


◆マッドチェスターからブリットポップ・ムーブメントへ

前回の記事においてクラブミュージックの項で紹介した通り、ヨーロッパでは80年代末~90年代初頭にアシッド・ハウスの流行から端を発するレイヴ(野外ダンスパーティー)の人気=セカンド・サマー・オブ・ラブと呼ばれるムーブメントが起きていました。この影響を受け、ダンスビートとギターバンドサウンドを合体させることで成功したバンドがイギリスに登場します。ストーン・ローゼズハッピー・マンデーズシャーラタンズプライマル・スクリームらが牽引したこの動きは「マッド・チェスター」と呼ばれ、イギリスにおいて70年代後半のパンクロック以来のバンドブームを生んだのでした。

マッド・チェスターは短期間のブームに終わりましたが、このムーヴメントを通過したUKバンドが多く活躍することになります。

90年代のイギリスロックシーンのシンボル的バンドとなったのが、オアシスブラーです。彼らを中心としたイギリスのロックシーンは「ブリットポップ」と呼ばれ、特に90年代後半は空前のブリットポップブームが巻き起こりました。

他にアッシュ、ブルートーンズ、スウェード、オーシャン・カラー・シーン、ザ・ヴァーヴ、パルプ、クーラ・シェイカー、ミューズ、ステレオフォニックス、スーパーグラス、トラヴィス、ドッジー、ノーザン・アップロアなど多彩なバンドが登場しています。


さらに、同じくこの時期にイギリスに登場したレディオヘッドはオルタナティヴ・ロックやブリットポップを大枠として活動を開始するも、電子音楽や現代音楽などの分野に興味を示します。アルバムの世界的な成功により名声を得るも、その方向性を次々と捨てて急速に音楽性を変化させ、実験的なサウンドを打ち出してロック界に衝撃を与えました。

初期のオーソドックスなスタイルでは「Creep」が世界的なヒットとなり、その後3rdアルバム『OK コンピューター』では様々な実験的要素を取り入れて大きな評価を獲得。さらに4thアルバム『キッド A』でエレクトロニカ・現代音楽などに大きく傾倒し、「商業的自殺」とまで言われましたが,
大方の予想を裏切り再度成功を収めました。

他に、マッシヴ・アタックは、ヒップホップ、レゲエ、ジャズ、ソウル、ロックなど様々なサウンドをミックスした独自の音楽性でトリップホップというジャンル名が付けられて評価されました。


◆ポップパンク

90年代オルタナティヴロックにおいてはグランジの他に、メロディアスで聴き易いポップパンクという潮流も広まりました。

この潮流はグリーン・デイオフスプリングの登場によって広まりました。70年代の本来のパンクロックに比べ、音圧の高さと疾走感が特徴となっています。

近しいジャンルとして、メロディック・ハードコア(通称「メロコア」)と呼ばれるジャンルも存在します。ポップパンクと混同されがちな分野ではありますが、その違いは70年代のパンク・ロックではなく、80年代のハードコア・パンクにルーツを持つ点だといわれます。

グリーン・デイやオフスプリングのほか、バッド・レリジョン、NOFX、ブリンク 182、ライフタイム、ウィーザーなどといったバンドがいます。


◆エモ

ハードコアパンクをルーツとする音楽としてさらに、エモというジャンル名も出現しました。エモーショナル・ハードコアやエモコアとも呼ばれます。

シアトルのアングラシーンをグランジという名で世界に紹介したサブポップというレーベルが同じように「エモ」という語で音楽を紹介したため、当初はメディア用のラベルではないかといわれていましたが、一定のバンド群がこの「エモ」というジャンル名で一般に認知され、この時代に発生したロックのサブジャンルの一つとなりました。

具体的にはこの時期まず、サニーデイ・リアル・エステイトがこの「エモ」だとされて認知されました。グランジブームと重なり、曖昧な定義のまま消滅するかと思われましたが、この後「エモ」として成功したバンドが登場することにより、2000年代のロックの中で1つのムーブメントとなっていくことになります。



◆ミクスチャーロック

90年代はヒップホップの影響が密接になっていった時代でもありました。80年代で紹介した通り、ビースティーボーイズのサウンドがロックとラップとの融合の先駆けとなっており、さらにハードコアパンクとファンクを混ぜ合わせたようなミクスチャーロックというジャンルがレッド・ホット・チリ・ペッパーズの台頭によって決定的となりました。

これらに続いてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンも重要なバンドとして登場します。ヘヴィなリズム隊とトリッキーなギターに、政治問題に言及していくシリアスなボーカルのラップが特徴です。 

ミクスチャーロックには他にも、ハードコアパンクとスカが融合したスカパンク/スカコアなどとされるランシドサブライムフィッシュボーンなどが登場しました。


◆シューゲイザー

グランジやブリットポップ、ポップパンクなどとは一線を画して独自の立ち位置を築いたサブジャンルも登場しました。その名も、シューゲイザーです。演奏中、うつむいて靴(シュー)を見つめている(ゲイズ)ようだということからその名が付けられ、エフェクターによって極度に増幅を重ねたノイジーなギターと内省的な世界観が特徴で、そのサイケデリックなようすから、ネオサイケデリアとも呼ばれました。60年代後半のサイケデリック・ロックの新解釈として、オルタナティヴ・ロックの1ジャンルとも捉えられています。ジーザス&メリーチェインがこのようなサウンドの先駆けとなり、90年代初頭にマイ・ブラッディ・ヴァレンタインがヒットしたことにより世界中に衝撃を与え、ジャンル化されていきました。他にスロウダイヴ、ライド、ラッシュ、ムーンシェイク、スワーヴドライヴァー、テレスコープス、カーヴ、メディスン、ペイル・セインツ、チャプターハウスなどのバンドがこのカテゴリーに分類されました。


