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ウクライナ戦争を理解する歴史知識3 大飢饉の次は大粛清=75万人犠牲 「富農」追放に続きポーランド系住民虐殺 ウクライナ・ベラルーシはその被害地 ウクライナ戦争に関する私見16 2022年8月24日現在
ウクライナの苦難は続く。
大飢饉が収束したと思ったら、今度はスターリンが「大粛清」(政治弾圧)を始めた。また百万人単位のソ連国民が犠牲になった。続いてナチス・ドイツがソ連に攻め込んできた。ウクライナは「殲滅戦」の戦場と化した。
まず今回はスターリンの「大粛清」について書く。
冒頭写真:ロシアのペルミ市(1940年〜57年はモロトフ市)郊外にある「ペルミ36」グラーグ(強制収容所)。現存するグ
ウクライナ戦争を理解する歴史知識2 第一次大戦で近隣強国すべて瓦解 ウクライナ初の独立国家樹立するも ボルシェビキ・ポーランド・ドイツに潰され ソ連統治下で死者500万人の大飢饉 ウクライナ戦争に関する私見15 2022年8月4日現在
第二回目の本稿は、20世紀に入ってからのウクライナの歴史を述べる。
まずは20世紀前半、第一次世界大戦とロシア革命から。
20世紀になってからのウクライナ史はテンポが早くなり、そして陰惨な出来事が連続で起きる。血なまぐさい。第一次世界大戦が始まった1914年から、第二次世界大戦が終わる1945年の31年間のウクライナは、数百万単位で人が死ぬ戦争、殺戮、破壊、飢餓の連続である。悲惨としか言いよう
ウクライナ戦争を理解する歴史知識1 異民族支配と抵抗の歴史 大陸ど真ん中「ウクライナ」の歴史は 朝鮮・インドシナ・バルカン半島に似る ウクライナ戦争に関する私見14 2022年7月29日現在
<前置き ウクライナの民族問題を理解するヒント>
2022年2月に始まった「第二次ウクライナ戦争」は、ロシア軍の侵攻以来5ヶ月が経過した。ウクライナは軍事大国ロシアに抵抗を続けている。彼の国の国民がかくも頑強にロシアに抵抗する姿を見て、その背景を知りたいと思った。そこにはウクライナ人が共有する「民族の記憶」があるはずだ。その歴史を知らずに現在の「ウクライナ」を理解することはできない。そう考えた。
地政学から見たウクライナ戦争 なぜロシアはクリミア半島にこだわるのか 海洋への出口をめぐる300年の闘争 ウクライナ戦争に関する私見10 2022年5月16日現在
今回の論考は、視点を大きく広げて考えてみようと思う。空間軸を地球全体、時間軸を100年単位に広げた「ビッグ・ピクチャー」にウクライナ戦争を置いて、それがどう見えるか考察する。
こうしたビッグ・ピクチャーから国際安全保障を考える思考については、拙著「世界標準の戦争と平和」(悠人書院)で詳しく述べた。興味のある方はそちらを参照してほしい。
同書で、地球を「海」「陸」「空」の3つの空間に分類し、地理
フクシマからの報告 2022年春 11年間封印された街に入った 3・11直後のまま腐ったコンビニ 鳥居が崩れたままの神社 かつて取材した避難者の家も消えた 福島第一原発から10キロ圏の現状
今年に入って、福島第一原発から10キロ圏内の封鎖があちこちで解除された。2011年3月11日の東日本大震災の当日のまま、住民が強制的に避難させられ、11年間無人になっていたエリアである。
激しい汚染のため、金属フェンスやゲートで一帯が囲われ、立ち入り禁止になった。一回5時間の「一時帰宅」の許可を行政から取らないと住民も入れなかった。
もちろん私のようなフリーランスの記者は立ち入りを許可されない
ガス輸出で「戦争経済」が回転 ロシアに経済制裁効かず 戦争は「月」「年」単位に長期化 ウクライナ戦争に関する私見9 2022年4月21日段階
前回の投稿から約20日が過ぎた。本稿では、その間に起きた出来事と流れを概観してみようと思う。
2022年3月29日にイスタンブールで開かれたロシアとウクライナ代表による対面の第4回停戦協議で、両者が合意の道筋に乗ったかと私は思った。開戦後約1ヶ月を経て、ウクライナ戦争が終結する光明が差したかと思いきや、戦闘はかえって激化した。
ロシアは懸念された国債デフォルトに陥らなかった。ドイツ、イタリアな
自国の歴史すら調べない日本マスコミは 戦争のようなクライシスに対処できない 報道貧困国ニッポンで 戦争を読むためのメディアリテラシー ウクライナ戦争に関する私見8 2022年4月1日時点
2022年2月24日のウクライナ戦争開戦以来、新聞・テレビといった日本の「マスコミ」(主に記者クラブにつながるマスメディア企業を指す)が流す
「ニュース」を私はじっと観察している。
