P21. 世界を認識しながら真我は実現するか?―世界が実在するという信念が消えない限り(真我は)得られないだろう―とマハリシ。俄かにこの世界が総て妄念とは思い難いが如何に看破するか。認識することと、そうであることの違いか。認識と言う動機に囚われれば二元の始まり無条件な至福はない。
人(動物)の命が消えたら無くなる不可逆なものであるという通念、この古き良き道徳は、DX:データ再現性の向上により、形骸化するだろう。 定量的で保管可能なものが命になるから 悲しむことはない。 そう、もはや悲しむことはない。 そもそも文化機序にすぎなかったのだ。 『無痛文明論』
頭の中で「昔のこと」と信じているものは、今目の前で対峙しているあるがままとは全く違うものなのだ。過去も未来も思いの中にしかない。それをも含めての今ここのあるがままで、また時間の概念は高度な生存本能を満たすには必要なのだけど。だが時の概念に縛られて歩めなくなる事も多い。
我という存在自体がうつりゆく結縁の結果なのに、そこに錨を下ろして不動のものとなれば、流れの抵抗にあい苦しむことだろう。されど我がゆえに、私の根幹を成す我を手放すことはできない。その執着心すらもありのままに受け入れることだ。さすれば観察者たる真の我に至れる。