◆ソロアーティストの活躍

90年代のロックシーンでは他に多彩なソロシンガーもオルタナティヴロックシーンに爪痕を残しました。ビョークベックなどはハウスやヒップホップなどの影響を受けたコンピューター世代のロックサウンドとして独特の世界観を開拓し、インパクトを残しました。

ベン・ハーパーレニー・クラヴィッツシェリル・クロウなどのシンガーソングライターも多くのヒットを残しました。



◆メタルのその後

オルタナティヴロック、特にグランジはメタルを敵視していました。特に1991年にニルヴァーナの「ネヴァーマインド」のヒットにより、80年代のHR/HMは一気に古いものとなってしまったのでした。HR/HMのウリであった派手な衣装や超絶技巧のギターソロ、大規模で大胆、破天荒な生き様などはすべてダサくなり、グランジの内省的で観念的なものが支持されるようになってしまったのです。

そういった中で、メタル界でも独自の進化を遂げた潮流が登場します。

90年代初頭、ドゥームメタルとデスメタルを融合したデス・ドゥームが発展し、ゴシックメタルが生まれました。ゴシックというイメージのとおり、コーラスやオーケストラの音などを導入した、暗く重厚で耽美的な世界観を特徴とします。パラダイス・ロスト、アナセマ、マイ・ダイイング・ブライドなどのバンドがこのジャンルの代表的存在だとされます。この3バンドはイギリスのインディーズレーベル「ピースヴィルレコード」に所属していたため、ピースヴィル御三家とも呼ばれるそうです。


さらに、70年代のプログレッシブ・ロックの「難解で長大な楽曲、変拍子、転調、シンセサイザーの多用、コンセプト性を持ったアルバム構成」をヘヴィメタル・スラッシュメタルに融合させた、プログレッシブ・メタルというスタイルのバンドも登場し、90年代にマニアックなひとつのジャンルとして独特の立ち位置を確立しました。プログメタルのBIG4(四天王)と呼ばれるのが、ドリーム・シアタークイーンズ・ライクフェイツ・ウォーニングクリムゾン・グローリーです。


さらに、パンテラエグゾーダーセパルトゥラといったバンドの音楽性を示すグルーヴメタルというジャンルも登場しました。このように、メタルは80年代にも増してサブジャンルを増殖させ、独自の体系の中で融合・対立を激しく繰り返していったのでした。





◉クラブミュージック

つづいて、クラブミュージックについてです。80年代を復習しますと、ディスコ・ガラージュを源流とするシカゴハウスや、派生としてドイツの電子音楽などを吸収したデトロイトテクノの誕生から、クラブミュージック人気がヨーロッパへと飛び火し、その後サイケデリックなアシッドハウスなどを中心にセカンド・サマー・オブ・ラブと呼ばれるレイヴ(野外パーティー)の人気が一大ムーブメントとなっていました。

その影響力は、先ほど紹介したようにマッド・チェスターなどのロックのムーブメントにも派生するなど非常に大きなものとなっていましたが、ドラッグ禍の問題や社会の不安定化の観点から危険視した政府・警察によりたびたび圧力を受けるようになります。さらに、そのブームに目をつけたプロモーターたちによって多額の入場料を取る商業目的のレイヴが行われるようになると、ムーブメントは当初の精神性を失い、下火となっていきました。

ムーブメントの担い手たちは、その後、商業化されたレイヴやポップミュージックシーンへと向うか、もしくはアンダーグランドなクラブ文化へと流れていくかの二極へと分かれていきます。そうして、ヨーロッパ各地域の文化と結びつくことにより、一気に多種多様なスタイルのサブジャンルが花開くこととなったのです。さらに、シカゴ、デトロイト、ニューヨークといった、ハウスやテクノを産んだ本家アメリカの地においても独自の発達をしていき、ヨーロッパのクラブシーンと結びついていったのでした。


◆ビッグビート

イギリスにおいて1980年代後半以降、テクノとロックの双方から影響を受け、バンドサウンド重視の音作りとサンプリングによるブレイクビーツのループを多用した特徴のビッグビートというダンスミュージックが発生しました。ファットボーイ・スリム、ケミカル・ブラザーズ、アンダーワールド、プロディジーなどが代表的なアーティストとして登場しました。「80年代後半から90年代のイギリスにおけるロックとダンスミュージックの融合」という意味で、マッドチェスターと近い位置にあるジャンルとも言えます。

さらに、イギリスのDJ ポール・オーケンフォールドが、同じくイギリスのバンド U2 の楽曲をリミックスし、本家を超える高いチャートにランクインするなど、ロックとダンスミュージックの接近が推し進められたのでした。DJの世界番付・人気投票が始まるなど、ドラッグなどと距離の近かったクラブ文化は次第に健全化し、DJの地位も向上していきました。


◆ハードコアテクノ/ガバ

アシッドハウスとともに混然一体となってヨーロッパへ持ち込まれたテクノも、その後ヨーロッパ全土へと広がり、各地域の地域性と融合していきました。オランダやベルギー、アメリカのニューヨーク、オーストラリアのニューキャッスルなどにおいて同時発生的に、テクノを高速化させ狂暴化させたハードコアテクノが誕生しました。メスカリナム・ユナイテッドの「We Have Arrived」がその始まりだとされています。その後、さらに高速化したガバというサブジャンルも誕生し、ハードコアテクノの主要なスタイルとなりました。そもそもギターのエフェクターであったディストーション(ひずみ)をコンピューター上でドラムマシンのキックにかけるなど、コンピュータの持つ可能性を活用して、従来の常識を壊す前衛的なサウンドメイキングが模索されはじめたのです。特徴的なひずんだキックはガバキックと呼ばれます。代表的なアーティストは、ネオファイト、ザ・スタンド・ガイズなどです。


