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意識高い系になろうとして失敗した話。

 実家から逃れる形で一人暮らしが始まった。社会人一年目である。


 母から解放された私は自由になった。
好きな時に何でもできる。制限やルールがない。最高だった。

 よく一人暮らしを始めて親の有り難みが分かると言うけれど、全くもって分からなかったし、ホームシックなんてものとも無縁だった。あの息苦しい世界から出られたことが何よりも幸せで、洗濯や掃除が楽しくて仕方なかった。

 仕事も楽しかった。幼い頃から人の目を気にするという特技のおかげで、相手の小さな変化に気づける。体調が悪い、嫌なことがあった、何か不満がある、イライラしている。相手のネガティブな感情が手に取るように分かる。

 だから相手の愚痴に付き合ったり、小さな変化を心配したり褒めたりすることで人間関係も上手く立ち回れた。学生の頃と違って社会では、自分と合わない人間への対処法は攻撃でなく距離を開ける。これが大きな違いであり、なんとも楽だった。

 過去の私との決別。そして、これからの人生を幸せに生きていこうと張り切っていた。

 とにかく意識を高く持って行動するようになった。仕事にも積極的に取り組んで、上司の教えを乞うようにした。新しいことにチャレンジさせて下さいと頭を下げて頼んだ。

 会社はそれを喜び、私をまるで社会人一年目のモデルのように大切に扱った。
会社の求人募集の宣材に使われたし、就活生の説明会にも連れ出されてこの会社がいかに素晴らしいかを説いた。そうしていくことで会社はどんどん私を必要としてくれることが分かって、やっぱり幸せだった。

 そして、この高揚感のままの勢いで母との関係改善を進めようとした。
月に一度は実家に帰り、数時間滞在して帰る。それが慣れたら外食。それが慣れたら終電まで実家で過ごす。

 初めは良かった。ひとり立ちした娘を母は気遣ったし、実家に顔を見せる私は自分が少しずつ親孝行していると信じていた。

 だから順調に事が進んでいると感じていたある日、酒に酔った母の機嫌を損ねて、実家で暮らしていた頃のように怒鳴られた瞬間に全てが狂ってしまった。

 たった数ヶ月。その数ヶ月の間あの痛みを感じなかっただけで、防御が丸っきり出来なくなっていた。道を歩いていたら、突然誰かに襲われた。そんな衝撃と恐怖。

 母の怒りを全身に喰らい、私は実家から出て駅までの三十分の道のりをひたすら泣きじゃくりながら歩いた。途中、ベンチに腰掛けた見知らぬおじいさんが私に聞こえるか聞こえないかの声量で「大丈夫だよぉ。大丈夫だよぉ」と言っているのを聞いて、更に泣いた。

 私に向けての言葉なのかは分からないけれど、何が大丈夫なものか。こんな人生全く大丈夫じゃない。消えて無くなりたい。と、心底思った。

 そこから仕事も億劫になっていった。あれだけ昇進に意気込んでいたはずなのに、会社が押し付ける私の評価に本当の自分が「こんなに立派じゃない!」と抗議する。「本当の私は臆病で周りに心をすり減らして、居場所を無くさないように必死になっているだけの知識も技術もない人間じゃないか!」

 きっと初めから自分は心の中で主張していた。
誰かの愚痴を聞くたびに、「私に相談するほどの価値はないですよ」とか。新しい仕事を嬉しそうに教える上司に、「私、要領悪いからそのうち大きなミスをして困らせますよ」とか。後輩に仕事を教えるたびに、「私から説明を受けるなんて可哀想だな」とか。

 周りが私を過大評価していくことに、私は耐えきれなくなった。

 そして、二年半で仕事を退職した。
溜まった有給を消化している間、連絡を寄越す人間は会社には存在しなかった。いつの間にか会社の求人募集から私が消えていた。やっと私の本当の評価が下されたようで安心した反面、少しだけ寂しかった。

 あの頃を振り返ると、がむしゃらに幸せを掴もうとチェーンの外れた自転車を一生懸命に漕いでいるような空回りしていた自分を思い出す。後ろを振り向かないように前だけ見ようとして、自分の足元が進んでいないことに焦りながら、思い描く理想に追いつこうと必死に漕ぎ続ける自分。

 こうして自転車から降りてみて思ったこと。
たくさん後ろを振り向く瞬間はあるけれど、地面に咲いた花に気付いて少しだけ明るくなれる瞬間というものもあること。乗り物に乗って前に進めれば早いけれど、自分の足で一歩ずつ歩いていくということでいま広がる景色に目を向けられること。必死にもがいていた世界は、実は思っていたより温かいらしいということ。

 綺麗事や一筋縄ではいかないことも多い。実家を離れて紆余曲折ありながらもなんだかんだで会社の一員として働き続けると信じていたのに、結局私は退職を経験してnoteにちびちび文章を書き連ねている。実際退職してからもしんどいことはたくさんあった。

 だけど大丈夫。少しずつ進んでいるよと自分を抱きしめてあげたい。


 ※素敵なイメージは、トミーさんから拝借いたしました。ありがとうございます。

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