CNNやBBC、ロイターやフィナンシャル・タイムズといった欧米の報道も見る。ウクライナ政府や同国内発のSNS、ロシアからの政府系・独立系メディアのニュースも両方見る。私はそれを頭の中で比較する。
私はかつて17年間
<フクシマからの報告 2021年秋> やはり放射性物質を運んでいた 福島第一原発から1キロを走るJR常磐線 茨城県ひたちなか市にある 洗車場と隣接公園の土壌線量データ入手 仙台・品川間を走る列車の汚染を確認
今回、JR常磐線の車両に付着した放射性物質の実測データを入手したので、記事を無料で公開する。懸念したとおり、同線の車両は福島第一原発から出た放射性物質を運んでいた。
2020年3月にJR常磐線(東京・上野〜宮城・仙台)が東日本大震災以来9年ぶりに全線開通した時、私が懸念したのは、福島第一原発事故で噴き出した放射性物質を、車両が付着したまま沿線に運んでばら撒いてしまうのではないかという点だった。悪
フクシマからの報告 2021年冬 10年前見た行方不明の家族を探すチラシそのお父さんにようやく会えた 自宅跡は核のゴミ捨て場に それでもなお娘の体を捜し続ける
2021年3月で福島第一原発事故の取材を始めて10年が経つ。その10年の間、ずっと気がかりでありながら、取材をする勇気が出なかったことがある。
震災直後の2011年の春、私は福島県南相馬市に入った。同市は原発から約25㌔のところにある「浜通り」(太平洋沿岸)地方の基幹市だ。
原発から20㌔圏が国の命令で「警戒区域」として立ち入り禁止にされ、30㌔圏は屋内退避になったころの話だ。私は、まさにその
フクシマからの報告 2020年秋 伝承館の中に本物の原発災害はない その外側で10年近く無人の双葉町 廃墟の街を歩いた写真ルポ
これから数回にわけて、福島第一原発事故直近の被災地の報告を書く。
まずは福島県双葉町から始めようと思う。理由は次の通りだ。
1)双葉町は福島第一原発が立地する地元である。
2)直近であるだけに、2011年3月11日に強制避難が始まり、翌12日午後3時半ごろ全町民7134人が町を離れた。それ以来、帰ってきた住民は2020年11月現在もゼロである。
3)町の面積のわずか4%だけが、2020
<フクシマからの報告>2020年夏 「私はモルモットでいい」 放射能に汚染された村で 9年間土壌や食品を測り続ける 伊藤延由さん(76)の記録
福島第一原発事故でもっともひどい放射性物質の汚染を浴びた村に住み続け、自分や自宅の被曝量を測る。除染前と除染後を比較する。
山菜を採り、作物を育て、その線量を測る。土壌の汚染を測る。それをインターネットやSNSで公開する。
そんな地道な作業を、事故発生時から9年以上続けている人がいる。
伊藤延由(いとう・のぶよし)さんという。現在76歳。伊藤さんが住んでいるのは、福島県飯舘村という標
フクシマからの報告 2020年秋 廃墟の街に出現した「伝承館」 外に広がる現在進行形の 原発災害に来館者は無関心
2020年9月20日、福島県双葉町に「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館した。私も同年10月上旬に訪問して展示を見てきたので、今回はその報告をしたいと思う。
新聞報道などで、この「伝承館」開館のニュースをご覧になった方も多いと思う。概略は記事のとおりだ。
「原発事故直後の混乱と復興の歩みを後世に受け継ぎ、記憶の風化を防ぐ」
「地上3階建て。総工費は約53億円」(注:国の予算)
「六つのエリ
<フクシマからの報告>2020年春 「人が戻らない」 再開3〜4年 事故前の人口を回復した市町村ゼロ 強制避難地域 帰還者の苦悩
2011年3月11日に始まった私の福島第一原発事故取材は、9年目に入った。
今回の論点は「かつて強制避難の対象になった市町村には、どれくらいの住民が戻ったのか」である。
東京で見る新聞テレビは、やれ「JR常磐線が全線復旧した」とか、やれ「東京五輪の聖歌ランナーが走る」(コロナウイルスで五輪そのものが延期にならなければ2020年3月26日に福島市を出発するはずだった)とか「復興」を演出する
フクシマからの報告 2020年春 JR常磐線開通に合わせて レッドゾーン道路だけ封鎖解除 9年間無人の街を前にマスコミは無関心
昨年の12月20日、こんな報道が流れた。
「政府は、帰還困難区域である福島県富岡町のJR常磐線・夜ノ森(よのもり)駅周辺の避難指示を、来年3月10日に解除する方針を決めた」
時事通信の記事は「帰還困難区域の避難指示が解除されるのは初めて」と誇らしげに言う。
(Google マップより。右上隅が福島第一原発。直線距離で6〜7キロ)
これは現場に行って、この目で確かめなければならない。私はそ