◆ミニマルテクノ

テクノの源流であるアメリカのデトロイトやドイツでは、テクノを狂暴化させたハードコアテクノ/ガバとは対照的に、ミニマルミュージックと結びついて展開をシンプルにさせたミニマルテクノが誕生しました。デトロイトテクノから見た1990年代初頭の状況は、テクノがパーティー向けの「レイビー」なサウンドになりすぎてテンポが速くなり、ガバが出現した、というふうに悲観されました。その反動から従来のストイックなサウンドへの揺り戻しが望まれ、特にクラシックや『現代音楽』の伝統、そしてクラフトワークなどの電子音楽の文化を持つドイツにおいて、ミニマル・ミュージックとの結合が発生したのです。

 "繰り返される短いドラムパターンやメロディの「基本形」が徐々に変化していくテクノ、またはその「基本形」に少ない音で味付けされたテクノ"という説明がなされます。

そもそもの1960年代ごろ以降の『現代音楽』におけるミニマル・ミュージックの巨匠、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラス、テリー・ライリーらから影響を受けつつ、ミニマルテクノはロバート・フッド、ダニエル・ベル、ジェフ・ミルズ、リッチー・ホウティンらがそのサウンドを産み出しました。



◆プログレッシブハウス

同じように、ハードコア・テクノやレイヴ・カルチャーに対するカウンタームーヴとして「ハウス側のアクション」として発生したのが、プログレッシブ・ハウスです。楽曲の長さが長く、大きいスケールでクライマックスへと向かう構成が特徴とされます。

レイヴの発生によってアシッドハウスのようにサウンドが過激になっていったため、「アシッドハウスからの離脱」「反・レイヴ」のハウスがプログレッシブハウスという語で呼ばれるようになったのです。その後レイヴ人気が収束した1990年代中盤には、この「プログレッシブハウス」がハウスミュージックの主流となりました。アーティストとしては、レフトフィールド、ドラム・クラブ、スプーキー、フェイスレスらが成功し、DJではガット・デコール、サッシャ、ジョン・ディグウィード、そして、先ほども挙げたポール・オーケンフォールドが挙げられます。



◆ハードハウス

一方そのころニューヨークでは、それまでのハウスよりも激しいスタイルの新しいハウスがプレイされ、ハードハウスと呼ばれて流行していました。1992年にオープンしたクラブ「サウンド・ファクトリー」において、DJであるジュニア・ヴァスケスがプレイした一連の楽曲、及びそれに類似した楽曲群を「ファクトリー・サウンド」と称したことが始まりのようです。この動き以後、ジュニア・ヴァスケスの人気上昇やダニー・テナグリアジョナサン・ピーターズなど他の人気DJの誕生と熱狂的な支持を背景に、アメリカ全土にのみならずヨーロッパや日本にまで人気が波及し、ハウスの一ジャンルとして確立されるに至ったようです。



◆ディープハウス

ヨーロッパでのプログレッシブ・ハウスの誕生と、その他のジャンルの細分化、そしてアメリカでのハードハウスの誕生によって、80年代後半あたりから鳴らされていた従来のハウスミュージックのサウンドに対して、単に「ハウス」と呼ばれていた名称はいつのまにか「ディープハウス」と呼ばれるようになっていました。

そのディープハウスとしての枠組みで初めて評価されたのが、1996年に始まったパーティー「ボディー&ソウル」です。このパーティーにはハウスを産んだDJであるラリー・レヴァンと共にパラダイスガラージなどでDJをしていたフランソワ・ケヴォーキアンダニー・クリビット、それにレコード店の経営者ジョー・クラウゼルの3人によって行われ、世界中から人気を博しました。こうして、従来のサウンドも「ディープハウス」という1ジャンルとして生き残ることができたのでした。


◆テックハウス

このように、テクノとハウスのそれぞれのシーンで様々な潮流が発生していましたが、もともと相互に関連しあっているこの2つのジャンルにおいて、その中間ともいえるサウンドも登場してきており、テクノとハウスの中間を表す概念としてテックハウスというジャンルが誕生しました。テンポに関してはハウスより早く、テクノより遅い傾向で、音の特徴としてはハウス由来のキックの4つ打ちを保ちながら、テクノの持つ無機質な空気感を演出し、音数はむしろテクノやハウスよりも少なくなったものがこう呼ばれました。

つまりミニマルな方向への融合がこの「テックハウス」であり、イギリス的なアップリフティングな融合ではなく、あくまでもドイツ的なダウナーへ向かう融合であったために、特にドイツで支持されました。逆に、ハウスとテクノ双方のアグレッシブな部分を継承するという、音数が増える方向へ融合したものは「ハードハウス」と呼ぶのがふさわしいとされます。また、ボーカルが書き下ろしの歌詞などを歌うものは、通常の「ハウス」か「ディープハウス」と呼んだほうがふさわしいとされています。テックハウスがボーカルを使う場合、サンプリングしたボーカルを切り刻んで配置するなど、テクノ的な効果音として使用するのが通常だそうです。



◆アシッドジャズ、クラブジャズ

さて、このようなクラブシーンにおいて、ジャズやフュージョンのレコードも選曲されてリズムマシンやサンプリングを絡めてプレイされるようにもなっており、クラブシーンから派生した「踊るためのジャズ」という文化が生成されつつありました。クラブで客を踊らせるのに適したレコードが過去の豊富な音源の中から探されるようになり、従来のジャズリスナーとは全く異なる価値基準で音楽が評価されるようになったのです。発掘されるようになった音源群は「珍しいグルーヴ」「見つけ難い音源」という意味でレアグルーヴと呼ばれるようになっていました。

