【芸術と政治と建築と】 黒光りの歴史学。
どんなテーマでもまずは書いてみることは、日々の「思考訓練」になる。
さて、今回は何が出てくるのか?
という訳で、
「政治的であることは文化芸術を輝かせる」
という仮説から始めてみたい。
もちろん話の最初はモデルはモハメド・アリである。
カシアス・クレイ改め、モハメド・アリであるが、彼の活動とアフロ・アメリカンの政治運動は切っても切り離せないだろう。
アマチュア時代、人種差別を受けて五輪の金メダルを川に投げ捨てたエピソードに始まり、
「ベトコンはオレを”ニガー”と呼ばない。彼らには何の恨みも憎しみもない。殺す理由もない」
と言ってベトナム戦争の徴兵を拒否し、世界チャンピオンをはく奪された。
アリのその「政治的なアティチュード」は、後の「キンシャサの奇跡」までの物語と分けがたく結びついている(この試合は、アフロ・アメリカンのボクサー同士がそのルーツであるアフリカで戦う、という一種の政治的ストーリーから生まれている。そして、この試合の前夜祭のイベントではアフリカおよびアフロ・アメリカンの音楽家たちが共演し、かのジェームス・ブラウンも一世一代の名演を行っている)。
さて続きまして、
例えば、現代の建築家は政治的なるものから徹底的に回避している。
一方、
歴史を鑑みるに、「国家」を背負ったり「理想に燃える」建築家の建築には凄味がある。
例えば、国家を背負った丹下謙三の「代々木オリンピック・プール」と強力な政治理念(その内容の是非は別の問題として)から生まれたジュゼッペ・テラーニの「カサ・デル・ファッショ(ファシストの家)」は「20世紀最高の建築」の王座を二分する、あくまで個人の嗜好であるが。
音楽も「政治的」な方が黒光りする。
ジョン・レノン氏やボブ・マーレイ氏の音楽は分ち難く政治と一体化している。
また、芸術分野において大戦間に光り輝いていた「シュルレアリスム」運動は第二次世界大戦が終わったら途端にまったく陳腐化した。
戦争が無くなると共にその使命は終わったのであった。
そういう話ならば、三島由紀夫も黒光りしている。
是非、ドキュメント映画『全共闘vs三島由紀夫』を観ていただいて、
その圧倒的な輝きを確認していただきたい。正味な話、全共闘さんたちの話は現代の目からすると賞味期限切れで、ひたすら三島由紀夫のオーラの凄みを堪能する映画である。
どうやら、政治的であることは「艶が増す」のである。
デザインならば、
「革命芸術」であるロシア・アヴァンギャルドはいまだに仏血義理にカッコいい。
ロシア革命から生まれた「ロシア・アヴァンギャルド」は当時の最先端の芸術運動として、ヨーロッパ中を席捲した。
そして、「近代建築」ももちろん「政治性」から生まれている。
1917年、多くの予測を大きく裏切って、ロシアで革命が成功した。
現実の追い風を得た「近代建築」は我が世の春を迎え、ソビエトがその聖地となった。
革命の時代の象徴として登場した「近代建築」は、王権制度、ブルジョワジーを否定し、民衆のために新たな「建築」をゼロからつくりなおした(という設定になっていた)。
旧体制の建築における「装飾」はマルクシズムにおける「剰余価値」の具現化であり、それは建築が労働者を抑圧することを意味していた。
その旧体制的装飾を排除して「白い幾何学」となることは、「建築における革命」であったのだ。
かくして、時の政治性と連動した「近代建築」は華々しく世界に登場し、その「単純な造形」は、貧しい大衆のために「安価で大量生産した建築を提供する」ために必要な形式とされていた。
すなわちソシアリスムの建築による具現化である。
その近代建築運動のピーク時、
「革命の国」であり、当時の近代芸術運動の最先端にしてヨーロッパ各国に多大な影響を与えていた当時のソビエトの党大会会場として計画された1932年の「ソビエト・パレス」の建築コンペティションには、当時のヨーロッパ中の近代建築家が参加した。
しかし、そこで当選したのは、まさかのコテコテの似非古典主義にして、なんと最終的にはレーニン像がそびえたっているという代物で、「近代芸術運動の聖地」であるソビエトの幻想は粉々に崩れ落ちたのである。
この案を見た世界中の近代建築家は一斉に膝から崩れ落ちたであろう。
かくして「革命」「社会主義」の理想を具現化した「近代建築」はソビエトにおけるスターリニズムと相いれないモノとなり、
その「革命の聖地」ソビエトでは懐古主義としての「革命的ロマン主義」、すなわち「過去の装飾(権威)を再び纏った」形式が復古していった。
これによって「近代建築」という政治と一体化した結晶体は分裂し、その「形式」のみが大量消費社会の「一つの商品アイテム」となり、「革命」というワードは建築家たちの間で禁忌となった。
それと同時に建築は「政治的なるものに突き動かされるエネルギー」を喪ったのである。
そして現在、「建築」は消費社会のパッケージ・デザインを担当している。
降る雪やアリや三島は遠くなりけり、、、
と言う訳で、
最後にドイツが誇る「極左建築家」、ルードヴィッヒ・ヒルベルザイマーの作品を添付しておきましょう。
気合入りまくり。
あたかもジャーマン・ミニマル・ハード・テクノ音楽を彷彿とさせ、
建築から硬質な四つ打ちが聴こえてきそうである。
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