心の中に願望や欲望があまりにも多くありすぎると、それに耳を傾けて、私たちの外にある事物の純粋さを捉えられなくなります。遺憾ながら、私たちは激情の対象となる事物を重要とし、激情と関係のない事物を重要でないとしていますが、実は反対であることが多いのですよ。 晩夏(上) 筑摩書房
ただ沈黙のみが 真の我へ立ち返る道となる。
夕暮れ時 沈む太陽 朽ちた光が照らす オレンジの絶壁。 なんだか懐かしい海の香り、 足先をくすぐる 生暖かい緑の波。 椿がポトリと落ちるように 終わりゆく世界 朝顔が目を覚ますように 生まれてくる世界。 ここは境界線。 霧散する世界 湧き出る生命。
言葉であるがままの世界を切り分けて 頭の中でそれをこねくりまわしている。 そのやり方で世界を見る限り あるがままと人は限りなくズレていく。 そのズレに 人間はこれからも苦しんでいくけど こんなに惨めな存在だけが 世界をそっと認めてあげることができる。
人である以上言葉で語る。でも語るほど「あるがまま」と分離していくことを感じるでしょうよ。そんなときは「息」に意を凝らせばよい。「息」は無意識と意識の境界。自然にされるが、意識してもできる。私がたやすく「あるがまま」から離れられるように、還ることもできる。そのことを確信できるのだ。
言葉とは「あるがまま」の世界を分別する道具であり、用いれば用いるほど価値や意味は生まれ細分化されていくけど、それは極めて恣意的なもので真理を探求する心に応えられるものではない。それをも「あるがまま」なのだけど。ともかく、そんな偽りをも言葉でしか言いあらせないたまらない矛盾。
「なぜ人を殺してはいけないの?」と懐疑する者に「それはね。人間には無条件に備わった生存本能があり、それをよりよく満たすために社会を構築する必要があるんだよ。そこで殺人という天性の本性に背く行為を認めるわけにはいかないんだ。生きるための秩序を壊すわけにはいかないから。みんな本能的に生きたいから」という合理的正論で答えても意味がないくらい分かっている。君らが知りたいのはそういうことじゃなくて「根本的な存在理由」や「死への憧れ」だったりするからな。でもな、そういうのは言葉遊びなんだ
ブラック労働が悪なのではない。そのことで成果が出せなくなったので、ブラックとされる労働が悪となったのだ。高度成長期を見るといい。今以上に労働環境はひどかったが、その実りが豊かゆえに、現代と比べて問題とならなかったのだ。 断言できるが、もし人が死ぬような環境でも、今日より明日と成果に応じて稼ぎも伸びていくのなら、死屍累々となろうとも当事者以外は問題にしないだろう。
認知しあえることで自我は成り立つ。誰とも関われない自我は穏やかに歯車を違えていくだろう。我らは己を「かたどる」のではない。「かたどられる」のだ。誰もが隣人との縁なしには、己を保てない。
いわゆる世間一般の「老人のより善く生きる方法論」とは、人生五十年とか言われていた時代のものであり、栄養状況の改善や医療の発達などで長く伸びた老後に適用されるものではないだろう。長い老後を超える鍵は「適切で人のためになる労働」。額に汗水垂らして働くのは、パンのためだけではない。
隣人との不愉快な揉めごとの大半が、口を慎むことと「よく考えておきます」の一言でおさまるのだが、いたずらに自身の考えを声高に訴えて、思いに執着することで事態は紛糾するのだ。
国はマグロ漁船にたとえられる。 そこには客員はいない。 全員乗員だ。 マグロが不漁のときは、船長の責任が一番大きい。 だが乗員にも相応に責任がある。 船長の責任を糾弾してもよいが、己の力が至らぬことも自覚しなくてはならない。 糾弾が航行の妨げになるのも本末転倒だ。 また成果を挙げられないものが声をあげても、そこには説得力がない。 まず己の部署でプロフェッショナルとなり、望まれる以上の成果を出すこと。 その者が挙げる声こそに、人は耳を傾ける。
宇宙のコトワリをすべて修めている者でない限り 結局、自我ある存在の行動は、どこかでなんらかの信念を盲信して定められるものだ。 そもそもコトワリとされるものも、あるがままの宇宙を自我が分別して恣意的に決められるモノ。 どんなに高度な存在でも、自我がある存在である以上、盲信した信念に従い動く。 自我なきあるがままは、そのままうねる。 それでいい。 自我の存在、信念、盲信…そんな価値も分別の結果生まれたものに過ぎず 宇宙はそれらすらもあるがままとして、泰然として、在る
神を仲介人とせずに、個を成立させようとしても、退廃した魂が残るだけだ。 人はその光景を見て慄然とするも「我はそうならじ」と祈りや信仰を放擲して、自身の力のみを頼り 虚しく先人の轍を踏む。 この先人々が個人主義を歩もうとするのなら、神との関係を見直さなければならない。
神に謙虚にも「ただ私の行いを見守ってください」と祈るのは、たやすいし正しい。 だが実際に、何かに失敗して恥辱に塗れたときも「ただ見守ってください」と祈り続けることは難しい。 それには自我への執着を棄てなければならないし、きっと屈辱とはそのための契機なのだろう。
雨だれが水たまりに跳ね返る音を それがズボンの裾を濡らす冷たさを 聞いているのではなく、感じているのではなく ただそこにある世界を、雨だれとか感覚に分別して あまつさえ我までこさえて 無数の意味に分かつているのだ。