このような背景から、特にこの時期に登場したジャズ・ファンクやソウル・ジャズ等の影響を受けたクラブミュージックがアシッドジャズというジャンルとなりました。クラブで踊るためのジャズというもう少し広い意味では単にクラブジャズという言い方も登場し、現在まで使用されています。


そして、このムーブメントと一体となったバンドやアーティストも登場しました。インコグニートブラン・ニュー・ヘヴィーズジャミロクワイらが代表的なアシッドジャズのアーティストです。

彼らの音楽はあくまでもジャズ・フュージョンシーンではなくクラブシーンに向けたものであったため、ジャズリスナーからは認知されることはありませんでした。「ジャズ」という名前が付いていてもジャズ史に記述されることもなく、クラブミュージックのジャンルの一つとして残ることとなったのです。


◆フレンチハウス

1990年代後半以降、多くのフランス人アーティストによってもハウスが作られ、フレンチハウスと呼ばれました。70年代後半~80年代前半にかけてのディスコ楽曲からのサンプリングや、その影響を強く受けた独自のフックと、フィルターやフェイザーといったエフェクターの独特な使用法が特徴だとされています。このジャンルは特に、ダフト・パンクが世界的に成功したことをきっかけにしてサウンドが広く知られるようになりました。


◆イタロハウス

イタリアにおいては、1980年代初頭に独自のディスコミュージックが流行しており(=イタロディスコ)、シンセサイザーによる宇宙を想起させるサウンドエフェクト(レーザー銃、宇宙船など)のイメージからスペースディスコ、スペースシンセなどと呼ばれるサブジャンルも存在していました。また、これらに関連して、ユーロディスコハイエナジー (Hi NRG)といった、ディスコと電子楽器が融合したスタイルも、アメリカ発祥のハウスとは別にヨーロッパの水面下で発生していました。

これらは1980年代末には衰退してしまいますが、ハウスやテクノがアメリカからやってきたことにより、これらが結合していき、90年代においてメジャーシーンに顕在化したのでした。イタリアではイタロディスコとハウスミュージックが結合し、イタロハウスとして確立し、ヨーロッパ各地やアメリカで1990年代前半に非常に人気を集めました。元来のシカゴハウスよりも熱狂的で、ピアノが印象的なハッピーでポップなサウンドが特徴だとされます。

ブラック・ボックスが特にヒットしたアーティストであり、「ライドオンタイム」「Everybody Everybody」などが有名です。



◆ハウスサウンドのヒットチャート進出

ハウスミュージックが様々な派生をしていった中で、このようなサウンドを取り入れた楽曲がヒットチャートにランクインするようになっていきました。上述のイタロハウスのブラック・ボックスをはじめ、ベルギーのテクノトロニック、ドイツのスナップ!、そしてアメリカでもニューヨークのC&C ミュージックファクトリーやシンガーのクリスタル・ウォーターズなどのアーティストが挙げられます。


◆トランスミュージック

さて、ディープハウスやテックハウスなどとは反対に、レイヴやアシッドハウスからの潮流、そしてハードコアテクノなどから発達していったのがトランスミュージックです。疾走感のあるテンポでうねるようなシンセサイザーのフレーズが反復され、ダンスフロアにいる人々の脳内の感覚が幻覚や催眠を催す「トランス状態」に誘うかのようであることから名付けられました。初期のトランスはアシッドハウスの影響がよく感じられます。

このような初期トランスのサウンドは、サイケデリックロックの時代からヒッピームーブメントの聖地とされていたインドのゴア地方に持ち込まれて、独自の発達を成し、ゴアトランスというサブジャンルを生みました。インド音階やイスラム音階などを用いたメロディや、宗教を思わせるパーカッションや音声をサンプリングし、有機的で民俗的な楽曲が多いのが大きな特徴です。

さらに、このゴアトランスが発達していき、サイケデリックトランスが生まれました。サイケデリックトランスにおいては、インドや宗教的な要素は消えていき、催眠的な高揚感・トランス感がより重視されました。インフェクテッド・マッシュルーム、ジュノ・リアクターなどが代表的なアーティストです。

一方、ハードコアテクノなどの要素も取り入れられながらヨーロッパを中心に発達していったトランスミュージックはユーロトランスと言われ、特に90年代後半、オランダにおけるユーロトランスの派生、「ダッチトランス」が大成功しました。そして、オランダに限らずともトランスの中心的なジャンルがダッチトランスとなっていったのでした。RolandのJP8000というシンセサイザーに搭載されていた、ノコギリ派の波形を重ねたSuper Sawスーパーソウという音色を利用した壮大でメロディアスな楽曲が特徴的です。 システムF(フェリー・コーステン)の「アウト・オブ・ザ・ブルー」のヒットをきっかけに広まり、2000年代にかけて勢いを拡大していきます。ティエスト、アーミン・バン・ブーレン、フェリー・コーステン、ランク1が代表的なアーティストです。



◆ユーロビートと日本の「パラパラ」

イタロハウスを中心として、ヨーロッパのハイエナジーをルーツとしたハイテンションなダンスポップも、イギリスを筆頭とする欧州のチャートを席巻し、「ユーロビート」と呼ばれました。しかしユーロビートは、アメリカでは全く知られていない場合が多く、ヨーロッパでもすぐに飽きられてブームが収束していきましたが、日本においては日本特有のディスコのダンス文化「パラパラ」が流行したことによって高い認知度を得ることができ、アイドルソングにおいても非常に大きな影響を受けました。この時期の多くのトランス的なユーロビート楽曲が日本のアーティストにカヴァーされてヒット曲となっています。「日本のPara Paraの音楽」として逆輸入して認知されている場合もあります。



