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#4 毒親と絶縁計画〜逃亡先の確保編〜
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。
今回は、逃亡先(引越しや寮付きの仕事)の確保について。
ネットで検索して様々な人の意見に目を通した時、「引っ越して住所を教えない」という方法を見つけた。初めは、え。そんなことして良いの?できるの?と驚いた。
私の母は、私の現住所を知っているし一度だけ来たこともある。鍵も渡してある。連絡はそこまで頻繁ではないけれど、いつどの
お祝いごとに良い思い出がないという話。
卒業式、入学式、成人式。生きていれば節目のお祝いという行事はつきものだ。
一番はじめに印象に残っているのは、小学校の卒業式。
みんな、近所の中学に通うことが決まっていて、連絡を取り合えばすぐに会える距離だというのに「悲しい」「寂しい」と泣いていて、私には理解できなかった。
泣く同級生を慰めながら、全く泣く気配のない自分に「アンタは冷たいね」と言った母の言葉が頭を過っていた。
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#3 毒親と絶縁計画〜毒親と連絡遮断編〜
今回から、計画ひとつひとつに焦点を当てて実行した際の出来事や感情、結果についてまとまていく。
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。
今回は、毒親との連絡を遮断(電話番号、メール、LINE等)について。
計画編でも簡単に触れた通り、私の親はしょっちゅ連絡を寄越す人ではない。
現在実家から離れて、パートナーと二人暮らしをしている。
絶縁しようと思ったきっかけ
#1 たまに見るリアルな夢の話〜空の保育園〜
たまに夢を見て起きると、泣いていたりまるで夢の中が現実の世界だったかのような錯覚に陥ったりすることがある。
今日はそんなたまに見るリアルな夢の話。
その夢の中での私は、まだ幼くて三歳くらいの男の子だった。いつもお兄ちゃんと呼ぶ男の子に引っ付いて居て、そのお兄ちゃんが大好きだった。多分兄弟だったんだと思う。
私たちは空の保育園にいた。
そこは、生まれる前の子ども達が集まるところ。現
生きづらさと病気の話。
生きづらさは、小学生くらいの頃から抱えていたと思う。
まず友達との関係性というものにぶち当たった。
省かれたり突然無視されたり、学校へ行くのが億劫だった。
私に原因があるんだろうと考えても、何が原因か自分で見つけ出せなかった。今でもよく分かっていない。
当時は学校には必ず行かないといけないという認識が強かったのと、いじめという概念がなかったので誰にも相談することなく過ごしていた。
泣く=罪という意識の話。
少し前まで、泣くということはしてはいけないことだという認識で生きていた。
「泣く子はウチの子じゃない」「泣くなら出て行け」「泣くな」「うるさい」
小さい頃から泣くことを否定され続けていたから、泣くということが悪いことだとずっと思っていた。泣くということは、捨てられてしまうということだ。
かと思えば、「泣かないなんて冷たい」と言う時もある。けれど、泣けと言われるより泣くなと言われること
#2 毒親と絶縁計画〜計画編〜
前回に続いて、今回は計画編。
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。
この記事を書いている現在、計画進行中だ。
今回は計画と、その簡単な説明を添える形で進めていく。
○毒親との連絡を遮断(電話番号、メール、LINE等)
○逃亡先(引っ越しや寮付きの仕事)の確保
○お金の用意
○住民票や戸籍の附表(ふひょう)の閲覧制限をかける
○毒親に繋がる全ての関係(毒親以外の身
#1 毒親と絶縁計画〜きっかけ編〜
私は二十数年間、母として存在した人間と縁を切ろうとしている。
この記事を書いている現在、計画進行中だ。
今回は、毒親と絶縁計画〜きっかけ編〜である。
生い立ちやらなんやらは他の記事で書いているので省略。(気になる方は下からどうぞ)
簡潔に言えば、好きな人を毒親に会わせたくないという気持ちがきっかけだ。
好きな人が出来て結婚を意識するようになったら、両親に紹介することは当たり前の
ママから毒母に変わった話。
#名前の由来 というタグを見て、自分の名前について考えた。
「誰からも愛され、自分も誰かを愛せるような人になりますように」「白い小さなお花のような可愛らしい女の子になりますように」
私の名前はこの願いと共に与えられた。
小さい頃、私は自身の名前を大変気に入っていた。漢字を見ても華やかで、口に出してみても丸くて棘の無い名前。由来も含めて大好きだった。
どうでも良いが、父は私に初恋の
行方不明の父親と偶然遭遇した話。
以前、
で、「(実は後にばったり出くわすことになるんだけど。それはまたの機会に)」と父について綴った話を詳しく書いていこうと思う。
私の両親は、私が一歳半の頃に離婚した。以来、一人暮らしをするまで母に引き取られて育てられてきた。
母からは、「たった一人の父親だから、会いたい時に会っていいんだよ」と言われていて、定期的に父に会わせてもらっていた。電話でやり取りをして、約束を取り付ける。
意識高い系になろうとして失敗した話。
実家から逃れる形で一人暮らしが始まった。社会人一年目である。
母から解放された私は自由になった。
好きな時に何でもできる。制限やルールがない。最高だった。
よく一人暮らしを始めて親の有り難みが分かると言うけれど、全くもって分からなかったし、ホームシックなんてものとも無縁だった。あの息苦しい世界から出られたことが何よりも幸せで、洗濯や掃除が楽しくて仕方なかった。
仕事も楽しかった。幼い