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中沢新一著『レンマ学』『精神の考古学』『構造の奥』などを読む

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中沢新一氏の著作『レンマ学』『精神の考古学』『構造の奥』などを読み解きます。
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「何も生まない空」と「生産性を持った空」ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(13)

(このnoteは有料に設定していますが、全文無料で公開しています) ◇ 中沢新一氏の『レンマ学』を精読する連続note。本編に続く「付録」を読んでみる。付録と言っても100ページくらいある。 第一の付録「物と心の統一」に次の一節がある。 「言語学をモデルとしてつくられた構造主義が、そのことによって文化的なものと自然過程に属するものとを分離してしまい、物質過程とこころ過程の統一的理解を、逆に阻んでしまっているように思われた。」(中沢新一『レンマ学』p.340) 言語と

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中沢新一著『構造の奥』を読む・・・構造主義と仏教/二元論の超克/二辺を離れる

中沢新一氏の2024年の新著『構造の奥 レヴィ=ストロース論』を読む。 ところで。 しばらく前からちょうど同じ中沢氏の『精神の考古学』を読んでいる途中であった。 さらにこの2年ほど取り組んでいるレヴィ=ストロース氏の『神話論理』を深層意味論で読むのも途中である。 あれこれ途中でありますが、ぜんぶ同じところに向かって、というか、向かっているわけではなくすでに着いているというか、最初から居るというか。 ようは同じ話なのであります。 すでに「ここ」に「すべて」が「ある」の

”心”の表層を剥がしていくと -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(2)

ひきつづき中沢新一氏の『精神の考古学』を読みつつ、ふと、松長有慶氏による『理趣経』(中公文庫)を手に取ってみる。かの理趣経、大楽金剛不空真実三摩耶経を、かの松長有慶氏が解説してくださる一冊である。 はじめの方にある松長氏の言葉が印象深い。 苦/楽 大/小 何気なく言葉を発したり思ったりする時、「その」言葉の反対、逆、その言葉”ではない”ことを、一体全体他のどの言葉に置き換えることができるのか、できてしまっているのか、やってしまっているのか、ということをいつもいつも、「頭

分別心と「霊性」/中沢新一著『精神の考古学』を大拙とあわせて読む

鈴木大拙は『仏教の大意』の冒頭、次のように書いている。 私たちは感覚的経験的に、なんとなく、自分を含む自分の周囲の世界はいつも同じ、昨日と今日も一続きで、ずっとおなじ一つ世界であるような感じがしている。 しかし、実は気づいていないだけで、世界は二つである、と大拙は書いている。第一に「感性と知性の世界」、第二に「霊性の世界」。 感性と知性の世界とは、通常、素朴に実在する客観的な世界だと思われているもので、確かに固まって、誰にとっても同じ、どっしりと安定した重たいものだと思

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読み終える

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読む。 三日間かけて最後のページまで読み終わる。 というわけで、これから二回目を読み始めよう。 前の記事にも書いた通り、わたしは中沢新一氏の著作のファンで、これまでもいろいろな著書を拝読してきたが、この『精神の考古学』も鮮烈な印象を残す一冊でありました。 最後のページから、本を閉じた後も、いろいろとめくるめく言葉たちが伸縮する様が浮かんでは消えていく。 この『精神の考古学』の読書感想文だけで100万字くらい書けそうな気がするが(1万字

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読み始める

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読んでいる。 私が高専から大学に編入したばかりの頃、学部の卒研の指導教官からなにかの話のついでに中沢氏の『森のバロック』を教えていただき、それ以来中沢氏の書かれたもののファンである。また、後に大学院でお世話になった先生は中沢氏との共訳書を出版されたこともある方だったので、勝手に親近感をもっていたりする。 中沢氏の書かれるものには、いつも「ここに何かがある」と思わされてきて、特に『精霊の王』、『レンマ学』、『アースダイバー神社編』は丸暗記す

生命体としてのシンボル分節システム ー感覚、イメージ、シンボル、ことば

国立民族学博物館で開催された公開講演「イメージの脈動にふれる」をyoutubeで視聴しました(現在は非公開)。 基調講演は中沢新一氏の「眼とイマージュ」である。 中沢氏といえば、私もこのところ『アースダイバー神社編』を読み込んでいたところである。「イメージの脈動にふれる」も繰り返し再生して拝見しました。 講演の中で中沢氏は、人間の身体の内部から発生する”脈動”するイメージについて論じる。 イメージというのは、私たちが他人の話を聞いたり、かつて経験したことを喋ったり、目