◆レゲエからジャングル、そしてドラムンベースへ

ここまですべて、大きく「ハウスミュージック」系統の潮流でしたが、ここで別の流れにも触れておきます。ジャマイカで誕生し発達していたレゲエから派生した流れです。

イギリスは、カリブ海からの移民を積極的に受け入れていたため、サウンドシステム文化を含めてレゲエサウンドが黎明期から流入していました。80年代のレゲエのコンピューターライズド時代には、イギリスでも同様の革新が行われ、ニュールーツと呼ばれていました。こういったサウンドが、ニューウェイヴやテクノ、ハウスなどの音楽にも少なくない影響を与えており、先述したとおり、ロックバンドのマッシヴアタックが取り入れたレゲエサウンドはトリップホップというジャンル名で呼ばれたりもしていました。

このようにレゲエの影響力が続いていた中で、1990年代、レゲエのトラックやベースラインでありながら、ドラムのブレイクビーツを高速で鳴らして複雑化した「ジャングル」というジャンルが誕生しました。これは、ターンテーブルの回転数を誤って鳴らしてしまったのを面白がって、音楽に仕立て上げたレゲエDJたちが祖先とされ、はじめはレゲエ音楽の亜流だったものが独立していったのでした。レベルMCというDJらがこの手法を産んだとされ、1994年に発売されたM-Beat「Incredible」のヒットが、ブームのきっかけとなりました。

ジャングルにおいては、レコードからサンプリングされたドラムブレイクのみをリズムとして使用する事が大半でしたが、やがてリズムマシンやソフトウェアなどを用いたクリアな音質のリズムも併用されるようになり、レゲエから完全に離れたディープなクラブミュージックの1ジャンルとして発展していき、これが「ドラムンベース」というジャンルの誕生になりました。1990年代中盤以降、ドラムンベースはイギリスのクラブシーンで隆盛を見せました。初期のドラムンベースのアーティストとしては、LTJブケム、ファビオ、ゴールディー、4ヒーローなどが代表的です。

ジャングルやドラムンベースにおいて非常に重用されたブレイクビーツが、「アーメンブレイク」というものです。これは、ファンクバンドのウィンストンズの楽曲「アーメン・ブラザー」という曲の一部で、ドラムソロの部分が抜き出されたものでした。テンポを遅くしたものがヒップホップにおいてもよく使用されていましたが、ドラムンベースにおいては、高速化に加えてサンプラーによる加工と再構築によって複雑化し、そのビートの可能性が広がったのでした。アーメンブレイクは、「世界で最も有名であり、最も多くの曲にサンプリングされた、最も重要なドラムソロである」と言われています。

このようにしてアーメンブレイクは切り刻まれ複雑化していき、90年代後半にはドリルンベースというサブジャンルも登場しました。ドリルンベースはスクエアプッシャーが創始したとされ、代表的なアーティストとしては他にエイフェックス・ツインμ-Ziq(ミュージック)なども有名です。彼らはイングランド南西端のコーンウォールから台頭したため、「コーンウォール一派」と呼ばれています。ただ、彼ら自体はドリルンベース以外の音楽もたくさん生産しており、ドリルンベースだけでなく、後述の「IDM」という実験的な電子音楽のジャンルのアーティストである、とも分類されました。

ドリルンベースと類似の分野として、ブレイクビーツを歪ませるなど、ハードコアテクノやガバの影響が見られるサウンドはブレイクコアとも呼ばれます。ブレイクコアは、ドラムンベースの中でも最もビートの音圧が高く激しいサウンドであるといえます。さらに、ブレイクコアにおいてジャングルの段階に残されていたレゲエの要素を保ったままのサウンドはラガコアと呼ばれました。

このようにして、ドラムンベースがクラブシーンに台頭したことにより、ハウスミュージックのルーツとは別の、もう一つの重要な潮流が生まれた形となりました。



◆UKガラージ

1990年代初頭、イギリスではシカゴハウス黎明期の「ガラージュ」のスタイルを発展させようとした動きが生まれました。まず、同時期にアメリカのDJ、トッド・エドワーズによるソウル寄りで独特のボーカルエディットがなされたハウス/ガラージュがイギリスに渡ったのでした。そして、折しもレゲエ~ジャングル~ドラムンベースの影響力が増していたイギリスのクラブシーンにおいて、これらの影響を受けていき、独自のスピードガラージというスタイルが生まれます。他にアンダーグラウンド・ガラージなどという呼び方もあり、徐々にこれらのシーンが「UKガラージ」という一つのジャンルとなっていったのです。

ハウスの4つ打ちとは違う、ハウスよりもスピードのある、この“変わり種”のダンスミュージックは、「テンポを落としたドラムンベース」「ハウスとドラムンベースの中間」とも言うことができ、海賊ラジオ局やパーティでヘビープレイされて広まっていきました。

90年代末、このUKガラージのサブジャンルとして「2ステップガラージ」(単に2ステップとも)が台頭し、メインストリームでの成功を果たしました。4つ打ちでは無いキックのパターンと、ハネたリズム、そしてポップなR&Bヴォーカルが特徴です。そして、これが2000年代になりダブステップの誕生へと繋がっていくことになります。



◆エレクトロニカ/IDM

必ずしもクラブミュージックに限らないような実験的な電子音楽も発達していきました。そのような音楽はエレクトロニカと呼ばれました。広義では電子音楽の総称としての意味もあるといえますが、それは単に「エレクトロミュージック」と呼んだほうが適切で、「エレクトロニカ」という語が持つニュアンスとしては実験的な傾向が近いといえるでしょう。90年代初頭の当初は「IDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)」というカテゴライズもありました。特にクリック、グリッチ、カットアップといった電子的なノイズを利用した手法が評価され、狭義のエレクトロニカのイメージとなっています。このような手法はテクノなどのクラブミュージックにも輸入されていきました。オウテカアクフェンフォー・テットジ・オーブオヴァルなどが著名です。また、先ほど挙げたドリルンベースのアーティストも、その幅広い音楽性からIDMに分類されることもあります。



