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いい時間とお酒 ひと手間の妙 その1.1 缶詰め 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 閑話かなぁ

 私の目の網膜センサー経由で実際に見たことが有る最も年長の人は、祖母方の曽祖父。中国地方のとある町で代々杜氏(とうじ)さんを雇って酒造をしていた家系だったそうです。

明治になって鉄道が通っても駅まで他人の土地を踏まずに行けた位の身代(しんだい 資産のこと)が有ったそうてをす。しかし3年、仕込んだお酒が腐るという不遇に見舞われ、誰にも迷惑を掛けないぐらい廃業に伴う不都合の補填を取引先や従業員にして(廃業時にひと手間加えた…)、財産を失い没落したとのこと。

 いい時間とお酒から
 わるい時間とお酒へ


という感じでしょうか。それでも本人は国鉄の駅の駅長迄務めたので経済的には幸せで、いい時間とお酒も楽しめる人生を過ごしたようです。私はお酒を楽しんでいる姿は余りにも子ども過ぎて覚えていませんが…自転車をこよなく愛し、いつもピカピカに整備して乗っていたのは微かに…。
 でも酒造の家系という辺りが私がお酒を楽しむ遺伝子を持っている理由の1つと子どもながらに感じた最初でした。
 
 その家系の母方の祖母も普段はお酒は嗜(たしなみ)みませんでしたが、お正月や冠婚など機会が有れば多少は楽しんでいました。

 母方の祖父は、苦労人でした。父親を早くして亡くして親戚に引き取られたものの、数学好きが高じて高校まではいかせて貰えたそうです。そして地元の建築会社に就職してからは、“ともかく頑張る”を貫き技術系のトップ迄勤めてお作法通り監査役、社友と絵に書いた様な人生を送って100歳超えの天寿を全うしたのを知っています。仕事での接待のお酒は必要最小限。専ら自宅で家族と夕食を共にして大好物の鮪の赤身のお刺身をつまみにビールと仕上げに日本を少量楽しむという

家族とのいい時間にお酒をゆっくり嗜む

というスタイル。
 因みにスポーツマンで、例えば乗馬は徴兵されている間だけで、その前後はゴルフ三昧。広大な庭にゴルフ練習場を作って毎日お迎えの車が来るまで、出勤前の練習は欠かしませんでした。週末もゴルフ三昧。曰くスポーツマンのお酒は嗜む程度迄。

 その子の母親はお酒は全くだめで、料理酒も飛びが甘いと酔うと宣う嘘みたいな体質らしい…

 父方の祖父は、実業家で仲間とのいい時間を過ごしつつ、昼から自宅近所の居酒屋に毎日入浸り昼から従業員が全員帰宅する夜中までひたすらお酒を嗜んで居たそうです。
 まぁ、サラリーマンの成れの果ての時の私と一部被るかなぁ。私の場合は昼過ぎからはOBの幹部と現役に迷惑が掛からない時間帯縛りでお酒を飲みつつしどうを受ける、それが終わると所謂現役世代との会食と…(笑)

 父は、祖父の昼からの飲酒には学生時代から嫌悪感が有った様です。それでか実業家にはならず外交官に憧れ、弟に身代を譲り、色々有って結局外資系な石油会社の秘書畑の人生に。お酒は事務所での勤務時間後からで、大手町から直ぐの行きつけの築地の鮨屋の別館のカウンターの一番奥の席に常連さんとして陣取り、略毎日接待業務を熟(こな)していました。毎日人は変われど主変わらず。

いい時間とお酒

を会社の秘書業務に絡めるという”ひと手間“を加えて行きつけの築地の鮨屋で日々楽しんでいたようです。中締めは玉(ぎょく、握らず出汁の効いた玉子焼きをそのまま)締めは干瓢(かんぴょう)巻きだったなぁ。

そのプロトコルで、吾妹の両親との顔合わせをしたのですが、流石にプロトコル変換はしてもらえなかった様でしたが… まぁそれも父らしいか。

 そんな遺伝子構成なのでお酒を楽しめない筈は無いのですが、学生時代、特に20歳になった頃はからっきしで、飲み会を断る為に自動車で通学していました。

 思えば以下の事故でお酒が飲めるようになり始めた様な…
切っ掛け…

 自宅の屋根の上に上がって寝っ転がって昼からビール…
流れる雲や日差しに

これも今思えば人生にとっては

いい時間とお酒

だったなぁと

つづく


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