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web3.0、web4を超えてweb10.0へ。web1.0→web10.0の流れを解説する。

Web3.0で世間は持ちきりだが、今回はその先の先であるWeb10.0まで考えてみる。

こうした世の中の変化は指数関数や数列として考えることで、シンギュラリティとなる地点と、次に何が来るのかを予想できる。

web1.0「ウェブページ」

この時代では、HTLMによるネット記事を見ることが限界だった。しかし、オンライン上でウェブページが見られ、簡易的なゲームなどができることが画期的だった。モバゲーなどブラウザゲームが台頭した時代だったと言える。この時にコンピューターが普及した。

web2.0「SNSとプラットフォーマー」

個々のアプリケーションが生まれ、SNSとして普及し始めた。こうして、GAFAの台頭に繋がった。日本は、強力なプラットフォーマーを作れなかったものの、VOCALOID、MMD、ゆっくり、Vtuberなどプラットフォームを使い倒すイノベーションが数多く生まれ、拡散していった。スマホが普及し、GAFAが台頭した時代だったといえる。

web3.0「分散型ネットワーク」

ブロックチェーン技術により仮想通貨が生まれたものの、新たなFXを生み出すだけで、「レバレッジを掛けたFXのような激しい変動をする通貨で取引するのは厳しい」とのことから、仮想通貨自体は生活には普及しなかった。しかしそこに、NFTの技術などが入ることで、ブロックチェーン技術が生活にも適用できレベルになってきた。GAFAMもSNSからクラウドやメタバースへと移行しつつある。そして、何よりDAO(分散型自律組織)の登場によって、ティール社会、自律型社会が訪れようとしている。web4.0に近づくにつれて、社員一人一人がコストと利益を計算して、賃金や投資の意思決定をする、個人別採算方式なども導入されていくことだろう。
shopifyのような、プラットフォームのプラットフォームが台頭してくる時代になる。

web4.0「顧客主導型ネットワーク」

web3.0が完了すると、強力なプラットフォーマーから、個人個人が皆プラットフォーマーの時代へと移る。
すると、顧客同士が協力して価値創造をする場がつくられ始める。既存のネットは、協力してあるプロジェクトを達成するなど建設的なことを苦手としてきた。逐一、アウトソーシングしなければネット上で労働力を手にすることができなかった。しかし、web4.0では、個々のプラットフォームのメンバーが協力して一つのプロジェクトを行えるようになる。
すると例えば、「30人集めて〇〇をつくる企画」などが非常に簡単にできるようになる。こうして、ボランティアとアウトソーシングと、クラウドファンディング、雇用の壁が無くなっていく。

すると、労働の意味は、雇用主の言うことを聞くことから、メンバーを引いて新たなプロジェクトを進めることへと変わる。まさにスタートアップにとって天国のような時代になるだろう。このスタートアップエコノミーの形成が、イノベーションを加速するため、web4.0からweb5.0への移行は短期間になるだろう。

一方で、既存の企業は、顧客を雇用する意味を創造し、なんとか職場に留めておく必要が出てくる。
実際の能力よりも、人々を鼓舞し、共感してもらって石のスープが作れる人が求められる時代になる。

web5.0「需要主導型ネットワーク」

顧客が集まって新たなサービスを作り出せるようになると、今度は、AIやRPA、ロボットなどの技術で置き換えられるものは、徹底的に省力化がなされるようになる。
プロジェクトを遂行するうち、実働する時間や、プレリリースするまでのリードタイムは短くなっていく。

すると、リリース代行サービスや、MVP生産などが主力産業になっていく。こうして、カネさえあれば非常に多くの商品、サービスによる価値を受け取ることができる時代がやってくる。マスカスタマイゼーションの時代だ。

すると、他の人にも買ってもらえるサービスを需要することで、お金を稼ぐ時代が到来する。求めることは、売ることと同じになる。自分がある商品を求めて、その要求が他の人にも共感されれば、自分がその創作者として、その商品の売り手になれる。

例・好きなラーメンの味の組み合わせをネット上で選び、ウーバーに届けてもらう。その後に、その商品のデータがウェブ上に残り、他の人も食べたいと思えば、その商品の製作者としてリターンを得ることができる。

この時代では、能力どころか、共感させる力以上に、みんなが欲しいもの、潜在的な欲求を言語化し、求めることが必要になる。欲張り人間が求められる時代へと移行する。

web6.0「潜在需要発掘型ネットワーク」

web5.0で、誰もが需要者=創作者となると、次はこれらのデータが蓄積され、潜在需要を自動的に掘り出す技術が開発される。RNA-seqを始めとしたゲノミクス技術が台頭し、遺伝子発現を調べて一人一人にあった新薬開発などが行われる。

消費購買行動、生活行動から潜在需要を特定できるようになり、あらゆる潜在需要を掘り出す時代になる。

潜在需要というゴールドラッシュが巻き起こるのが、web6.0だ。すると、欲張り人間なだけでは、AIによる潜在需要発掘に太刀打ちできなくなる。

こうして、潜在需要を掘り出すのではなく、すでにある価値に別の意味をもたらす意味のイノベーションが極めて重要になってくる。潜在需要の掘り出しは、漫画の〇〇のジャンルが今みんな見たいといったデータを明らかにするが、MMD→ Vtuberのような変化を創造することはできない。