◆ラテン音楽のR&B・クラブミュージック化

ここで、ラテンミュージックの状況にも触れておきます。ボサノヴァやサルサなど、従来の古いラテンミュージックは衰退していきつつありましたが、特にカリブ海諸国を中心に、多くのラテンジャンルがハウスミュージックやヒップホップを取り込み、クラブミュージック化していっていました。ドミニカ共和国ではロマンティックなラテン歌謡をダンスサウンドでカバーしたようなメレンゲなどが登場し、サルサなどもR&Bバラード風のものやヒップホップのスタイルを取り入れたもの、リズムマシンの4つ打ちを取り入れたものなどに進化しており、こういったサウンドが、スペイン語圏のダンス音楽の新たな主流となったのでした。

また、プエルトリコでは、サルサなどの従来のラテンと、レゲエ、そしてヒップホップなどの要素が加わったレゲトンが誕生しました。プエルトリコ首都のクラブ等で若者がスペイン語でラップしたことから人気が出始め、スペイン語圏の国にまで広まりました。90年代に産まれたこのサウンドは、21世紀になって徐々に影響力を増していくことになります。

このようにこの時期、世界的には一旦影響力を失ったように思えたラテン音楽ですが、スペイン語圏の水面下での発展が、この後21世紀になってから再びメインストリームのクラブミュージックで注目を浴びることに繋がっていきます。



◉ヒップホップ


◆ニュースクール/ブーンバップ

80年代中盤から始まったヒップホップの黄金期、「ゴールデンエイジヒップホップ」は、90年代に入ってさらに発展していきました。特に80年代末~90年代前半に流行したスタイルは、ニュースクール・ヒップホップと呼ばれます。この時代のヒップホップには、黒人の誇り・団結・自覚を促す動きが見られ、黒人コミュニティに大きな影響を与えました。

デ・ラ・ソウルをはじめとして、ア・トライブ・コールド・クエストや、そのメンバーのQティップ、さらにブラックシープ、ジャングル・ブラザーズ、ラキム、ビッグ・ダディ・ケイン、スリック・リック、ステッツァソニック、ケアレスワン、ビートナッツらが活躍。一方で、トーン・ロック、ヤングMC、MCハマー といったラッパー達はポップラップでヒットを放ちました。さらに、ビズ・マーキークール・G・ラップらが所属したチームのジュースクルーが人気となったほか、クィーン・ラティファ、モニー・ラヴら女性ラッパーの登場も重要です。

このニュースクール期に中心となった、太いドラムループを主体としたサンプリングビートのスタイルは、「ニュー」ではなくなった現在ではブーンバップと呼ばれています。


◆ギャングスタ・ラップと東西抗争

ここまでニューヨークを拠点に発達していたヒップホップですが、この時期にロサンゼルスなどの西海岸からもヒップホップが台頭してきます。ジャズトラックを使用したものが多かった東海岸のサウンドに対し、西海岸では、Pファンクなどをサンプリングし、生楽器やシンセサイザーなどの電子音を取り入れたトラックが使用され、Gファンクというサブジャンルで呼ばれました。ラップは、ギャング出身者がそのライフスタイルを歌詞にし乗せることが多く、ギャングスタ・ラップと呼ばれました。ギャングスタ・ラップの源流となったアーティストはアイスT だとされ、N.W.A.などが続きました。

さらに、N.W.A.からドクター・ドレーアイス・キューブイージーEがソロで活躍したほか、スヌープ・ドッグ、2パック、ウォーレンG らが西海岸のギャングスタ・ラップの代表的なアーティストとして台頭し、Gファンクのサウンドを確立しました。

一方、東海岸でもこの影響を受け、攻撃的で激しい内容のヒップホップへとなっていきました。ノトーリアスB.I.G.リル・キム、ウータン・クラン、ジェイZ、ナズ などが注目され、東海岸のサウンドが再浮上した形となりました。

両海岸のレーベルやアーティストたちは深く対立し、お互いを威嚇、中傷し合いました。この東西抗争はラップの歌詞にも現れ、やがてギャングやマフィアを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展してしまいます。結果、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失うという、悲惨な結末を招いてしまいました。抗争はその後ある程度沈静化し、個人間の中傷合戦へと変化していきました。


◆サウス・ラップの萌芽

このように、西海岸と東海岸がヒップホップのメインの時代でしたが、その水面下で南部のヒップホップが産声を上げていました。N.W.Aやパブリックエネミーの活躍によって、黒人貧困層のコミュニティ(ゲットー)の悲惨な状況は知られるようになっていましたが、歴史的にまさに奴隷制が行われていた南部はさらに悲惨なものであり、ギャングスタ・ラップが伝わることで南部からもヒップホップアーティストが登場していきました。たとえば、「19歳まで生き延びられれば良いほう」といわれていたニューオーリンズのゲットーからマスターPが登場しています。

一方フロリダ州マイアミでは、Rolandのリズムマシン808のサウンドが特徴的なマイアミ・ベースというジャンルが誕生しました。2ライヴ・クルーDJマジック・マイクが代表的なアーティストで、彼らはリリックが卑猥なポルノラップの先駆者でした。物議をかもしたポルノラップですが、サウンドとしての「マイアミ・ベース」は南部のヒップホップに多大な影響を及ぼし、南部ラップの各サブジャンルの基礎となっていきました。


