神に謙虚にも「ただ私の行いを見守ってください」と祈るのは、たやすいし正しい。

だが実際に、何かに失敗して恥辱に塗れたときも「ただ見守ってください」と祈り続けることは難しい。

それには自我への執着を棄てなければならないし、きっと屈辱とはそのための契機なのだろう。

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