ユングの「変容」ー言語的無意識(アーラヤ織)のさらに先へ 中沢新一著『レンマ学』を精読する(9)

ひきつづき中沢新一氏の『レンマ学』を読んでいる。 今回は第八章「ユング的無意識」である。 無意識と言えばフロイトとユングである。 中沢氏はフロイトの無意識とユングの無意識を、「レンマ学」の言葉で次のように言い換える。 「フロイトの無意識もユングの無意識も、同一のレンマ的知性の働きに根ざしているものであるが、それが混合態で現れるか(フロイトの場合)、純粋態であらわれるか(ユングの場合)の違いがある。」『レンマ学』p.182 フロイトの無意識は「レンマ的知性」の混合態で

無意識-言語-脳をつなぐ「アーラヤ織」 ー中沢新一著『レンマ学』を精読する(8)

中沢新一氏の著書『レンマ学』を読む連続読書note、今回は第七章「対称性無意識」を読んでみる。 これまでのところで「生命」や「言語」が、レンマ学の概念の組み合わせを通して捉え直されてきた。そして第六章、第七章、第八章では「無意識」の概念がレンマ学の概念たちのペアからなる構造に写像され、新たにレンマ学的な対象として浮かび上がることになる。 無意識という概念の発見、あるいはフロイトによるその深化は、「近代」から「現代」への切り替えポイントであるとも言える。 無意識の発見が、

「レンマ」とは −中沢新一著『レンマ学』を精読する(4)

中沢新一の『レンマ学』を引き続き読んでいる。今回は50ページから80ページあたりまでを読んでみたい。 『レンマ学』で中沢新一氏はロゴス的な知性とは異なる「レンマ的な知性」の姿を描き出す。 知性というとロゴス的な知性とイコールで考えられることが多いようである。ロゴスを超えたところ、ロゴスの「外」に知性などあるのだろうか?というわけだ。 ここで出てくるのが「粘菌」である。粘菌は脳を持たないし、ロゴス的な言語も喋らないが、しかし栄養源を見つけそこに向かって集合体となって移動し

中沢新一著『レンマ学』を精読する(1)

中沢新一氏の『レンマ学』は「考える」きっかけが無数に織り込まれた一冊である。これを丁寧に読んでみたい。 まずは第一章「レンマ学の発端」である。 中沢氏はレンマ学で試みることを次のように明示する。 「レンマ学は、大乗仏教の縁起の論理を土台として、新しい「学」を構築しようとする試みである。かつて鈴木大拙や井筒俊彦によっても、このような「学」が構想されたことはあったが、いずれの試みも未完成に終わっている」p.14 この一節だけでも、幾人もの偉大な思考の先達とその言葉たちが、

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3次元の時空を出る :中沢新一『熊を夢見る』を読む

中沢新一氏の著作『熊を夢見る』を読む。 夢、というのは誰もが経験できるもので、それは確実に「ある」。あるいは「存在する」。 それでいて夢は物のようには存在しない。 「これが夢です」というものを箱に入れて置くことはできないし、フリマアプリに出品したりすることもできない(ただ、夢を売り買いするということは昔から行われてはいた)。  そういう夢で、「熊」を見るとはどういうことだろうか。 リアルな3次元の時間と空間を抜け出るさっそくページを開いてみると次のようにある。 「

中沢新一『レンマ学』×ユング『元型論』を読む −レンマ的知性がアーラヤ識に映し出す影としての「元型」

中沢新一氏の『レンマ学』を読んでいる。 レンマとは何か? レンマはロゴスと並ぶ、もう一つの「知性」の姿である。 ロゴスとはロゴスの知性というのは、言語やニューロンの信号処理や最近のAIがそうであるように、互いに区別される複数の項を順番に並べていくという動き方をする。区別されたものを並べる。数える。配置する。私たちの理路整然とした言葉や「数」の観念は、そういう知性によって動いている。 レンマとはそれに対してレンマ的な知性は、ロゴス的知性とは異質な姿をしている。 レンマ

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