後にヒップホップの新たな本拠地となるのがアトランタです。アトランタにはニューヨークからMCシャイDがやってきて、ヒップホップを広めていましたが、生粋のアトランタ・ラッパーとしてはキロ・アリが登場し、そこからラヒーム・ザ・ドリーム、ヒットマン・サミー・サムなどが、マイアミベースを参考にしたサウスのラップを手探りで開発していき、その後TLCクリスクロス、ダンジョン・ファミリー、オーガナイズ・ノイズ、グッデイ・モブ、アウトキャストらがアトランタを盛り上げていき、徐々にサウスにも注目がいくようになっていきました。

ニューオーリンズには「バウンス・ミュージック」というジャンルが登場し、喘ぎ声をサンプリングするなど性的な要素が強調されました。「トゥワーキング」というお尻を振るダンスが重要な要素とし、MC.T.タッカーが初期に注目を集めました。そこから、ジュブナイル、リル・ウェイン、パートナー・N・クライム、UNLV、マグノリア・ショーティー、ホット・ボーイ・ローランドなどが初期のバウンスサウンドとして知られました。

メンフィスには、マイアミ・ベースのテンポを落としてダークにし、高速のハイハットや808から生成したベース音などを特徴とした「クランク」というサブジャンルが登場し、後にヒップホップの主流のビートとなるトラップの原型に一番近いスタイルとされています。クランクは、スリー・シックス・マフィアによって発展していきました。

テキサス州のヒューストンからはゲトー・ボーイズが登場し、「HiphopがNYから始まったのはわかったから、その自惚れを終わらせてやる!」と、LAロサンゼルスNYニューヨーク以外の声を代弁して人気となりました。マイク・ディーンのプロデュースによる、シンセサイザーに特徴のあるサウンドは「ダーティーサウス」と呼ばれました。

同じくテキサスからはカントリーラップの先駆者UGKが登場し、田舎ならではのスタイルを見せました。

その後さらにヒューストンではDJスクリューによってチョップド・アンド・スクリューという手法が出現します。これは、一度完成したミックスをスロー再生させることでサイケデリックな印象に変身させる手法で、当時南部に蔓延していたダウナー系のドラッグと相性が良く、ブームになりました。このサウンドはマイク・ジョーンズ、チャミリオネア、リル・ケケといったラッパーによって広がっていきました。




◉R&B


◆コンテンポラリーR&Bサウンドの確立

ブラック・コンテンポラリーと呼ばれたバラードのスタイルから、シンセポップのようなファンキーなポップス、そして、ニュージャック・スウィングのような新しいサウンドやヒップホップの要素の融合を携えて、往年のソウルと区別される形で確立した、コンテンポラリーな「R&B」。特に90年代は多くのアーティストがヒットチャートを彩り、そのジャンル名を世間に浸透させました。

〈代表的なアーティスト〉
ホイットニー・ヒューストン、セリーヌ・ディオン、メアリー・J・ブライジ、ローリン・ヒル、モニカ、マライア・キャリー、レジーナ・ベル、アリーヤ、ブライアン・マックナイト、TLC、ブランディ、ジョー、ボーイズ・ツー・メン、ジョデシィ、トニー・ブラクストン、アル・B・シュア!、ハイ・ファイブ、ブラック・ストリート、SWV、R・ケリー、マーク・モリソン、ロンダ・クラーク、ジョニー・ケンプ、シャンテ・ムーア、ケー・シー&ジョジョ、ソウル・フォー・リアル、トニ!トニ!トニ!、アン・ヴォーグ、アッシャー、シャニース、テヴィン・キャンベル、グルーヴ・セオリー、 アディーナ・ハワード、ドネル・ジョーンズ、ドゥルー・ヒル、モンテル・ジョーダン など


◆ネオソウルの萌芽

1990年代後半、コンテンポラリーR&Bに、ヒップホップやファンク、ジャズや往年のソウルなどが再融合したネオソウルというサブジャンルが生まれました。ネオソウルの特徴はクールなグルーヴ感だとされます。この時期はまず、ディアンジェロやエリカ・バドゥが筆頭の存在としてサウンドを確立しました。そして2000年代にかけて、東西抗争によって下火となってしまったヒップホップシーンからのR&B・ポップシーンへの接近と捉えることもできる新たな分野となっていくのでした。



◉ディズニー新時代

さて、1966年にウォルト・ディズニーが死去して以来、長い模索期に入っていたディズニー映画ですが、華麗な復活を遂げることとなりました。

『リトル・マーメイド(1989)』『美女と野獣(1991)』『アラジン(1992)』『ライオン・キング(1994)』などで、音楽で新しさをアピールすることで人気を取り戻し、新時代を迎えることとなったのです。

さらに、ディズニー資本は舞台へも衝撃参入します。『美女と野獣(1994)』『ライオン・キング(1997)』などで好調となりました。

これらの映画では、ハワード・ワシュマン作詞、アラン・メンケン作曲による楽曲が広くヒットしました。



◉スムースジャズとコンテンポラリージャズ

最後に、ジャズ史を見ていきます。オーソドックスなジャズ史では70年代がフュージョンの登場という「暗黒期」で、80年代は「新伝承派」=ビバップへの揺り戻しが起きて終了、というような描かれ方をしていますが、そんな単純な図式ではなく、フュージョンが誕生してからもと同時並行で「ポストバップ」として続いていたアコースティックジャズと、多種多様な方向性のフュージョンが、70年代から80年代を通して並存していた、という図式を前回書きました。