このため、意味のイノベーションをできる人や、アイデアの新結合をできる人がこの時代では求められる。また、難病者などはデータを売ることで生計を建てられるようになり、周りの人と違うだけで稼げる時代にもなる。

web7.0「需要創造型ネットワーク」

こうしてあらゆる潜在需要が叶えられていくと、あらたな需要創造がテーマの中心となる。新たな需要創造は人間の得意分野だと思われていたが、AIも役割を持ち始める。食品であれば、とにかく網羅的に食べ物や調理法を組み合わせ、あらゆる場合で味見をネット上で終えてしまうことで、「これは人の舌にも合うのではないか?」という料理を創造することができるのだ。

あとは、そこから生まれた料理を味見して、みんなが求めれば商品になる。こうして、料理、創作分野などで新たな価値創造がAIによって行われる。

競馬がいけるなら、競兎や、競犬、競牛などもできるのではないか?と多くのアイデアが低コストで試される。

ここで宇宙際タイヒミュラー理論が用いられ、メタバースやAIと現実の差を計算してくれるため、非常に現実にも見合ったアイデアが作られることになる。

このことが、宇宙際タイヒミュラー理論が使われることの大きなブレイクスルーになる。あえて現実との差異を出したメタバース用AIを作り、それで計算した後に、そのメタバースと現実の差異を計算する(そうしてアイデアを作る)といった技術が台頭することになる。

あとは、それに対してレビューや品定めをするのが仕事だ。すると、求められる人材像は、品定めをして、みんなに紹介するアンバサダーになる。

web8.0「意味付けと再発掘・リジェネレーション」

こうして、AIが知的生産によるイノベーションまでできるようになった時、意味付けが仕事になる。

それまで価値が否定されていたものであっても、再発掘することで価値創造をする。AIは一度否定されたことを再度正しいと思い正すことを苦手としている。

そこから、再発掘を行い、あえて古い価値を使ってみるなどの掘り起こしがなされる。

こうして、過去を再発掘する「リジェネレーション」の時代が到来する。民族衣装や遺産などからの価値創造も行い、新たな意味のイノベーションが繰り広げられる。

web8.0では、物事の意味や古い価値を読み解き、共感できる人が求められる。

web9.0「超・文化主義」

今という時代に生きずとも、過去の生活を送るライフスタイルも認められる時代となる。そうして、完全に自分に合ったスタイルや生き方が確立される。

こうして、全ての人に対する生きがいのマスカスタマイゼーションが行われ、生きがいイノベーションが達成される。欲しい映画や創作ならなんでもAIが生成してくれて、創作する理由も人間味を伝えるという意味だけになる。それぞれの人が、それぞれの文化を生きるようになり、それが他の人にとって面白いか?といった要素が重要になる。

web9.0までいくともはやカネという価値は影を潜めるようになる。もはや、人間がカネによって得られる経済的自由と、幸福は完全に達成されるからだ。

人は年収800万円以上は幸福にならないと言われており、この頃になれば、世界最低水準でも購買力平価での800万円程度の生活水準が保障される。

こうなると、カネという世界観から、生きがいという世界観へと再編される。貨幣は、過度な需要拡大対策に過ぎず、エコノミーというよりは、エコロジーのための貨幣と意味を変えることになるだろう。

その後は、生きがいを稼ぐための労働であり、もはやカネを稼ぐ意味もなくなる。強いていうならば、価値が大きいかの指標と、文化遺産を守るための指標として用いられるくらいだろうか(しかし、カネを稼ぐことと実態は乖離しており、カネは実価値に対し指数関数的に変動することが知られている。実価値を表す指標として使えないのならばカネの意味も、かなり変貌するだろう)。

web10.0「生きがいのためのウェブ」

FacebookやTwitterなどのSNSは使えば使うほど幸福度が下がるというデータが示されている。であるならば、FacebookやTwitterを使う究極的な意味は何だろうか?

こうした問題は、ジョブの達成によるイノベーションによって補われると考えられてきた。ようは、FacebookやTwitterを通して新たなイノベーションが起これば、その結果人命が救助される確率が高まるなどして、人々の生活水準が上がり幸せになと思われてきたからだ。

また、不思議なことにSNSが台頭したタイミングを皮切りに、アメリカ以外の主要先進国の生産性成長率は軒並み鈍化している。(これには、SNSが悪い説、SNSとは関係ない説、SNSが出て以降実態の成長がGDPに反映されてない説などがある)

こうした問題がweb10.0では遂に解決される。スマホ中毒のせいで、やりたいことを始めることすらできない、といった究極的な課題をようやく解決できる時代がやってくるのだ。

ネットは人々に生きがいを与えるための一ツールに過ぎないことを再確認し、その上で、中毒による支配の時代が幕を閉じる。真に求めていたものは何か?究極的に求めているのか?それに中毒になるほどの思いはあるのか?

こうした本質に向き合うことがweb10.0の世界観になる。便利だが中毒になりやすく、一度中毒になると、真にやりたいことができなくなるインターネットという側面に終止符を打つ。

ただこのweb10.0が出てくるまでは、インターネット中毒を超える方法は出てこない。そして、それは真にやりたいことの追求ではなく、あくまで需要を満たすことに過ぎない。それが真に欲しいものであるかは、売る側に見分けは付かないのだ。だからこそ、顧客や自らが真に求めているものは何か?を常に考えていく必要がある。

これが、web1.0→web10.0の世界観になる。これを考えるために、遠未来ジョブ理論が使われている。

究極化、集約・統合、根本否定の3つであるサービスのジョブを探すことができ、これら3つに共通することが新たなイノベーションになるというアイデアだ。これはジョブ理論を参考に考えられている。

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