このような視点で観察すると、70年代~80年代までは、フュージョンミュージシャンとジャズミュージシャンというのは、互いの範囲がかぶった分野だったということがいえるでしょう。しかし、フュージョンという枠組みが徐々に飽きられ、その中でジャズから遠い側の分野が80年代後半以降、フュージョンに代わって「スムースジャズ」と呼ばれるようになっていました。こうして、90年代以降は、「スムースジャズ」と「アコースティックジャズ」が異なる分野として分離してしまったと言っていいと思います。


◆マイルスの死とヒップホップジャズ

ジャズ史におけるほとんどのサブジャンルの開拓者といえる「帝王」マイルス・デイヴィスは、新アルバム制作途中の1991年に、65歳で息を引き取りました。構想されていたアルバムはヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えたものであり、結局イージー・モー・ビーが大きく手を加える形で完成させられ、同年『ドゥー・バップ』としてリリースされました。常にその時代の新しいスタイルを取り入れてジャズのサブジャンルを更新し続けたマイルスは、このアルバムのヒップホップ・ジャズとも言えるサウンドで最後の最後まで、次のジャズの進む道を示したといえるでしょう。



◆90年代フュージョン/スムースジャズ

ジャズ業界としてはフュージョンブームが去り、再びアコースティックジャズが主流となっていきつつあった中で、スムースジャズはスムースジャズの分野としてまだまだ隆盛が続いていました。ソウルやファンクなどのフュージョンサウンドも統合していき、往年のフュージョンミュージシャンから新たなプレイヤーまでが登場して活躍しました。

マドンナやプリンスのバックバンドで活躍して注目されていた女性サックスプレイヤーのキャンディー・ダルファーは、バックバンドでは無く自身の活動に意欲を見せ、そのファンキーなサウンドでインパクトを与えました。

スムースジャズ系のサックスプレイヤーとしては、ジェラルド・アルブライトエリック・マリエンサルも非常に人気が高い存在となりました。

スタジオ系ミュージシャンとして活躍していたベーシストのネイザン・イーストは、フュージョン界の名プレイヤーであるボブ・ジェームス、リー・リトナー、ハービー・メイソンらとフォープレイを結成。ギタリストはラリー・カールトンを経てチャック・ローブにメンバー・チェンジするなど、フュージョン界の名プレイヤーが集まるスーパーグループとして注目を集めました。

ジャズ・フュージョングループのイエロージャケッツは、1990年にボブ・ミンツァーが加入して勢いを持ちました。彼らはコンテンポラリー・ジャズの要素を強めたサウンドを打ち出していき、影響力を持ったのでした。



◆M-BASE派の登場

繰り返しになりますが、1980年代には新伝承派というムーブメントが起こり、ジャズ評論から注目を集めていました。これは「クロスオーバー・フュージョンといったロック寄りではなく、伝統的なジャズのスタイルを復活させよう」というウィントン・マルサリスらによる原点回帰のムーブメントでした。しかし、おもにニューヨークのハーレムやブルックリン地区で活動をしている若手ミュージシャン達からは、新伝承派は単なる懐古趣味なのではないか?というアンチ・マルサリス派の動きが起こってきたのです。


彼らは、フュージョンやスムースジャズのように安易に電子サウンドには手を出さず、しかし形式的に過去のジャズを演奏するわけでもない、アコースティックジャズとしての新しい形を試みていったのです。特に、スティーブ・コールマンが提唱した「M-BASE理論」によってムーブメントとなり、運動の中心にいた若手ミュージシャンたちは「M-BASE派」と呼ばれました。ニューヨークのブルックリンから発祥した動きであるため、ブルックリン一派とも呼ばれます。

スティーブ・コールマン、グレッグ・オズビー、ジェリ・アレン、グレアム・へインズ、カサンドラ・ウィルソン、ジョン・ゾーン、ビル・ラズウェル、ティム・バーン、ゲイリー・トーマス、ビル・フリゼール、ロビン・ユーバンクスといった人々が新世代ジャズを演奏し始めたのでした。

M-BASE派は、フュージョン時代のアコースティックジャズであるポストバップから、現在のコンテンポラリージャズの中間に位置する存在だといえます。ここからさらに、コンテンポラリージャズの中核を担う次の世代が90年代後半から活動を開始していたのでした。そのミュージシャンについては、次回00年代の記事で取り扱います。


◆ビッグバンドとラージアンサンブル

オールドなスウィングジャズとは違うモダンビッグバンドとして、1960年代に結成されていた「サド・ジョーンズ&メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ」通称サドメルですが、1978年にバンドはメル・ルイス・ジャズ・オーケストラとなって継続していました。1990年、メル・ルイスが亡くなり、バンドの名称は拠点としていたジャズクラブの名を冠してヴァンガード・ジャズ・オーケストラとなります。メルルイス時代からヴァンガード時代にかけて、ボブ・ブルックマイヤー、ボブ・ミンツァー、ジム・マクニーリーらが代表的なアレンジャー・コンポーザーとして活動し、斬新なハーモニー感覚が後進の多くのジャズミュージシャンに影響を与えました。

マイルス・デイヴィスと二人三脚でクールジャズやモードジャズなどを研究したアレンジャーのギル・エヴァンスの弟子であるマリア・シュナイダーは、1993年にマリア・シュナイダー・オーケストラを結成しました。彼女は1986年から1991年の間、ボブ・ブルックマイヤーのもとでも学んでおり、さらにクラシックの素養もありました。従来のビッグバンドのアレンジ法にとらわれない、クラシックの影響を感じるシンフォニックな作風によって、ビッグバンドとは違う、ラージアンサンブルというジャンル名で呼ばれるようになります。

ラージアンサンブルは現在のジャズで無視できない潮流の1つとなっており、この時代に起こった「サドメルからマリア・シュナイダーの系譜」が重要となってきます。


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